空が落ちる日
重くのしかかる圧を全身に感じながら、現状把握に努める護衛騎士たち。
その目に映ったのは、仕えている男の腕を右手で掴む黒衣を纏った者だった。
しかし、騎士たちに動揺が走る。
まばたきをする間もなかったはずの刹那に、自分たちに気づかれず追い越すことなんて可能なのだろうかと。
いや、それは絶対に無理だと彼らは確信した。
もし本当にそんなことができるのならば、人の領域を超えていることになる。
それではまるで、教会が謳う"女神の使徒"そのものになってしまうだろう。
思考の中で彼らを現実に引き戻したのは、耳に届いた異様な音だった。
男の腕を掴む手に力が入り、みしみしと音を立てる。
堪らず顔をしかめた男は掴んでいた少女の黒髪を離した。
それでも力を緩めない黒衣の男に鋭く睨みつけると、怒号を上げた。
「ゴミクズがッ!!
誰に触れて――ッ!?」
硬い物が割れたような鈍い音が周囲に小さく響き、男は悶え苦しむ。
同時に手を離した黒衣の男は暴言を吐こうとした相手の顔面に左拳を当て、直線状に殴り飛ばした。
静寂から悲鳴が飛び交う館内。
30メートルはある壁まで、それも大の大人ひとりが転がりながらでも殴り飛ばした腕力は、男の護衛者たちを恐れされるには十分すぎる効果を見せた。
だが、それでも男にこれ以上の刺激は看過できない。
そう考えた騎士たちは、転がる男へ駆け寄ろうと力をわずかに込めた。
「静観しろ。
動けば未来はない」
黒衣の男は凄まじい威圧を込めながら護衛者たちの動きを制限した。
それは黒い霧のような禍々しいもので、自分たちが仕えている"魔物"とはまったく別次元の存在だと本能的に悟った。
マルティカイネン家は危険どころではない狂人の集まりだ。
存在し続ければ摘み取られる命で山がいくつも築けるほどに。
だが、眼前の男はまるで異質。
貴族の男など、所詮は人間の悪党なのだと瞬時に思い知った。
これは"魔王"。
決してヒト如きには抗えない存在。
斃すことなど、ヒトの手には余りすぎる。
同じくヒトを超えた勇気に溢れる者か、女神の使徒でもなければ不可能だ。
それをたったの一瞬で嫌というほど思い知らされた。
痙攣するように足が震え、倒れることすら許されなかった。
今も壁際に転がるモノをつまらなそうな視線で見る黒衣の男。
未だ起き上がれずに悶絶するモノへ右手を伸ばした男は、短く言葉を発した。
「"アトラクティブ・フォースⅡ"」
なす術もなく引き寄せられた男。
その顎を左拳で跳ね上げ、空中に浮く体を仰向けに回転させた。
腹部へ右拳を振り下ろして地面に叩き付けると、続けて男は言葉にした。
「"グラビテーショナル・ウェーブⅡ"。
"ステータスエフェクトⅣ・パラライズ"」
強制的に地面へ張りつけられた男の姿に恐怖しながらも騎士たちは、硬いもので叩いているかのような音を口から鳴らし続けた。
まるでゴミを見るような冷たい視線を向ける黒衣の男は、まばたきすらできなくなった硬直する男の腹部を踏みつけながら、重々しい言葉を静かに放った。
「娘が世話になった。
礼をするから付き合え」
見開きながら表情を引きつり、呼吸すらロクにできていないのではないかとも思える男が床に転がる様子は、周囲にいた人々に途轍もない衝撃を与えた。
交渉の席で彼が見せていた優男にしか思えない印象からは想像すらできなかったほどの禍々しさに、別人だと感じてしまうのも当然かもしれない。
同時に、本当に怒らせてはいけない存在が誰なのかをようやく理解した騎士たちは、強く震えながらも黒衣の男から視線を外すことすらできずにいた。
危険な貴族家など、この男に比べれば取るに足らない存在だった。
まず間違いなく眼前にいる者であれば単独で潰せると確信した。
そしてあの家系が行ってきた非道の数々は、所詮悪党の域を出ないのだと。
しかし、黒衣の男は違った。
この男はすべての例外すらをも己が力で叩き潰し、この世界の理すら破壊しかねない存在だと騎士たちには本気で思えた。
マルティカイネン家?
大貴族が持つ権力?
数千人の私兵?
黒衣の男を前にすれば、すべてが希薄だ。
所詮はヒト。
おぞましい行いをしていようが、ヒトであることに変わりない。
だが、この男は明らかに異質だ。
騎士たちは震えながらもそれを確信した。
絶対に怒らせてはいけない。
絶対に敵対してはならない。
それを本能に刻み付けられた男たちだった。
アトラクティブ・フォース
対象を強制的に引き寄せる闇属性魔法。
グラビテーショナル・ウェーブ
任意の場所に重力波を作り出し、範囲内のすべてを押さえつける闇属性魔法。
ステータスエフェクト
対象に弱体効果を付与する闇属性魔法。




