禍々しい闇
それは風。
そう言葉にするのが一番適切かもしれない。
木々を避けながら進むその姿はまさに風そのもので、周囲の動物だけでなく魔物ですら視認できないほど速かった。
肩高約2メートル、全長約3メートルはあろうかという巨大な狼だ。
白銀の毛並みはまるで宝石のような輝きを放つが、それを美しいと感じさせない赤黒い色で体を染めていた。
けれどその眼光は非常に鋭く、並の魔物程度ならそれを見ただけで逃げ出す。
そんな存在が、浅い森とも言えない林を駆け抜けていた。
まるで何かから逃げるように。
前方に気配を感じ、脚を止める大狼。
先ほどまで後方にいたはずのそれに警戒心を強め威嚇する。
瞬間、ぞわりと毛並みを逆立て、右に飛び退く。
だが避けきれずに左腹部を大きく抉った。
通り抜けるように後方へと向かったそれに魔法を放つ。
"ヘイルストーム"。
鋭く大きな氷塊が無数に敵へと向かう攻撃魔法だ。
ほぼ命中したと確信するも、手応えをまるで感じない。
土埃に隠れ、気配が消える。
それでも大狼は警戒を緩めない。
左方上空から気配を感じ、その場から飛び退く。
先ほどまでいた地面にへばりつくようにそれがいた。
まるで禍々しい闇。
それも混沌の中から生まれ出たような歪な存在。
これは明らかに魔物ではない。
いや、生物ですらないと思われた。
当然こんなもの、長命な種族である大狼も知らない。
欠片ほどにも聞いたことがない。
おぞましい。
その一言に尽きる。
眼前のそれは、大狼を捕食しようと動いてはいない。
あれはそんな生物の理からかけ離れた存在だ。
恐らくは取り込もうとしているのだろう。
そういったおぞましさを常に感じ取っていた。
だが、彼女もまた最強種と生物から恐れられる存在の一角。
相手が不気味だからといって、そうおめおめと逃げ続けたりはしない。
魔力を溜め、次の一撃に備える。
腹部の痛みよりも苛立ちが募る。
これまで攻撃をし続けても、なんら動きを変えることなく迫ってくる。
強い魔物であろうと魔法を直撃させるだけで退けられるが、眼前のそれは明らかにそんなモノではなかった。
そういった存在ですらない相手へ、"フリージングブレス"を放つ。
相手の足元を氷漬けにして行動を阻害する魔法で、敵の動きを止めた。
続けて彼女は先ほどから溜めていた魔力の一部を開放する。
問題のそれに、かなり高度な魔法を直撃させた。
対象がいる地面から氷山をいくつも突き立てる魔法"アブソリュート・ゼロ"。
人間で言えば、大賢者や大魔術師と呼ばれた至高の存在だけが扱える大魔法だ。
こんなものを直撃してしまえば、確実に命を刈り取られる。
これはそういった恐ろしい魔法だった。
しかし――
氷山から槍のように黒い何かが迫り、彼女の胸部から背中を貫く。
初めて明確な敵意を向けたそれは、彼女を取り込むことを止めたのか。
苦悶の表情を出す彼女は、焦点の合わない眼で視線を向ける。
同時に怖気立ち、瞳を大きく開けた。
胸を貫いた場所を目指し、凄まじい速度でそれが迫っていた。
目的は彼女を取り込むこと。
それが変わらないのだと知った。
高速で眼前にまで迫るそれに、これまで溜め続けた魔力を解き放つ。
周囲50メートルのすべてを氷の世界に変え、敵を完全に凍り付かせた。
彼女の種族に伝わる最高の威力を持つ技"ニヴルヘイム"。
これでだめなら、もう彼女にはなす術がない。
これはそういった最後の技になる。
激しい呼吸を整えながらも鋭く睨みつけるようにそれを確認していた彼女は、重々しく脚を引きずりながらも警戒を怠ることなく、前に進み続けた。
この時の俺は、何も気がついていなかったんだ。
いや、この件が終わったあとも俺は気づけなかった。
想像すらしていなかった事態が、すでに起き始めていたことに。
それを知ったのは、遙か彼方とも言えるほど先になる。
ともかく、この時に起こっていたおぞましい現象が、俺達全員の運命を大きく変えることになるとは、誰も気がついていなかったんだ。
この世界にいる誰も、気づいてすらいなかったんだ。