雨に異常者に
夢を見た。とても変わった夢だった。遠くのほうで長い笛の音と、ささやかな鈴の音が聴こえた。その音に合わせて鮮やかな色の布が、ゆっくりと揺れていた。その布の間からほんの一瞬だけ見えた横顔は、知っているような気がした。
嫌な汗が流れた。
だ、だ、だ、と硬い音がする。
目を開け、窓の外を見る。この時期には珍しい、強い強い雨が降っていた。窓も、家も、街も雨と風が削っているようだった。
上着を羽織り、傘を持って家を飛び出す。
目を開けられないほど、雨は強かった。
傘を閉じたまま持ち、全速力で走る。雨が当たり痛い。風が吹いて寒い。靴の中に水が入ってきて気持ちが悪い。
全部全部、どうでもいい。
とにかく不安だった。具体的にはわからない。
この世界から一つ、色が消えてしまう。
カフェの前を通り抜ける。紅夜と出会った日に行ったカフェだった。まだ陽も登っていないのに、薄くコーヒーの香りがする。
コーヒーの香りは落ち着く。でも今回は当たり前に落ち着かない。
ほんの少し立ち止まり、息を整えてから、また全速力で走る。
赤色が目に入る。そして神社に着く。あんなにも濃かった紅葉は散ってしまい、黒くごつごつとした幹だけがえらく目立つ。
紅夜は紅葉の木の下に倒れていた。髪は顔の前に落ち、肌は青白くなっていた。あの強烈な白色は透明に近づき、消えかかっている。紅夜の周りの散った紅葉だけが血のように赤く、そこに広がっていた。
「僕を狩れ」
雨にかき消されないよう、声を張る。
紅夜は小さく首を横にふる。
「紅夜は生きたいと、思っているんだろう。なら、生きろよ」
紅夜はきっと、ものすごく長い時間を生きたのだろう。人間を狩り、苦しみながら死ぬことを静かに待っていたのだろう。そんな人生で今、紅夜は生きたいと言う。それは幸福で、祝うべきことだ。生きたいなら生きるべきだ。
「初めて、生きたいと、思ったんだ。この気持ちを、長い時間の中で、忘れたくない。人間じゃなくても、人でありたい」
「忘れても、また見つければいい。生きたいなら、生きたくない僕を殺して生きろ」
紅夜が弱々しく、上半身を起こす。そして僕をまっすぐに見据える。その目はただひたすらに強かった。
「どうして、生きたくないの」
「色がないから。みんな透明で、そうなりたくないと思っていたのに、僕は透明になってしまったから」
「色はあるんだよ。君はまだ感じることができなくて、透明に見えてしまうけど、幼い頃に見ていた世界よりも、これから見る世界のほうが、ずっと色が多いんだよ」
「じゃあ君は誰なんだ」
「ずっと、過去に囚われて、動くことを諦めた、異常者だよ」
何か言わなければいけなかった。でも何も言えなかった。結局激しく咳き込んで、涙目になりながら、紅夜を睨んだ。
「それでも僕は救われた」
紅夜はふんわりと微笑む。それは色がない、透明な笑みだった。あんなにも人間らしい吸血鬼だった紅夜は、今はちっとも人間に見えない。
それなのに、こんなにも僕は紅夜の笑みに魅了されている。
「私も豊に救われたよ」
紅夜はそう言うと、僕がまばたきをした間に、一葉の紅葉になってしまったようだった。