8番目の有意義
「人間って不思議よね」
女の子が言う。出会って二週間たった、休日の昼下がりだった。
「どんなところが」
「人間は十年やそこらで人格が形成されるでしょう。僅かすぎるほど少ない経験の中で、自分のアイデンティティを確立するのよ。不思議に思わないはずが無い」
確かに、吸血鬼の女の子からしたら、十年で人生の色を決める人格を形成するのは、早計にみえるかもしれない。人格を決めるには、まだ経験という材料が乏しすぎるように思える。でも、人格を形成するために経験積めるほど、人の人生が長いというわけでもない。
「人格は変わることだってある」
「たとえ多重人格者でもね、根っこの部分はきっと同じ。子供の頃の経験がもとになっているもの。人格はね、自覚しているよりも早くに形成されていて、それが大きく変わることなんてない」
女の子は髪についた紅葉をはらう。紅葉は初めて見たときよりも色が濃くなっていた。
「人間はきっと、経験した多くのことを覚えているんだろうね。人の愛情や身に起きた悲劇を、ずっとずっと覚えている。だからあんなにも美しく、強く生きたがる」
「すぐに忘れてしまう人だって、死にたがりの人だっている」
「生きるためだよ。生きるために忘れたり、死にたがったりするんだ。肉体的な意味だけでなくてね」
「だったら君も、人間とそう変わらないんじゃないか」
女の子は首をふる。その仕草は人間と全く同じで、自然だ。
「全然違うよ。強靭な肉体を得て、ただ長いだけで何も成し遂げられない人生を、生きたいと、強く願う人間の血を啜りながら生きてきたんだ。生きるためじゃない。いつか死ぬ、その時のために血をすすったんだ」
「だから今は、人を狩っていないのか」
「どうかな。もしかしたら明日、君を襲うかもしれない」
秋の風が僕らの間を通り抜ける。思っていたよりもずっと、冷たい風だった。
「僕は生きることにあまり積極的でないから、別に構わないよ」
女の子はふぅーとため息を吐く。それは秋風よりかは、温かいもののように思えた。
「君の名前、なんだっけ」
「あつ」
「じゃあ、あつ。君は人間になれるまで生きなくちゃいけない。人間なのに人間になりきれないのは、死んでしまうことよりも悲しいことだよ」
僕は何も言えなかった。水紋のような、動きがあるのに寡黙な沈黙が僕らを包んだ。その時間は僕の人生の中で、多分、八番目くらいには有意義な時間だった。
「君の名前は何」
「紅夜だよ。母につけてもらったんだ」
「ふーん。いい名前だね」
顔をあげると、遠くの方で、日がビルの影に隠れているのが見えた。
秋の昼は、思っているよりもずっと短い。
僕は紅夜と別れて、家へと向かった。
硬いアスファルトは、灰色で、冷たく、つまらない。その上を歩いている僕は、いてもいなくても同じくらいに、普通で、平凡で、色がない。今、あの大通りに飛び出して、この世界から僕のアイデンティティが消えたとしても、明日の色は変わらない。
人間はほとんど色を持たない。この不自由過ぎる世界を生きるために、水を少しずつ足して色を薄める。自身が傷つかないように、無意識に、この世界に受け入れられる色へと変化させていく。
紅夜は、僕が人間になりきれていないという。こんなにも透明な僕は、もう人間なのではないのだろうか。どうしたら紅夜が言う、人間になれるのだろう。
その夜、街の気温が三度にまで下がった。