白
朝だというのに、音が多い。
人の話し声や足音。車のブレーキの音。ビルにつけられた画面からながれる、動画広告の音。
たった二つの耳では拾いきれないほどに音に包まれているこの都市は、賑やかそうに見えるが、そうでもない。
色がないのだ。赤も青も金も、全て薄い灰色が覆い隠してしまっている。
横断歩道を渡る。着ているパーカーが風を受けて、小さく揺れる。自分のつま先が、白色の線を出たり入ったりする。
いつもと何も変わらない。冷たくて、退屈で、どこか退廃的なこの街を、透明な僕が歩く。この横断歩道を渡っている人はだいたい透明で、だから僕には灰色に見える。色を持つことを諦めて、透明になった僕らは、社会の色にゆっくりと染まっていく。社会の色に全く染まらない人を、僕らは『異常者』と表現する。
だからあの女の子は『異常者』なのだろう。今、前方から歩いてくる女の子は、ありえないほどに強い色をしていた。赤でも青でも金でもない。強いて言うなら、すべての色を混ぜて、調和された完全な白だ
薄い灰色の世界に強烈な白がのる。
僕の存在がたった今、一人の女の子に否定される。
横ぎり、僕の後ろへと歩いていく女の子の背中に呼びかける。
「待って」
女の子がイヤホンをはずしながら振り向く。整った顔を少しも歪めることなく口を開く。
「なんで」
「僕はたった今、君に存在自体を否定されたんだ。君は多分、そんなこと考えもしなかっただろうけど、それでも僕は君に否定されたんだ。引き止めることぐらい、許されたっていい」
女の子が表情一つ変えずにこちらに歩いてくる。
歩行者用の信号はもう点滅している。
「私ね、人が大好きなの。例えば君とか」
女の子がほんの少し微笑みながら言う。目は深い色をしていて、考えがよく見えない。でも、その口調は思っていたよりもずっと柔らかい。
「いいお店を知っているの。よかったらお茶でもしない」
信号はもう、色が変わりかけていた。
僕は横断歩道で引き返し、女の子と一緒に、営業しているのかすらわからないほどの古びたカフェへと入った。
軽い日差しが差し込むこのカフェは、青年が一人で営んでいるようだった。僕と女の子の他には、何やら難しい顔をして新聞を読んでいるおじいさんしかいない。僕らは日当たりの良い、窓際の席につく。
「メニュー、どうされますか。朝にはブレンドコーヒがおすすめです」
青年がとてもゆったりとした笑顔できいてくる。その笑顔には都会の人が持つ特有の棘がなく、どこか安心する印象を受ける。
「じゃあ、ブレンドコーヒーのホットを」
「私は温かいココアをお願い」
青年はメニューをとり終えると、カウンターに戻り、コーヒーを挽き始めた。店内に静かに漂うコーヒーの香りは、日差しと混ざって、柔らかい色をつくり出す。
「それで、どうして私は君の存在を否定してしまったの」
「僕はね、今まで透明で生きていたんだ。それ以外の道がわからなかったから。でもね、君は色が強いんだよ。僕の存在を否定するくらいに」
「それは申し訳ないことをしたね」
「そうじゃないよ」
コーヒーとココアが青年の手によって、机の上に並べられた。まだ湯気が立ち昇るカップに口をつけ、コーヒーをすする。苦味と香りの強い、優しい味だ。
「むしろ感謝したいんだ。まるで人間じゃないみたいに色の強い君は、僕にとってはとても魅力的だったんだ」
女の子はココアがはいったカップを両手で包みながら、ありがとう、と言って、くつくつと笑いだした。
「私は人間じゃないよ」
女の子が口角をあげながら言う。その表情は、本当に人間じゃないみたいに綺麗で、完璧だった。
「どういうことだろう」
「そのままの意味。私、吸血鬼なの」
「それはいろいろ問題だ。人間にしろ、吸血鬼にしろ、僕から見たら『異常』だから」
女の子はまたくつくつと笑い、そうかもね、と言った。
「それじゃあ君は今いくつなの」
「覚えていないな。鎌倉時代あたりには人を狩っていたよ」
「人を殺すんだ」
「今はほとんどしていないよ。おかけでだいぶ弱っているの」
女の子は、ココアをゆっくりと喉に流し込んでいるようだった。その姿は遠目からすると、普通の女の子に見えるかもしれない。それでも、この距離からならわかる。この女の子はありえないほど色が強い、『異常者』だ。人の人生をもきっと狂わす。
それほど強いのに、女の子の目はどこか疲れているように見えた。
「どうすればまた君に会えるのだろう」
「異常者と会いたいの。変わってるね」
「僕は僕の色になりたいんだよ。茶化さずに教えてくれ」
「じゃあ、この通りを右に曲がった神社においで。私はいつもそこに居るから」
女の子は僕がペーパーナプキンにメモするのを見届けると、伝票を持って席を立ち、そのままの出て行ってしまった。
一人残された僕は、冷めてしまったコーヒーを飲みながら、冷たい秋風の吹く窓の外を見るしかなかった。