始まりの最期と最期の始まり
祐也は台所に慎重に足を踏み入れた。薄暗く見通しは悪かったが『皆子』さんの気配はなかった。台所の隅には男の死体が横たわっていた。
加奈子達の話によれば等々力という名の後輩だろう。面識はなかったので死体を目の当たりにしても何の感慨もない。
この際、本物の死体とやらを間近に見てみたい欲望にも駈られたがやめておく。今は、早く『皆子』さんの場所を特定することが先決だ。
1階にいないとしたら2階だろうか?
祐也は2階の間取りを確認していなかったことを後悔した。
一方、リビングルームでは加奈子、石原、詩織が罠の準備をしていた。
「ごめん、詩織。こっちを手伝って。
このテーブル!なんでこんなに重いのよ」
黒檀製のそのテーブルは加奈子達の想像よりもはるかに重かった。
立て掛けようとしたテーブルがぐらりと傾いたので詩織は慌てて倒れないように支えに入る。
「じゃあ、奥の方にずらすから。1、2、3でやるよ。良い?
はい、1、2の、3!」
3人で力を合わせてテーブルを廊下側の入り口の方へずらしていく。
「よし。後は写真。いいわ。私が集める。
石原先輩に渡すからテーブルに貼ってください。
詩織は倒れないようにテーブルを押さえておいて」
加奈子は床に散らばっている写真を手早く2、3枚拾うと石原に手渡す。
石原は受けとると手早く写真をテーブルに貼りつけた。
そんな中、リビングの奥にあるドア、娯楽室に続くドアが音もなく開いたことに誰も気づかなかった。
加奈子は床に散らばった写真を血眼になってかき集めていた。
ふと、視界に二本の足が見えた。加奈子の手が止まる。今、リビングにいるのは自分を入れて3人。内、2人は自分の後ろにいて足が視界に入るはずがない。
では、この足は誰のもの?
加奈子はゆっくりと顔を上げる。
『皆子』さんが立っていた。
「あああああ」
呻き声とも雄叫びともつかない声を上げ、『皆子』さんが襲いかかってきた。
抵抗する間もなく加奈子は押し倒される。
『皆子』さんの口が加奈子の喉に迫る。必死に防ごうとするがジリジリと押し込まれた。
「加奈子!」
異変に気づいた詩織が助けようと動いた時、肩が立て掛けていたテーブルの足に引っ掛かった。
「ぐぇ」
ぐらりとテーブルが傾き、写真を貼っていた石原に倒れかかる。石原は不意をつかれテーブルを支えれずそのまま、下敷きになる。
「きゃあ」
背後で悲鳴が聞こえ、祐也は慌てて振り向く。
「助けて」
更に、助けを求める声。加奈子のものだ。
「しまった」
祐也は舌打ちをするとリビングにとって返した。
ガチン!
『皆子』さんの口が激しく閉じられる。
間一髪、体を避け噛まれるのを防ぐ。
「助けて」
必死に『皆子』を防ぎながら加奈子は叫ぶ。しかし、石原はテーブルの下敷きになったまま今だにもがいていたし、祐也も『皆子』を探しに言ったまま戻ってこない。
お目当ての『皆子』さんが今、自分の目の前にいるのは皮肉だ。
まさか、娯楽室にいるとは考えもしなかった。探しに行く前に娯楽室を確認するべきだったのだ。加奈子は自分を呪うしかなかった。
『皆子』の血にまみれた口がゆっくりと近づいてくる。だらり、だらりと『皆子』の口から漏れる涎が加奈子の頬を濡らす。
(もうダメ)
加奈子がそう思った時
「うぎゃぁ」
突然、『皆子』さんが悲鳴を上げ、のけ反った。
詩織が写真を『皆子』さんの額に押し付けたのだ。
『皆子』さんは苦しみながら後ずさる。
「加奈子、立って!」
加奈子は詩織に引きずり起こされた。
「大丈夫?」
「うん。ありがとう」
二人は肩を寄せあい、互いの無事を確認する。『皆子』さんは写真を振り払おうと首を激しく振っていた。やがて、写真が剥がれ、ヒラヒラと床に落ちた。
「うううう」
『皆子』さんは落ち着きを取り戻すと低い唸り声を上げながら二人を睨み付ける。すぐにでも襲いかかって来そうだった。
「どうしよう?」
「どうしようも何もやるしかないでしょ」
加奈子は『皆子』さんから目を離す事なく壁に立て掛けていた斧を取り、振り上げる。
その斧を誰かがつかんだ。
振り向くと祐也がいた。
祐也を見たとたん加奈子は泣きそうになった。
「よく頑張った。後は俺がやる」
祐也は斧を構えると油断なく『皆子』さんに近づく。
「祐也さん。写真、効果が有ります」
詩織がすかさず叫ぶ。
「ありがとう」
祐也が手に持っていた写真を前に掲げると、前に出ようとした『皆子』さんの動きがピタリと止まる。
祐也は右手に斧、左手に写真をかざして前に出た。祐也が一歩前に出ると『皆子』さんが一歩下がる。それを繰返し、やがて『皆子』さんを壁に追い詰める。
祐也は隙を見て、間合いを一気に詰め、写真を『皆子』の額に押し付けた。
と、同時に『皆子』は苦しみ始めた。
間髪を入れず祐也は斧を振り抜く。
ブツン。
皆子の左足が膝から切断された。
バランスを崩し、『皆子』さんは床に倒れた。
背後で誰かが息を飲む声がしたが祐也は躊躇う事なく斧をふるう。
瞬く間に『皆子』の両腕が胴体から切り離される。
「うおおおー」
そして、一際大きな声を上げながら祐也は渾身の力で斧を降り下ろす。
ザキュリ
『皆子』さんの首が切断された、と同時に『皆子』さんの動きがピタリと止まる。
荒い息をつき、暫く『皆子』さんの様子を伺っていると照明がチカチカ点滅してから点灯した。
祐也は目を細めるながら天井を見上げる。
「やったか」
祐也は小さく呟く。
「あはは、やったー」
加奈子と詩織は笑いながら抱き合っている。
「お見事」
石原がテーブルから這いずり出て言った。
祐也はニヤリと笑うと、石原を立ち上がらせる。
「電気が戻ったということは車も使えるようになった思っていいのだろう。
みんなで車のキーを探しておいてくれないか。
僕は二階を見てくる。無事とは思えないがやはり教授や七瀬君がどうなったのか知っておきたいからね」
石原を階段を上るきってすぐのドアをノックする。
教授の部屋だ。
返事はない。ドアノブを回してみると鍵はかかっていなかった。
「教授。入りますよ」
一応、断りを入れて部屋に入る。何の音もしなかった。
石原が一歩部屋に踏みいると
パキン。
一歩部屋に入ったとたん乾いた音が響く。と同時に足の裏に何かを踏み砕いた感触が伝わる。
石原は足元を見る。赤と黄色い斑の破片が床に散らばっていた。
ガラスの破片?
最初、そう思ったが近くの床に別の塊が複数あるのに気がつく。
そして、あっと息を飲んだ。
それは七瀬奈緒の残骸だった。
ばらばらになった頭、胴体、手足。
みな凍りついていた。
石原が踏み砕いたのは右手か左手のようだ。
一体何が起きたというのか?
石原は思い悩む。
一つ言えるのはこれは『皆子』さんの仕業ではない。超人的な身体能力と不死身のような耐性を誇っていたが物を凍らせるような力は一度も使っていなかった。
ならば、誰が七瀬奈緒をこのように凍らせたのか?
石原が悩んでいると
ギシリ。
部屋の奥から物音がした。反射的な音のする方を見る。
ゆらゆらと揺らめく青白い光の中にそれはいた。
異形なその姿。
それは理屈で認識する恐怖を超越していた。本能が反射的に畏怖する領域の恐怖だ。
石原は反射的に逃げようとしたが足が動かなかった。足元を見ると足が床に貼りついてびくとも動かない。
パニックに陥っていた石原は、それでも足を無理矢理床から引き剥がそうと力を込める。
パリンとガラスが割れるような音と共に両足か膝のところで割れた。
そのまま、石原は床に叩きつけられた。
それでも、石原の頭の中には逃げる事しかなかった。手をつき這いずり逃げようとする。しかし、手を床についたとたん手も床に凍りつく。
石原は七瀬奈緒が誰に何をされたのか正確に理解した。そして、自分に待っているであろう運命も。
石原は絶叫する。心のそこからの絶望の声だった。
クルマのキーは5分程で見つかった。
しかし、石原は戻って来ない。
「石原さん遅いですね」
詩織が焦れたように言う。
三人は玄関口で待っていたが中々石原は戻って来ないのだ。
様子を見に行こうかと思った時、ふっと照明が消えた。
三人がえっと思った、その瞬間
「ぎゃああー」
物凄い悲鳴が二階から聞こえてきた。
「なんかヤバイ。取り合えず外へ出よう」
祐也は二階への階段から目を離さないようにしながら指示する。
「え、何で、開かないの」
泣きそうな加奈子の声に振り返る。
「なに?」
加奈子に変わりドアノブに手をかけるが、びくともしない。
「糞!どうなってるんだ」
「きゃー」
耳元で加奈子が悲鳴を上げる。
振り返る。
「今度はなんだ?」
加奈子が震えながら指さす先、階段の根元、そこに青白いものが転がっていた。
大きさはサッカーボール位。
最初、それが何か分からなかった。
「石原、先輩……」
絞り出すような加奈子の声で、ようやくそれが石原の生首だと理解した。カチンコチンに凍りついていた。
ミシリ
何者かの足音。
ミシリ
二階から聞こえてくる
ミシリ ミシリ
それはゆっくりと姿を現した。
骨と皮だけの青白い肌。頬はこけ、目も口もぼっかりと空いて空虚な洞穴のようだ。
もっとも醜悪なのは両手、両足の先端が朽ち果て、ぽっきり折れた枯れ枝のようになっていることだった。
その怪物を見た時、祐也は自分がとんでもない勘違いしていた事に気がついた。
『皆子』をウェンディゴと思っていたが、あれはウェンディゴになる途中だったのだ。
今、目の前にいるもの、恩田教授であったものこそ、真のウェンディゴなのだ。
ウェンディゴの枯れ枝のような両手、両足から青白い炎が燃え上がる。
青い炎は床を這い、階段を伝い降りてくる。青い炎に包まれた所はたちまち凍りつく。
炎はゆっくりではあったが確実に三人に近づいて行った。
2018/03/25 初稿