きっとそれは別の何か
加奈子は娯楽室へ入って行く祐也の後ろ姿を黙って見ていた。
娯楽室のドアが閉まる小さな音を聞いた時、加奈子はブルリと体を震わせる。
(寒い)
加奈子は心の中で呟く。
加奈子は自分で自分の両腕を抱きしめる。
小刻みに体が震えていた。自分の体がこんなにも震えているのに改めて気がつき加奈子は正直驚く。
雪が積もる位なのだから寒いのは当然なのだが、それ以上の寒さを感じた。
「……」
微かな風のうなり声のようなものが耳元で聞こえ加奈子はハッとなる。
周りを見回すと食堂へのドアが少し開いていた。さっきは確かに閉まっていた筈だ。
加奈子は恐る恐るドアを覗いてみた。
食堂と同じようにテーブルやイスが散乱している。人気はやはりない。
奥のドアは開け放たれていた。そのドアの先は台所だ。
ピチャ
本当に小さな音だった。緊張で最大限まで振りきれた聴覚でなければ聞き逃しただろう。
ピチャ
ピシャッ
ビチャッ
ピチャリ
その音は台所の方から聞こえてくる。
食堂を抜け台所へ繋がるドアのところまで行く。音は台所の右すみから聞こえてきた。何か黒い塊が蠢いている。
「誰かいるの?」
加奈子は思いきって声をかけた。
すると黒い塊の動きが止まった。
「誰?詩織?」
黒い塊がグーっと縦に伸びる。
ようやく、誰かが立ち上がったのだと確信する。
その服にはみおぼえがあった。
服装、後ろ髪の形、紛れもなく皆子さんだ。
「奥さまですか」
奥さまと呼ばれたその人はゆっくりと振り向く。
蒼白い肌に白目を剥いた無表情の顔。
とても生きているとは思えない。
呆けたように大きく開けられた口にはベッタリと黒い染みのようなものが付いていた。
顔形は皆子さんだ。だが、いつも穏やかな笑みをたたえていた加奈子の知ると皆子とはまるで別人だった。
皆子の足元にごみ袋のように転がっているものも何か分かった。
後輩の等々力仁だ。
大きく目を見開き天井を凝視している。喉元が真っ黒にそまっている。もしも十分な明かりがあれば真っ赤に見えるのだろう。
「あ、あああぁ」
奥さんが意味をなさない声を上げて襲いかかってきた。
「きゃ!」
手で防ごうとしたが押し倒される。
背中の痛みに耐えながら、口をガチガチ言わせて噛みつこうとしてくる皆子を必死にブロックする。
物凄い力で、はね除けるどころか耐えるのも難しい。
「ゆ、祐也!助けて」
加奈子は悲鳴を上げた。
祐也が壁に立て掛けられていたビリヤードのキューを手に取った丁度その時、加奈子の悲鳴が聞こえてきた。
祐也は直ぐに娯楽室からリビングにでる。
リビングに加奈子の姿がなく、少し焦る。
また悲鳴が聞こえる。
声を頼りに食堂に向かうと加奈子が押し倒されていた。
「この!」
祐也は一声叫ぶと持っていたキューで襲撃者を殴り飛ばす。
バキン
キューが音をたてて折れ、相手は吹き飛んだ。
「加奈子、大丈夫か?」
加奈子の手を取り抱き起こす。
「なんだこいつ」
加奈子を自分の後ろにかばいつつ半分に折れたキューを構え直す。
目は油断なく正面の敵に向けられている。
「皆子さんよ、教授の奥さん」
後ろから加奈子の泣きそうな声が聞こえてきた。
奥さんだと?
目の前でヨロヨロと立ち上がろうとするそれを見ながら、違うだろう、と祐也は思う。
確かに奥さんだったかもしれない。
しかし、今、自分の目の前にいるのは奥さんでも人でもない。なにかもっと別のものだ。
「があああ」
うなり声を上げ突っ込んでくる『何か』に祐也は折れたキューを突きだす。
キューは『何か』の喉元に突き刺さった。
「ごは」
怯んだ所を渾身の力で蹴り飛ばす。
『何か』は二、三メートル吹き飛ぶと膝をつき倒れこむ。まるで土下座をしているような格好になり動かなくなる
(やったか?)
そう思った瞬間、『何か』はバネ仕掛けのビックリ箱のように祐也に飛びかかった。
「くっ」
不意をつかれそのまま押し倒される。
年配の女性とは思えない力に祐也は圧倒される。
ガツン
駄目かと思った瞬間、『何か』の頭部に衝撃が加わり、横に大きくぶれる。
見ると加奈子がイスを振り上げて仁王立ちしていた。
「えいっ!」
更に加奈子は『何か』に向けて渾身の力でイスを突きだす。
イスの足が『何か』の口に突き刺さる。
「ごがぁあ」
たまらず『何か』は仰け反り倒れた。
「祐也、大丈夫?」
今度は祐也が加奈子に助け起こされる。
ズチャ
嫌な音を聞こえた。
抱き合った二人が音のする方に目を向ける『何か』が突き刺さったイスを引き抜いたているとところだった。
『何か』は口からボタボタと血を滴らせていたが、余りダメージを受けているようには見えなかった。
「嘘だろ」
『何か』が再び襲いかかってきた。
「逃げろ」
祐也は後ろの加奈子をほとんど突き飛ばす勢いでリビングに逃げ込む。そして、ドアを閉める。
間一髪。『何か』の鼻先でドアは閉まる。
ガツン ガツン ガツン
ドアが凄い勢いで叩かれる。
「何かつっかいになるものを持ってきてくれ」
背中でドアを押さえながら祐也は叫ぶ。
加奈子は近くに転がっていたイスを拾うとノブに立て掛けてドアをロックする。
ガツン ガツン ガツン
今にも砕けるかと思える勢いでドアが何度も叩かれる。
ガツン ガツン
何度も何度も
ガツン
ようやく音が止む。
二人はほっと顔を見合わせる。
「あれは一体なんだ?
一体全体、何がどうなってるんだ」
祐也が叫ぶ。
「しっ!
何か聞こえない?」
加奈子に言われ、祐也は聞き耳をたてる。
ミシリ
確かに何か聞こえる。
ミシリ
ミシリ
ミシリ ミシリ
音は段々大きくなる。
「大変!台所、入口の廊下とつながってるわ!」
加奈子は叫ぶと、入ってきたドアを閉めに向かう。一拍遅れて祐也も飛び起きた。
ドアに取りつき閉めようとする。
しかし、遅かった。
ドアと壁の間に青白い腕が差し込まれ閉めるのが妨げられた。
二人は力を合わせて閉めようとするが逆にドアはじりじりと開いていく。
「があ」
ドアから白目を剥いた顔が現れる。
「きゃ」
「うお」
ドアは弾けるように開け放たれ、その勢いで二人は弾き飛ばされる。
「痛っ」
尻餅をついた加奈子は、ハッとなり前を見る。目の前には『何か』がじりじりと自分に近づこうとしているのが分かった。
駄目だ、襲われる。
そう思った時、『何か」の動きがピタリと止まる。
「?」
『何か』は踏み出そうとしていた足をゆっくりと降ろす。そして、カニのような動作で横に動く。
襲ってこないのかと思った矢先、『何か』は再び口を開け襲いかかってきた。
「きゃあ」
加奈子は悲鳴を上げる。
ガン
重い物がぶつかる音と共に『何か』がぐらりとよろめいた。
同時に加奈子の体が何者かに引っ張り上げられた。
後ろを向くとメガネをかけた見知った男の顔があった。
「石原先輩?!」
「早く、こっちへ」
女の声もした。見るとそれは詩織だった。
詩織は腕に抱えている物を『何か』に向けて投げつけた。
加奈子は半分、石原に引きずられるようにリビングの奥、倉庫へつながるドアに連れて行かれる。
転がるように中に入るとすかさず詩織がドアを閉め、ガッチリと板でロックした。
「加奈子、怪我はない?」
心配そうな詩織を見て、加奈子は涙が出てきた。そのまま、ぎゅうと抱きしめる。
「よかったぁ、詩織が無事で」
「うん、うん」
詩織も抱きしめ返してくる。
詩織の温もりが加奈子の冷えた体に心地よかった。
ガタッ
ガタ ガタ ガタ
ドアが激しく震える。
その音に加奈子は現実に引き戻される。
加奈子は石原を見上げ尋ねる。
「あれは一体なんなんですか?
何が起きたんですか?」
「そうだな。
君の彼氏の手当てをしたら説明をしようか」
石原は部屋の片隅に寝かされている祐也を一瞥してから、そう答えた。
2018/03/11 初稿