山荘へ
七瀬奈緒は震える指でドアの鍵をかける。
そして、へなへなと床に崩れ落ちた。
一体何が起こったのか、今になっても良く分からない。
これは夢じゃないのか?
バクバクと激しく脈打つこめかみを押さえながら考える。
と、突然ドアノブがガチャガチャと音をたて、ドアが激しく叩かれた。
危うく悲鳴が出そうになるのを両手で口を抑えて辛うじて堪える。
ドアの向こうにいるのは仁なのかも知れない。だが仁であれば声をかけてくる筈だ。声もなく闇雲にドアを叩くとすればそれは仁でない。
そして、それは仁の運命をも示している。
奈緒の両目から涙が溢れた。
奈緒は床に額を押しつけると忍び泣いた。
気が付くとドアを叩く音はしなくなっていた。
奈緒は耳をドアにそっと近付ける。なんの音もしない。
だが、ドアを開ける気にはならなかった。
(これからどうしよう)
奈緒は悩む。
ふと、ここがどこなのかという疑問が浮かんだ。2階に上がり、無我夢中に手近の部屋に飛び込んだのは覚えている。
頭の中でこの家の間取りを思い浮かべる。
(ああ、そうか)
奈緒は振り向く。窓際に大きなベッドがあった。布団がこんもりと膨らんでいて、人が寝ているのが分かる。
奈緒は一歩前に踏み出し、寝ている人物に声をかけようとした。
その瞬間、布団が跳ね飛ぶ。
突然の出来事に奈緒は硬直するが、自分の目の前のものを認識して絶叫する。
奈緒の絶叫は山荘を貫き、人気の無い山林に虚しく響き、消えていった。
藤島加奈子はボーイフレンドの大滝裕也の車を認めて手を振った。
車は加奈子のすぐ横に止まる。
加奈子は車の助手席に乗り込むとせかせかとシートベルトを締め、早口で言う。
少し声が裏返っていた。
「ほんと、ごめんね。無理言っちゃって」
「なに、良いって」
裕也は車を加速させながら答える。
「で、どこに行きたいんだ?」
「ちょっと待ってね」
加奈子はナビに目的地を入力する。
「できた。ここよ。ここに行って欲しいの」
裕也はナビの表示を見て、ウンザリした顔になった。
「うへ、四時間はかかるぞ。到着は真夜中だ」
「うん、分かってる。でも、お願い、緊急事態なの」
加奈子の口許は真一文字に引き結ばれていた。
緊張と怖れのせいだろうか。
いつもは綺麗な桜色の顔が蒼白だった。白い顔がほの暗い車内に浮かんで見えた。
こんな表情の加奈子を裕也は初めて見る。
電話の声からただならぬ物を感じてはいたがこんな表情を見せられたらなにも言えなくなる。
「緊急事態なのは電話で聞いたさ。
それは分かった。だから、もう少し詳しく話してくれ」
「そうしたいんだけどね。実は私も良くわからないの」
「なんだそりゃ」
「ごめん。私も混乱してるのよ。だから、順を追って説明させて」
裕也はハンドルを切りながら鼻を鳴らす。
「いいよ。時間はたっぷりあるさ」
裕也は車を高速のィンターへ車を走らせながら、そう答えた。
「私の大学の研究室の教授の事は知ってるよね」
「ああ、確か文化人類学の先生だっけ。
ま、俺には文化人類学ってものがなにをするのか良くわからんが……」
「恩田貴史教授よ。専門は北米大陸の先住民」
「北米大陸の先住民……、
ああ、インディアンね。
アパパパパパ、パオって奴」
裕也は片手を口に当てて奇声を上げる。
「真面目に聴いて!」
「すいません」
へらへら笑いながら祐也は答える。
「教授は10月の中旬から一ヶ月程アメリカの方へ現地調査に行っていたの。テーマは北方の先住民の暮らしなど。カナダの方にも足を伸ばしたらしい。
それで先週、帰ってきたの」
「帰ってきたら資料の整理で缶詰だってぼやいてたよな」
「そうよ、研究室総出で山荘を借りきってずっと缶詰だったわ。
私は今日、研究室に必要な資料を取りに一人で戻ってきたの」
「それで、それのどこが緊急事態なんだ?」
「だから、順を追って話しているのよ。
まずね、教授の様子が帰ってきてからおかしいの」
「教授の様子が?どんな風に?」
「なんと言うか、まず印象が変わっていた。
気さくで明るい人だったのが何か塞ぎ込んだ暗い感じになっていたの。
食欲もない様子だったわ。
後、寒い、寒いって」
「うーん、単なる風邪じゃないのか?
一ヶ月も海外に行ってたら調子も悪くなるだろう」
「でも熱はないのよ。普通より低い位。
35度2分、だったかな」
「確かに低いが異常じゃないなあ。そのぐらいが平熱の人もいる」
「そうね。でも昨日、私が山荘を出るときには2階の寝室から出てこなかったの」
「あー、なんだ。俺たちが行くより医者を呼ぶか、医者に連れていく方が良くないか?」
「私たちもそう言ったんだけど、そんな暇ないって。教授はがんとして聞いてくれないの。
学会が近いのよね。
それに、緊急事態なのは教授のせいじゃないの」
「はい?
こんだけ引っ張っておいて教授は関係ないのか!」
「関係ないかはわかんない。
ただ、私が緊急と思ったのは詩織との電話からよ。
1時間ちょっと前かな、詩織と電話で話をしてたの。そしたらなんか騒がしくなったのよ。切羽詰まった声で皆子さんが暴れているとか聞こえてきたと思ったら、電話が突然切れたの」
「皆子さんが暴れている?
皆子さんって誰だよ」
「教授の奥さんよ。
身の回りの世話をするために山荘に来てたの」
「……
訳が分からん。」
「私も訳分かんないよ。
その後、いくら電話しても繋がらないし。
電話では奥さんも調子悪くなったって言ってたのよ」
「調子の悪い人間がどうして暴れるんだよ」
「それもよく分かんない」
「なー、やっぱ、俺たちよりも医者か警察が必要なんじゃないか?」
「かもしれないけど、でも、大騒ぎして大した話じゃなかったら教授に申し訳ないし……」
加奈子の言葉は途中で途切れる。
「いいさ。行ってみてから考えても遅くはないだろう」
祐也は議論を打ち切るとアクセルを踏み込んだ。
サービスエリアで買った飲みかけのコーヒーを飲み干し、祐也は助手席に目を向ける。加奈子は窓を枕に眠っていた。
「おい、そろそろ起きてくれ」
祐也につつかれ加奈子は目を覚ます。
「あ、ごめん。私、寝ちゃったんだ」
「それはいい。もうそろそろ目的地だが道、合ってるか?」
祐也に言われて加奈子は外を見る。
車は暗い山道を走っていた。
「う~ん。良いと思う」
「なんだ、頼りないなぁ」
「だって、夜の山道って正直良くわかんない。暗くて、木が合って、カーブが多いし。どこもおんなじに見えるもん。
でも多分、もう少し行くとトンネルがあるはず」
「トンネル?」
「うん、短い小さなトンネルだけど、そこを抜けると500メートルぐらいで山荘に着くわ」
加奈子の言葉が終るか終わらないかのタイミングで、車がギリギリすれ違えるぐらいの幅のトンネルが見えた。
加奈子が言うように、50メートル程の短いトンネルだった。
「うおっ」
トンネルを抜けたとたん祐也は驚きの声を上げる。
辺り一面真っ白な雪に覆われていたからだ。
不意の事に反射的にブレーキに足がかかったが
それが失敗だった。
とたんに大きくテールが滑った。
懸命にステアリングを操作するが車はコントロールを失ったまま道端の木に衝突した。
気を失っていたのはほんの数秒の事だろう。
エアバックをかき分け、祐也は助手席の加奈子を揺り動かす。
「大丈夫か?」
「う、うん」
頭を擦りながら加奈子は答える。
「くそ、やっちまったよ」
シートベルトを外しながら祐也は呟く。
「壊れちゃったの?」
「たぶん。
エンジンがかからないから最悪オシャカだ。まいったなぁ、まだ、ローン済んでないよ。
雪が積もってるなら積もってるって言っておいてくれればよかったのに」
「私が戻る時には1ミリも積もってなかったわ」
「ふーん。
とにかく警察に連絡するか……って
げっ、ここ圏外かよ。警察呼べないじゃないか」
「この辺は携帯は無理よ。でも山荘に行けば固定電話があるわ。電話線が来てるのよ」
「つまり、山荘まで歩けと」
「そうよ。500メートル位だからすぐよ」
祐也は深い溜め息をついたが他に選択肢はなかった。
「しゃーない。行くか」
祐也はドアを開けると外に出た。
ザクザクと積もった雪を踏みしめながら祐也と加奈子は歩く。
歩きにくかったが10分程で山荘が見えた。
祐也の想像よりもずっと大きい。ホラー映画に出てくるような二階建ての洋館だった。
一階も二階も真っ暗で全く人気が感じられない。
「真っ暗だな。何人いるんだ」
「教授と奥さん。
石原先輩に詩織……」
加奈子は指折り数え始める。
「それと、等々力君に七瀬ちゃんの六人かな」
「とても六人もの人間がいるようには見えないなぁ」
そう呟いた時、祐也の持っている携帯のライトがなんの前触れもなく消えた。ほぼ同時に加奈子が持っている携帯のライトも消える。
「なんだ」
祐也は慌てて携帯を振ったり、叩いたりしたが携帯の画面は黒くなったまま復活することはなかった。
厄日か、と祐也は思う。
積もった雪の効果もあるのだろう、月明かりだけでも以外と周りを見渡せたので真っ暗闇で途方にくれる事にはならなかった。
なんにしても進むしかない。
二人は無言で頷くと山荘に歩を進めた。
山荘の入り口につくと祐也はゆっくりと入口のドアノブに手をかける。
鍵は掛かっていない。
ドアを開ける。
加奈子が入り口直ぐにある照明のスイッチを何度か押してみたが何の反応もなかった。
カチ、カチと言う音がドアから差し込む銀色の光に照らされた薄暗い廊下に吸い込まれていく。
真っ直ぐに伸びる廊下の先は黒い染みのような闇に包まれ何も見えない。
廊下の途中、右に二階に上がる階段。左側にはドアが見えた。
「見えないけど廊下の奥の右側はトイレとかお風呂場、突き当たりにドアがあって、裏庭に出れるの。
左が台所。
今、見えているドアの先はリビングに繋がっているわ」
加奈子は祐也の耳元で囁く。
「リビングへ」
祐也の声は少し掠れていた。
リビングのドアは音もなく静かに開いた。
「ごめんください。誰かいますか」
ドアを開けながら祐也は小さな声で言う。
言いながら、まるで空き巣だな、と思う。
だが、何故か大きな物音を立ててはいけないと言う確信めいた予感がしていた。
恐らく加奈子も同じ思いなのだろう。山荘に入ってから囁き声でしか喋っていなかった。
リビングの照明もやはりつかなかったが、窓ガラスから差し込む光でなんとか部屋の様子は分かったは。
人はいない。
部屋の有り様は酷いものだった。
部屋の真ん中に置かれていたのであろう大テーブルはひっくり返り、イスもご同様にあちこちでひっくり返っていた。何脚かはバラバラに壊れている。
他にも分厚い本やファイル、書類や写真が無数に床に散らばっている。
まるで台風か竜巻に蹂躙されたかのようだ。
右手の壁の手前と奥に二つ、真っ正面の壁に一つドアがあった。
「右手手前のドアは食堂に使っている部屋。その先は台所に続いているわ。
奥のドアは娯楽室。正面のドアは倉庫に繋がっている」
「加奈子はここにいろ。奥の部屋を見てくる」
祐也は娯楽室に続くドアを開く。
娯楽室は予想に反して正常だった。
真ん中にビリヤードの台が鎮座し、隅には小さなテーブルとイスのセット。
奥にミニピンボールの台とおぼしきものも見える。
なにもかもキチンと整理されて置かれていた。
ここだけ見れば何もおかしなところはない。
照明がつかない事を除けば……
一体何が起こった、いや、起こっているのだろう、祐也は混乱した。
2018/03/04 初稿