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ゼロ時間へ

藤島(ふじしま)加奈子(かなこ)が研究室から山荘にいる詩織と電話で話をしている時にそれは起こった。


「それなら、いいけどさ。ま、思い出せないなら大したことじゃないんだろうね」

何気ない会話だった。あと数秒で切り上げる予定調和な会話のはずだった。

しかし、電話口の詩織(しおり)から、期待される返事はなかった。

リアクションそのものがなかったのだ。

加奈子は眉をひそめ。

電話が切れた訳ではない。その証拠に何やら騒がしい声が聞こえてきたからだ

『詩織…ん。皆子さん…大変です。

…に暴れ出し…

…仁と石原…輩が抑え……す

……暴れ…』

(なにこれ?)

そう思ったとたん、電話が切れた。

今度は本当に切れる。

ツー ツー という保留音が無感動に聞こえいた。

「え?まじ?」

加奈子は慌てて電話をかけ直したが何度かけても全く通じなかった。

何か大変な事が起きた。そんな予感がする。

時計を見ると午後5時半を少し回っていた。


□□□


a.m. 7:10

加奈子はとんとんと駆け足で階段を降りる。最後は二段抜かしをして、着地と同時に180度体を回して台所に向かう。

「すみませーん。寝坊しましたぁ」

台所では一人の女性が味噌汁の味見をしているところだった。

女性は振り返ると柔らかな笑みを浮かべた。

「いいのよ。昨日も遅かったのでしょう」

歳の頃は四十代後半。大学の院生である加奈子とは親子ほどの歳の差があった。

「それじゃ、加奈子ちゃん、そっちのサラダの準備をしてもらえるかしら」

「はい」

加奈子は大根とニンジンを取り出すと切り始める。

「奥さま、先生の調子はどうなんですか?」

「う~ん、相変わらず寒い寒いって。食欲もないみたい」

「やはり、お医者さんに行った方が良いのではないですか?」

「そうなのよね。私もそう言っているのだけど、あの人、学会の準備があるからそんな暇は無いの一点張りなのよ。本当は注射とかが嫌なんでしょう」

そう言うと女性は、ほほほと品の良い笑い声を上げた。

女性の名前は恩田(おんだ)皆子(みなこ)

加奈子達の院生の指導教授の恩田貴史(たかし)教授の妻だった。

恩田教授はこの間まで北米でネイティブアメリカンの現地調査(フィールドワーク)をしていた。そこで古代原住民の死蝋を見つけた。年代調査は完了していないが予測が正しければ世界最古のミイラになる。そうなれば世紀の大発見だった。そんな世界的権威も奥さまにかかると小学生並の様だ。

「いえ、いくらなんでも注射が怖いと言う事はないかと思いますが」

「ふふ、本当にそう思う?」

「はあ、思いますが……」

加奈子の答えに皆子はいたずらっぽく笑う。

「まあ、あの人のためにそういう事にしておきましょうか。

加奈子ちゃん、サラダの準備が終わったらお皿を食堂に並べてもらえるかしら。それが終わったらみんなを起こして来てちょうだいな。

あ、でも、あの人は起こさなくて良いわ。

食欲ないと思うのでお粥を別に用意して持っていくから」

「はい、わかりました」


a.m. 8:37

七瀬(ななせ)ちゃん。お醤油取ってくれる」

山本詩織が真向かいに座る七瀬奈緒(なお)に話しかけた。

加奈子は二人のやり取りを少しぼうっとした頭で聞いていた。あまり食欲もない。睡眠不足が原因だろうと考えながら目の前のハムエッグを箸で突っついていると石原が話しかけてきた。

「藤島さん、アガホ族とオジブワ族の比較した文献を知らないかい?」

朝の会話にしてはコアな内容だ。1週間以上、朝から晩まで文化人類学の資料まとめをしている身としては胸焼けがしそうな質問だったが、石原は一行に気にならないようだ。

「色々調べているんだけど見つからないんだ」

「石原さん。昨日からその話ばかりですね」

ご飯を頬張りながら詩織が間に入ってくる。

詩織も昨日は加奈子と同じ位に寝ているはずだがこちらは食欲旺盛の様だった。コアな質問も平気なようだ。

「まあね。ずっとDB(データベース)にアクセスしたりネットを調べているけど目ぼしいものが見つからない 」

「う~ん、アガホ族が基本マイナーですからね。でも、何処かで見たような……」

「えっ、本当?どこで見たの」

「確か、研究室、のどこか……

あ、そうだ。教授の席の本棚で見たかも」

「そんな文献あったっけ?」

と詩織。

「多分。今もあるかわかんないけどね。

でも、確かに見た記憶がある。フランス語だった」

「うぇ」

その場にいた全員が同時に呻いた。

「フランス語ときたか」

石原が顔をしかめた。

「フランス語は勘弁」

同じように等々(とどろき)(じん)が呟いたのを奈緒がまぜっかえす。

「何であんたが、うぇっとなるのよ。あんたの第二外国語、フランス語じゃん」

「いやいや、俺は『星の王子様』で挫折した口よ」

「そー言うことを偉そうに言わない」

と言いながら奈緒は取り分けたサラダを仁に渡す。

「とりあえずその文献を見たいな」

石原が脱線しかけた話を戻す。

「藤島さん、悪いけどその文献探してきてもらえないか?」

「え?いいですけど。今からだと今日中には戻ってこれませんよ」

「良いよ。明日、ゆっくり帰ってきてもらってかまわない。

仁、車で藤島さんを駅まで送ってやってくれ」

「あら、駅の方に行くの。

なら、お買いもの頼もうかしら」

割り込んできた声にその場の全員が振り返る。皆子が台所から顔を覗かしていた。

手にはお粥の乗った盆を持っていた。教授の朝食なのだろう。

「そろそろ食材が心許なくなってきたの」

「あー、じゃあ、私も一緒に行きまーす」

と奈緒が元気よく手を上げた。

「何でお前まで行くんだよ」

「あんただけじゃ、どこに何があるか分かんないでしょ。それこそ砂糖と塩の見分けもつかないんだから」

「砂糖と塩ぐらい舐めれば分かるわ!」

「馬鹿たれが!

あんたは棚に置いてある砂糖と塩をいちいち封をあけて確認するのか」

「しねーよ。例えだろ例え」

「あらあら、仲の良いこと。じゃあ後でメモ渡すんでよろしくね」

皆子はそう言い置くとニコニコ笑いながら二階へ上がっていった。


皆子は二度ほどノックしてからドアを開ける。返事は最初から期待はしていなかった。

「あなた。起きてますか?」

返事はない。

皆子は小さくため息をつくとベットまで行き、こんもりと膨らんだ布団を優しく揺する。

「あなた。あなた。起きてください」

何度か揺するとようやく苦し気な唸り声が上がった。

「まだ調子悪いのですか?

治らないようならお医者さんに行くことを考えてください」

「うー。分かってはいるが、そんな暇は無いんだ。研究資料をまとめないと。学会の発表がすぐそこまで迫っているんだ」

「もう。まとめるまとめるって、みんな学生さんにやらせてるじゃないですか。石原さんなんて夜遅くまで頑張って可哀想よ」

皆子の小言に反応するように布団の中から恩田教授の手が出てきた。手にはくしゃくしゃになった紙の束が握られていた。

「これを石原くんに渡してくれ。昨日貰った資料に今後の進め方と詰めてもらいたい事を書いておいた」

「もう。あなたと言う人は……

?!」

半ば呆れて紙の束を受け取った皆子は、一瞬はっとなる。

「あなた……」

皆子は何か言おうとするが思い止まる。そして、持っていた盆をベットの横のテーブルに置き、言う。

「わかったわ。その代わりちゃんとご飯を食べてくださいね。それから、明日も調子が治らないようなら今度こそお医者さんに行ってもらいます」

「……

ああ、わかった」

布団からくぐもった声が漏れ聞こえてきた。

皆子は肩をすくめると、何も言わずに外へ出た。階段を降りながら自分の指をじっと見つめる。紙の束を受けとる時に一瞬触れた恩田教授の指の感触がまだ残っていた。

氷の塊に触れたような冷たさだった。

氷でなくば死人の指。

「まさかね」

皆子は、不吉な妄想を振り払うように呟く。


кураэ


「えっ?」

皆子は立ち止まると後ろを振り向く。誰かが耳元で囁いたように思えたからだ。

だが、誰もいない。

ぞくりと背筋に悪寒が走った。

皆子は薄気味悪そうに周囲を見回し、何の異常もないことを確認すると再び階段を降り始めた。


a.m. 10:27

「ありがとう」

加奈子は車を降りると仁と奈緒に手を振る。

加奈子が駅に消えるのを見届けてから奈緒が仁にぐいっと顔を近づける。

「ね。お使いの前に何処かでお茶でも飲まない?」

「良いけどさ。早く帰らないと石原先輩にぶつぶつ言われるぞ」

「良いじゃん言わせておけば。

こっちはこっちで1週間も古い文献やら気持ちの悪い写真とにらめっこして、いい加減うんざりしてるんだからさ」

「気持ちは分かる。

そーすっかぁ」

頬を膨らませる奈緒を見て、仁はニヤリと笑いキスをした。


a.m. 11:17

詩織は二時間程テーブル一面に散乱する写真やメモ書きと格闘していた。

「ふぅ。あの洞窟の壁に描かれた紋様の種類は一つだけよ。角度が違ったり、縦横に引き伸ばされてるのがあるから違って見えただけ。

文字じゃないわね」

「そうかぁ。文字なら大発見なのになぁ」

石原は残念そうに答える。

そこに皆子が姿を現した。

皆子の顔は蒼白で、一見しただけで体調が悪いのが分かった。

「詩織さん。悪いのだけどお昼の用意をしてもらって良いかしら。なんか、さっきから調子が悪くって」

「それは構いませんけど。大丈夫ですか?」

「ええ、大丈夫よ。ただ、寒いだけ。少し横になれば良くなると思うの。

あの人の風邪が移ったのかしら」

皆子は微笑みながら答えたが、声は老婆のようにかすれ、しわがれていた。

「下ごしらえはできてるので宜しくお願いね」

皆子そう言うとそそくさと二階へ上がっていった。余程調子が悪いのだろう。

リビングに残された石原と詩織の二人は互いに顔を見合わせる。

二人とも何となく嫌な予感にとらわれたようだったがどちらも何も言わなかった。


a.m. 11:47

「え、皆子さん調子悪いの?」

美緒はお土産に買ってきた新発売のポテトチップスを一枚くわえ、驚いたようにグルリ目を回した。

「うん。今、上で休んでるよ」

それは私達のお土産じゃないのか、と内心思いながら詩織は答えた。

「ふーん。教授、インフルエンザじゃないの?」

「熱はないって話だから違うでしょ」

「どうだか」

と言いながら奈緒はポテチの袋に手を伸ばす。

「あんた、そんなの今食べたらお昼食べれなくなるわよ」

「平気、平気。

わさびバーベキュー味。これ結構美味しい」


p.m. 1:14

ぞろぞろと電車を降りる人並みに乗り、加奈子も電車を降りる。

時計を見て、素早くスケジュールを頭に思い描く。

資料を見つけるのにどのくらいかかるか分からないが二時間位と見積もると大学には3時頃に着ければ良いかと弾き出す。

乗り継ぎの電車を一つ見送って、何処かでお昼でも食べる事にした。

パスタが食べたかったが、やめにした。

久しぶりに恋人の祐也と夕食を一緒にすると言うアイディアが閃いたからだ。

加奈子は携帯を取り出すと手馴れた手つきで『大滝(おおたき)祐也(ゆうや)』を選択する。

》今夜時間ある? 夕食食べない?

送信ボタンを押す。

これで良し、と加奈子は満足そうに笑みを浮かべ、再び歩き始めた。


p.m. x:xx

見たこともない場所だった。空は鉛色の厚い雲にすっかり覆われている。

土がむき出しになった地面が自分を中心に延々と広がっていた。背の高い木が所々に生えていた。細くねじ曲がった枝には一枚の葉もなく、皆立ち枯れている様だ。

自分が何故こんなところに立っているのか皆目見当もつかなかった。当然、どちらへいけば良いかも分からない。

『寒い』

皆子は両腕で自分を抱く。

寒かった。冷たい風に曝されている訳でもないのに無性に寒かった。

…  ……

 ……… … ……

皆子は後ろを向く。

何か声のようなものが聞こえた気がしたからだ。だが、なにもなかった。

風の唸りかなにかを聞き間違えたのか、とも思ったが、そもそも風すら吹いていない。

動くものはなにもない完全に死んだ世界なのだ。なのにどこかで誰がが囁いている気がする。

皆子は激しい目眩に襲われ、こめかみに手をやる。

こめかみに尖った氷をあてがわれたような異様な感触に驚き、自分の手を見る。

しわがれ、ねじ曲がった黒い棒のようなものが目の前にあった。棒は細かくひび割れ、青白い炎を上げ燃えている。

それが自分の手である事を認識するのに数秒かかった。

皆子は声にならない悲鳴を上げる。

ぐるぐると世界が回り始める。

頭の中で誰かが囁やく。囁きはごうごうと逆巻く風の唸りとなり皆子の頭で鳴り響く。

皆子の頭が風船のように膨れ上がる。

激しい頭痛に皆子は呻く。

ぱんぱんに膨れた皆子の頭がばちんと弾けた。


p.m. 3:12

皆子はベットで目を覚す。目か覚めたという実感は乏しい。

横になったまま手を目の前に持っていく。

異常はなかった。

そっと頭を触ってみた。やはり、異常はなかった。

夢を見たのだ。凄く嫌な夢だった、とぼんやりと思った。とても寒いのに全身に汗をかいていた。

半身を起こす。いたるところの関節が痛み、錆びた蝶番が悲鳴を上げているようだった。

ズキリと頭が痛んだ。


p.m. 3:48

「そろそろ夕御飯の準備をしないと」

詩織が奈緒に言った。

「ですねー。でも奥さま降りてきませんね」

奈緒は天井を見上げる。

「具合悪そうだったから。私達でやるしかないかな」

「えーと、料理ですか」

「なに、嫌なの?」

「いや、嫌じゃないですけど何作りますか?」

「う~ん。どうしょうかね。困った時のカレーライスかな」

「あーー、カレー良いですね。そうしましょう」

二人がそんな会話をしていると皆子が二階から降りてきた。

「あ!奥さま。具合良いのですか?」

「ええ、大丈夫よ。遅くなってご免なさい」

詩織の問いに皆子は笑みを浮かべたが、決して具合が良いようには見えなかった。

「今夜の夕食は私達で作ろうと話していたんですよ。奥さまは少し休まれた方が良いと思います」

「あらあら、詩織さんと奈緒さんのお料理は楽しみだけど、平気よ。お手伝いするわ。

それで、何を作るのかしら」

「カレーライスです」

奈緒が少し照れ臭そうに言った。


p.m. 4:52

おかしいなぁ、と加奈子は頭を捻る。

目の前の本棚を何度見直しても目的の資料は見つからなかった。

確か、ここで見たはずなのだが。

再度記憶を手繰るが、やはり、ここしか思い当たらない。

加奈子はもう一度上の棚から調べ直す事にした。

20分ほど探して加奈子は思わず声を上げる。

「なんだ、こんなところにあった!」

何気なく見た教授の机の上に目当ての資料が置かれていた。

なんの事はない、教授もこの文献を使おうとして整理していたのだ。色々あって持っていくのを忘れたのだろう。

加奈子は内容を斜め読みし、目当ての文献である事を確認すると石原に電話をかけた。

「もしもし。石原さんですか?

藤島です。文献見つけました。」

『ああ、そうかぁ。良かった。

じゃあ、今日はゆっくり休んでもらって明日持ってきてもらえるかな』

「はい、分かりました。すみませんが詩織に替わって貰って良いですか」

『山本さん?

ちょっと待ってもらえるかな。今、夕食の準備してるから台所なんだ』

「詩織が夕食の準備ですか?」

『ああ、皆子さんも調子が悪くなってね。みんなで協力して作っているんだ。

じゃあ、呼んでくるから待ってね』


p.m. 5:19

「ああ、皆子さんも調子が悪くなってね。みんなで協力して作っているんだ。

じゃあ、呼んでくるから待ってね」

石原は固定電話の受話器を置くと台所に向かう。

台所では詩織、奈緒、皆子の三人がカレーの用意をしていた。石原は皆子の具合が気になり、視線をそちらに向ける。

皆子はまな板を前に何かを切っているようだったが後ろ姿からは具合の良し悪しは良く分からなかった。

大したことは無いのだろう思いつつ、目的の詩織に声をかける。

「山本さん。藤島さんから電話だよ」

「はい、分かりました」

詩織は手に持った皿を置くとリビングに移動した。


p.m. 5:22

皆子は朦朧とした頭で立ちすくんでいた。思考がどんどん混濁していく中、聴覚だけが異様に鋭敏になっていた。

ぐつぐつと煮立つ鍋の音。

とんとんと包丁で人参を切る音。

いつもなら心地よさすら感じる音が耳に突き刺さってきた。凍りついた鼓膜に爪を立て引っ掻かれているようだ。


куэ куэ кураицукусэ


さっきからひっきりなしに耳元で意味不明の囁く声も聞こえる。

囁き声の主は隣で鼻唄混じりにジャガイモを剥いている美緒ではない。もっと近くで、耳に口をつけるぐらいの距離から聞こえてくるのだ。

そして、懸命に振り向き囁き声の主を探しても見つける事はできない。

皆子は自分は気が狂ったのではないかと危ぶむ。

不意に荒涼とした原野、さっき見た悪夢の情景がフラッシュバックする。

両手両足が青い炎を上げ燃え始める。

「ひっ?!」

皆子は息をのみ、炎を消そうと両手を振る。

手がまな板にぶつかる。まな板はぐらりと傾き、乗っていた物を床にぶちまけた。


p.m. 5:23

「もしもし、私よ。何かあった?」

『詩織?

えっと、あなた、たしか研究室に何か忘れたとか言ってなかった?』

「え?そんなこと言ったかしら」

詩織は記憶を辿る。

暫しの沈黙。

遠くで何かが落ちる音が微かに聞こえてきた。


台所に金属特有の甲高い音が響き渡る。

見ると包丁が床に転がっていた。

「うわ、危ない」

美緒は思わず叫ぶ。一つ間違えれば大怪我だ。

包丁を拾おうとして美緒は皆子の様子がおかしいのに気付く。両手をだらりと垂らし、とり散らかったまな板も包丁も食材を見ようともしない。

「皆子さん、大丈夫ですか?」

振り向いた皆子を見て、美緒は息を呑む。

白眼を剥き、開いた口からは涎を垂らしている。まるでB級映画のゾンビだ。

「うーーぅ」

「きゃあ!」

呻き声を上げ皆子は美緒に襲いかかった。

そのまま押し倒される。

「ちょ、み、皆子さん!止めて」

噛みつこうとする皆子を必死に抑える美緒だが、じりじりと皆子の圧力に押し込まれる。

あわやと言うところで皆子の体が後ろに引き戻される。後ろから仁が皆子を羽交い絞めにしていた。

美緒の体も引き起こされる。肩口に石原の顔があった。

「一体何の騒ぎだ」

「私も何が何だか。皆子さんの様子がおかしくなったと思ったら急に襲いかかってきて」

「ちょっと先輩!

手ぇ貸してください。凄い力だ。

皆子さん落ち着いて!」

仁が顔を真っ赤にして皆子を抑えようと頑張っていた。

性別、年齢、体格、その全てで優位に立つはずの仁が皆子を抑えこむ事ができないでいた。


『……なら、いいけどさ……』

突然の悲鳴、それから、怒号。

詩織は受話器から耳を離すと後ろを振り向く。

一体何を騒いでいるのだろう。

眉をひそめる。台所の方だが、ドアが閉まっていて何が起きているのか分からない。

バン。

凄い勢いでドアが開け放たれると美緒が血相変えて飛び込んできた。

「詩織さん。皆子さんが大変です。

急に暴れ出して!

今、仁と石原先輩が抑えてます」

「え!?暴れる?」

皆子が倒れたのかと思ったが、次に続く言葉に詩織は混乱した。話が見えない。状況についていけない。

ふっ、と電灯が消える。

「なに?」

天井を見上げるが、何があるでもない。ただ、電灯が何の前触れもなく消えたのだ。窓から夕暮れのオレンジ色の光が頼りなく差し込んでおり辛うじて暗闇にならずにすんでいた。

石原がリビングに飛び込んできた。

それを追いかけるようにもう一人、リビングに入ってきた。

その人物を見て、詩織は絶句する。

皆子だ。

だが、自分の知っている皆子とは思えなかった。

歯を剥き、白目で周囲を睨み、咆哮する、それは人とすら思えない代物だ。

「この!」

石原は近づこうする『何か』にテーブルをぶつけて押し返そうとした。『何か』は二歩ほど後ろに下がったが直ぐに力を取り戻す。逆に石原が押し返される。

慌てて美緒が石原の加勢に入る。

「詩織さんも手伝って!」

美緒の言葉に受話器を持ったまま固まっていた詩織がはっと我に返る。

詩織も加勢して、石原、美緒、詩織で『何か』を押し返そうと渾身の力を込める。じりじりと『何か』は押し返される。

「あーー」

「きゃ!」

力負けし始めた『何か』がテーブルをひっくり返す。

三人はバランスを崩し、揃って床に転倒する。

横倒しになったテーブルを境に、石原、詩織と美緒に分断される。

『何か』はどちらに狙いをつけようかと迷うような素振りを見せたが結局、奥側の石原、詩織に狙いを定める。

詩織はパニックに襲われる。部屋の奥なので逃げ場がない。

「こっちだ!」

狼狽えいるところを石原に手を引っ張られる。石原は奥にある倉庫へのドアを目指している事が直ぐに分かった。

倉庫に飛び込むとドアを閉める。

バン バン

バン バン

間一髪閉められたドアが激しく叩かれる。

「何か、つっかい棒になりそうなものを。

早く!」

ドアを抑えながら石原は懸命に叫んだ。


美緒は深呼吸をする。

(落ち着け)

美緒は心の中で自分に言い聞かせる。

皆子だったものは今、石原先輩達に引き付けられている。

逃げるなら今だ。

直ぐ後ろのドアは廊下に繋がっている。廊下の直ぐ横は玄関だ。

音を立てずに。ゆっくりと。『何か』に気づかれては行けない。気づかれずに廊下に出ればなんとかなる。

美緒は息を潜め、這いずるように廊下へ出た。

廊下てまほっと息をつき、玄関にいそぐ。

ドアノブに手をかける。

「えっ?」

美緒は想定外の事に思わず声を上げた。

ドアが開かないのだ。

鍵は掛かっていない。それなのに開かないのだ。

(なんで?)

美緒は焦って何度もドアノブを回すが、ドアはガチャガチャと音を立てるだけでびくともしなかった。

「はっ!」

後ろに気配を感じて振り向く。

『何か』が直ぐ後ろに立っていた。

美緒は悲鳴を上げるが、それを合図に『何か』が美緒に襲い掛かってきた。

美緒はドアに押し付けられる。物凄い圧力に美緒は圧倒される。大きく開かれた口が徐々に美緒に喉笛に近付く。

「逃げろ、美緒」

仁の声がしたと思ったら、『何か』の圧力がなくなる。

恐る恐る目を開けると仁が『何か』を廊下に組伏せていた。手には包丁が握られていた。

「仁!」

美緒は叫ぶ。

「逃げろ」

仁は手に持った包丁を『何か』に降り下ろす。

血渋きが舞った。

「駄目よ。ドアが開かないの。逃げれない」

「何処でもいい。何処か鍵のかかるところに隠れろ」

仁に言われて美緒は二階への階段が直ぐ横にはあるのに思い当たる。

「じゃあ、仁も一緒に行こう」

「俺は後で行くから先に行け!」

「えっ?でも、」

奈緒は躊躇う。何度包丁で刺しても『何か』の動きが止まることはなかった。

不死身なのか。

このままではいずれ仁の体力が尽きる。

『何か』の両腕が仁の喉元に伸びる。

「いいから行くんだ!」

仁が苦しげに絶叫する。奈緒は目をつぶり階段をかけ上がった。

そして、一番手近なドアを開け飛び込むと鍵をかけた。


2018/02/25 初稿

2018/02/26 一部文章変更。大筋に変更なし。

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