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凍える囁き

「毛布をもう一枚貰えませんか」

コーヒーを受け取りながら恩田はキャビンアテンダントにもう一枚毛布をお願いする。

「寒いのですか?」

隣に座る石原が心配そうに問いかける。飛行機の空調はよく管理されていて、およそ寒さとは無縁だった。その上、恩田の膝には既に厚手の毛布が置かれていた。見ている方が汗ばんでしまいそうな姿だ。

「うむ。君は寒くないのか」

「はい、むしろ、少し暑いかなと思ってます」

「そうか、私は寒くてたまらない」

「大丈夫ですか?

風邪でもひかれたたしたか」

恩田は自分の額に手を当てる。

「熱は無いようだが……

調子は良くないな。何せあの死蝋を発見してからほとんど寝ていないから。

本当は日本に戻りたくはないのだが、学会での発表の準備をしようとすると戻らないわけにはいかん」

「こっちの方は当面、ベルナー教授に任せるしかないですね。日本にいる加奈子ちゃん達には連絡して資料のまとめの準備を進めてもらってますよ。なんか山荘を借りたって言ってました」

「山荘?そんなお金はないぞ」

教授は驚き、身を乗り出す。

「お金は大学から特別予算が下りたって言ってましたよ。なんといっても世界のダイハッケンですから。ただ、日本のマスコミも結構加熱しているらしくて、山荘にでも籠らないと落ち着いて資料のまとめができないとかなんとか言ってました」

「本当か?ただ単に山荘に泊まりたいだけじゃないのか?」

「はは、どうでしょうね。でもまあ、良いじゃないですか。大学の研究室より山奥の山荘の方が今回の資料をまとめるにはイメージが膨らんで筆が進むんじゃないですか」

石原の言葉に恩田は不満そうに鼻を鳴らす。

「ふん。我々は小説家ではない。事実を積み上げて真理に到達するのが使命だ。真理が環境などに影響されるなどあってはならんよ」

「お言葉ですが、我々の研究対象の文化は環境に因って育まれるものです、なので自分達の研究しようとしている文化と良く似た環境に身を置いて考察するのは有益かと思います」

「ふふん。そう来たか。まあ、良かろう。私としては落ち着いて仕事ができれば何でも構わないがね。

ああ、ありがとう」

恩田教授はアテンダントに差し出された毛布を受けとると冬籠もりのミノムシの様に毛布を体に巻き付ける。

「疲れた。私は少し眠るよ」

教授は石原の返事も待たずに目を閉じた。


「む……」

恩田教授はふと目を覚ます。

微かな振動とエルジン音がまだ、機内である事を教えてくれる。

室内灯は暗く、乗客は殆どの者が眠っているようだった。

体は冷えきっていた。これ程毛布を重ねているのに暖かさがまるで感じられない。体の中心に大きな氷の塊があるようで、外からではなく体の中から寒さがやって来るようだった。それでいて全身にねっとりと粘りつく脂汗をかいていた。

何か不快な夢を見ていた様だが内容を思い出せない。

варэнистагэ

恩田教授は辺りを見回す。確かに何か聞こえた気がした。だが、声どころか、近くには囁く者すらいなかった。隣の石原は静かに寝息を立てている。

恩田は静かにトイレに立つ。

симобэтарэ

通路でまた解読不能な囁きが聞こえた。

と恩田教授は突然の目眩に襲われる。

ぐらりと体が傾いだ。

危うく倒れそうになるところをアテンダントに支えられる。

「大丈夫ですか?」

青い目に覗きこまれ恩田少しどぎまぎする。女の方が少し背が高い。白い喉元が目の前にあった。


喰いたい

あの白い喉元にかぶりつき 

喰いちぎり 溢れる血を思う存分味わいたい


自分でも信じられない衝動が体の奥底から湧き出てきた。

唐突で異常な感情に戸惑い、恐怖を覚える。

「ああ、大丈夫。ありがとう」

恩田は吹き出る脂汗を拭うと慌ててトイレに駆け込む。

汗を拭い、正面の鏡を睨む。

鏡には青黒い顔が浮かんでいた。胃液が込み上げてきて吐いた。

何度も吐く。だが、出てくるのは赤紫色の胃液ばかりだった。

酸えた臭いが鼻をつき、喉をヒリヒリと刺激する。

何度も胃を吐き出すような思いを経て、ようやく落ち着く。ノロノロと口をゆすぎ、顔を洗い鏡を見る。

「わっ」

顔を上げた教授は鏡に写る顔を見て驚いて叫んだ。

青白い炎に包まれたドクロが苦悶の叫びをあげていた。

反射的に後ろに下がろうとして背中をドアにぶつける。

「どうされましたか?

大丈夫ですか?」

すぐにドアがノックされた。ドア越しにアテンダントの声が聞こえてくる。

どうやら心配されてドアの外で様子を伺われていたようだ。

「大丈夫」

教授は掠れた声で答えるともう一度鏡を見た。

何の異変はなかった、ただ、強張った自分の顔が写っているだけだった。

疲れているのだろう。

寝不足が全ての元凶だ。だから、妙な錯覚を起こすのだ。

そう恩田教授は自分に言い聞かせ、もう一度顔を洗った。

ドアを開けるとアテンダントが待機していた。完全に要注意人物に認定されてしまったようだと、教授は内心苦笑する。

心配そうな視線に教授は弱々しく笑みを返すと自席に戻り、大して役にたたない毛布にくるまった。

「何か飲み物をお持ちしましょうか?」

「水を1杯。お湯でお願いします」

椅子に深々と身を沈めながら教授は言った。




差し出されたコップ。

だが、教授の視線はコップではなく、コップを持つ艶やかな手に注がれた。熟れたチーズのような色艶。芳しい匂いが鼻孔をくすぐる。

教授の心に再び、あの感情が甦る。


喰いたい


その感情がいかに狂っているか自覚できない訳ではない。だが、教授はどうしても、その艶やかな手から目を離す事ができないでいた。

アテンダントの手、腕、二の腕と順繰りに舐めるように見る。

アテンダントが自分の視線に気づかない事を教授は内心願う。

кураэ мусаборэ

хиктгрэ кураицуксэ

耳元で声がしきりと聞こえる。

虫の羽音のような理解不能の言葉。だが、何か意味のある言葉であるのは何故か分かる。

ごくり、と喉が鳴った。

世界がぐるぐる回り始める。

初めは微かに、だが、直ぐに目も開けていられない激しさになる。

恩田は目をつぶり、歯を喰いしばる。

酷い耳鳴り。

こめかみがどくんどくんと激しく脈打つ。

ヌルリと感覚が逆転した。

視覚、聴覚、触覚。五感全てが反転する。

あれほど感じていた寒さが熱さに変わる。

はっとなり目を開ける。とたんに暗闇に目を眩ませる。

恐ろしいのは、逆転したのが感覚だけではないことだ。感性もまた反転していた。懸命に衝動を抑えていた理性(ブレーキ)理性(アクセル)に変わる。

恩田教授はカップを持つ手にかじりつく。強い鉄気(かなけ)が口一杯に広がる。

甘露。

無我夢中で肉を噛み千切り。

さらに力任せに女を引寄せ、二の腕に歯をたてる。

ズブズブと肉に歯がめり込む感触に恩田は歓喜する。甘く暖かい液体が止めなく喉に流れ込んでくる。躊躇なく飲み干す。

「おおおぉ」

手足にざわざわとした快感が走る。両手両足が青白い炎を発し燃えあがる。

熱い、たまらなく熱い。

みるみる手足が萎れ、ひび割れていく。

バキン。

枯れ枝が折れるように両足が割れ、砕ける。

バランスを崩し、教授は通路に転げ落ちる。

立ち上がろうと手をつく

が、

バキン。

ついたとたんに手も割れ、砕ける。

四肢をもがれて達磨になった教授は通路を転げ回る。

燃えるような熱さと快感に全身を蝕まれ、のたうち回り歓喜の悲鳴を上げる。

「おおおおおおお

うあああああぁ」



「うわぁ」

絶叫して恩田教授は身を起こした。

気がつくと、飛行機の椅子の上だった。

夢を見ていたと気づくのにかなり時間がかかった。いつの間にか眠ってしまったようだ。

毛布が足元にずり落ちていた。

キャビンアテンダントが何事かとこちらをうかがっている。

恩田は手振りで大丈夫と示すと足元の毛布を拾い上げた。

手が小刻みに震えていた。

それが恐怖のためか寒さのためかは自分でも分からなかった。




「本当に一人で大丈夫ですか?」

空港のタクシー乗り場で石原は心配そうに尋ねる。

恩田は無言で頷く。

タクシーの後部座席に倒れるように身を投げる。

「先生、これを」

石原は手鞄を差し出す。恩田は鞄を受けとり弱々しい笑顔を作る。

「ありがとう。

まあ、一日寝れば良くなるだろう」

「一日と言わず二三日奥さんと一緒にのんびり過ごしてください。準備の方はこっちで全部やっておきますので心配しないで熱い風呂にでも入ってください」

「ああ、すまないね。頼むよ。

みんなにも宜しく言っておいてくれ」

ドアが閉まり、タクシーは走り去る。

タクシーを見送った石原はぼんやりと自分の右手を見る。教授の手は氷の様に冷たかった。

あんなに調子の悪そうな教授を見るのは初めてだった。早く良くなれば良いが、と思いながら石原はシャトルバスの乗り口に向かって歩き始めた。

2018/02/13 初稿

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