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第六十三話〜開幕〜

 源闢十六年、皐月一日。

 夏半ばにして、宮域焼亡から四月弱が経過したこの日。造宮卿に降下となった菅原道真によって着実に且つ早急に新宮造立が進められていたが、朝堂院が遂に完成した。

 此度の造営に関して、その基本設計は陰陽頭に一任されている。造宮卿からの奏上によるもので、その設計は本人曰く「我等生前の都、平安宮を雛形としました」らしい。


「今回の御造営ですが、東の揚梅宮と庭園を除いて平安宮をほぼまるっと真似た形になります。揚梅宮と庭園はそのまま復元しました──平安宮と重ねた際にはみ出る場所ですので。それ以外は平安宮に寄せましたので、北側の宮域が少し伸びました。まあ北辺坊(きたのへぼう)までなので大きな変更ではありません。これを例外とすれば奇跡的に面積がほとんど同じですので、平安宮と東院の融合物と言えましょう。流石に宴の松原にあった真言院は造りませんが……」


 そんな説明が陰陽頭から直接あったが、聖武天皇には何のことやらさっぱりであった。自身より五十年近く後の話なので当然と言えばそうなのだが。


 外に目を向けよう。新たに平定された西と東は、夫々「西陸道(さいりくどう)」と「東洋道(とうようどう)」と名付けられた。前者は于留狗に「許昌府(きょしょうふ)」を、後者は住民が刃隈と呼んでいた島に「開封府(かいほうふ)」を設置し、その四等官は大興府のそれに準ずるものとした。許昌府には前大興帥であった阿倍仲麻呂を代わって任じ、開封府には此方の役人を送った。因みに空席となった大興帥は、西川道の教化が十分と判断されたので府学の学生(がくしょう)出身者に切り替えられた。許昌府と開封府も、学生の教化が完了次第其方に切り替えられる。方々に散らばる都市や地名は、漢字二文字で現地語を音写するものとした。例えば楼眞(ローマ)とか論問(ロンドン)(厳密には「ろんでぃにうむ」だったが、固有名と言い難い部分を取り除いた)である。

 この両道では、西川道と違って米が取れず、また貨幣制度も大きく異なる。西では(しろがね)(こがね)を秤量にて用い、東に至っては物々交換であった。そこで、金銀や農水産品と銭の交換比率を決定し、それを基準とした税制を確立した。則ち、規定量の租調と同額の銭になるような金銀或いは産物を納入させるのである。勿論何かしらの方法で銭を稼ぎ、これを用いても問題無い。これを俗称として兌換令(だかんりょう)と呼ぶ。

 改革は宗教面にも及んだ。西川道では仏教が奨励されていたので問題は無かったのだが、此度はそうもいかない。何れも異なった神話体系を持つ多神教を崇拝しており、単純に同化させるのは厳しい。そこで、経文神道への「習合」を実施した。則ち、天照大神は東西双方の主神としての性格を持つのである。他の神格においても同じように習合を推し進め、夫々の神殿或いは祭壇を社とした。従来の儀式は一旦停止され、律令の神祇令(じんぎりょう)に従う事とした。旧礼は神祇官にて検討の後、改廃を決する。


 次は本土の内政を見よう。太政大臣が罷免された事により、大臣級の公卿が(一時的だが)不在となった。その為、大納言と左右大弁の集団でこれを補うよう命じられた。適当な人間が見つかり次第大臣位に置き、政務を執る。

 陰陽寮にも変化が生じた。西陸道での新たな妖術体系の発見と、版図拡大に伴う暦のずれを確認是正の必要。この二点によって陰陽寮の職掌拡大が妥当と陰陽頭が奏上し、勅裁によって認可されたのだ。これによって、陰陽寮は新たに「陰陽台(うらのつかさ)」となり、その長は従三位相当である陰陽尹(おんみょうのかみ)と規定された。よって安倍晴明は従三位に格上げとなった。

 以上、道の設置と関連施政、兌換令と内政改革を総称して源闢十六年の格と呼ぶ。後世になれば夫々別の名前が付くのであろうが、どれも一つの格に纏められたので年号を取ってこう公称される。


 改元の詔も下された。十分に王化が進んでいる現状を鑑みるに「源を(ひら)く」と呼ぶのは相応しくないと判断され、新たな年号として「広徳(こうとく)」則ち「徳化広し」とされた。よって源闢十六年皐月一日より、広徳元年になった。

 序でに西陸道にて発見された紀年法が検討された。彼等が「建国紀元」と称するこの紀年法は、言わば無限年号のようなものであり、則ち紀元元年から何年経とうと紀元某年と数えるものである。その利便性から採用の声が高かったが年号使用との兼ね合いもあり、最終的には併用する事が決まった。名称は「治天紀元」となり、聖武天皇の(この世界での)為政開始を起源として、広徳元年が治天紀元十六年と定まった。以降改元の有無に関わらず加算されていく。


 源闢十六年改め広徳元年。新年号が始まった。


 …………


 西陸道、于留狗から変わって許昌府。許昌帥として阿倍仲麻呂が入ってきた後も、東宮と押領使は依然として留まっていた。


「ところで殿下、いつまで此処におられるのでしょうか。この地域の統括官として私も参りましたし、そろそろ中央へ戻られても宜しいかと存じますが」


「む、許昌帥か。いや、その、なんだ、確か内裏がまるっと燃えただろう。焼け野原に行ったって仕方ないから此処にいるんだ。別によかろう」


「確かにそう言えばそうなのですが、はあ……」


 最近の東宮は新しい理由を手に入れた。「内裏焼亡」を盾に還啓(かんけい)を拒むようになったのだ。押領使から話は聞いていたが、予想以上の粘り強さに許昌帥も驚いた。一人の使用人の為にそこまでするか、と。いくら東宮とは言え、口には出せないが許昌帥もそろそろ鬱陶しくなってきた。


「どうしたものか……おや押領使殿、息を切らして如何なされた」


「許昌帥殿、丁度良かった。お客人が参りました」


 外から早歩きで帰って来たのは押領使であった。出る前は「ちょいと散歩にでも」と言っていたが、散歩という単語に激しい運動なんて語義は無かったはずだ。


「……貴方の具合を見ると、さぞ面倒な方なのでしょうね」


「全くもってその通り。二千人の兵卒もご一緒だ」


「なんて面倒臭い。取り敢えず護衛を五人くらいに限定してお通ししてください。対話は私の担当ですのでね。……兵の用意も出来れば」


「承った。では失敬」


 武人とはつくづく忙しない生き物だ。そんな感想を抱きながら体裁を整える。東宮を奥の部屋へ帰らせ、何を言われても動じない心を用意する。

 暫くして、扉が叩かれる。


「許昌帥様、お客様をお連れしました」


「……よし。通してよろしい」


 広徳元年、治天紀元十六年皐月十日。新たな火種の発生である。

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