第六話〜侵略って、楽しいよね!(後編)〜
あの国から帰ってきた時には、丁度昼餉時であった。聖武天皇は留守官に任じていた道真の報告を聞きつつ昼餉を摂る事にした。行儀は甚だしく宜しくないが、どうせ人間と呼べるような存在は彼のみであり他は使役魔なので問題あるまい。
「……以上で報告を終わります。兎に角、陛下が無事に還幸されて何よりです」
「うむ、目的は果たした故今日は他にやる事はなかろう。現時点を以て留守官の任を解く。通常業務に戻るように」
「承りました」
そう言って道真は足早に去って行った。意外とやる事が残っていたのだろうか。
昼餉を摂りながら聖武天皇が考えていたのは暦の事であった。陰陽頭によれば今日は天徳三年の末頃にあたるが、天徳の年号を使うのも何か違う気がする。やはり改元をすべきだろうか。そんな事を構想しているうちに昼餉を食べ終わった。女官に下げさせ、腹ごなしの散歩に出かける。これとて本来であれば身分を弁えた際には好ましくない行為ではあるのだが、未だ国を統べている訳もないので考慮に値しない。
…………
歩きで兵部省辺りまで歩いてみると、いつに無い騒がしさである。兵部卿が丁度其処にいたので、事情を聞くことにした。
「卿よ、何事かね」
「ああ、これは陛下。実は、彼の国からの亡命を考えて羅城までやって来た農民が数名いるという事で対応に苦慮しているのです。追い帰すのも可哀想だけども受け容れる訳にも行かぬと板挟みでして……」
「亡命の理由は聞いているのかね」
「彼等が言うには、あの姫巫女の占いが的中しなくなり、遂に信用出来なくなった……との事です」
「占いの度重なる失敗……か」
実のところ聖武天皇は、姫巫女の祭祀能力を高く評価していた。「巫女」の名を敬称として用いられる人物が占術に関して安本丹では余りにも不釣り合いだからである。故に斯様な人物が腕を鈍らせたとなったら、その要因は恐らく彼の演技による重責であろう。当人には申し訳ないが、思わぬ副産物である。
「羅城内には入れるな。但し、食糧と仮住まいの提供はこれを認める」
「承りました。支援品甲、乙の運搬配布急げ!」
農民が自分の耕作地を放棄して逃げ出すのは律令の上は非違なのだが、彼等はそんな事など露ほども知らぬ。生命の繋ぎ止めくらいは良いだろう。
すると其処へ、例の小童が走ってきた。陰陽頭の使役する式神である。
「陛下、晴明様からの伝言をお伝えに参りました。至急、陰陽寮まで来て欲しいとの事です。車は装束を整えてありますので其方をお使い下さい」
それだけ言うと式神は目の前で姿を消してしまった。拒否権は無さそうなので従う事にして、車に乗った。直ぐに車は動き出し、陰陽寮へと向かって行った。
…………
陰陽寮では、陰陽頭が神妙な面持ちで座っているのが分かった。何か考え事をしているようだが、構わず声を掛ける。
「陰陽頭よ、話とは何か」
「陛下、少し面倒な事になるやも知れませぬ」
「式神に情報を集めさせたのか」
「流石陛下、お早い御理解で助かります。その式神によりますれば、彼の国の貴族は派閥が二手に別れました。我々に従い、村落を存続させようとする者と断乎として我々に反抗し、姫巫女が腑抜けになった責を取らせようと言う者の二つに御座います」
「何方かが優勢なのかね」
「双方ほぼ同数で拮抗しておりますが故に面倒やも知れぬとお伝えした次第に御座います。尤も、彼等が軍勢を仕向けたところで二千が精々です。粗同じ兵装を持ち、遥かに数で勝る我々の方が圧倒出来るでしょう」
聖武天皇の本音としては大人しく従って欲しかったが、やはり反対意見が出たかと言うのが正直な感想であった。とは言え、民草の感情が何方かに偏れば情勢も変化しよう。
「その国の民は何方側についているのか」
「これもやはり同数と報告が来ております。後は腑抜けの姫巫女次第、と言ったところでしょうか」
「分かった。式神による監視は続行、後は静観するように」
「仰せのままに」
彼の言う通り、少し面倒だと思った聖武天皇は、傾きつつある日を尻目に内裏へ戻り、夕餉を摂る事にした。
…………
内裏に戻り、女官に夕餉の支度をさせると同時に堅苦しい束帯から単衣に召し替えてしまう。今日は肩肘張って外交なぞしたものだから肩が凝るのである。
そうして気を抜いていると、ふと見慣れない本が目に入った。はいはいいつものやつねと投げやりになりながらも一応手に取ってみる。予想と外れ、それは普通の地誌の解であった。確か別の場所に保管してあった筈であるが……
それを眺めていた聖武天皇は、他国統合の暁にやるべき事がある事に気付いた。則ち地方資料の編纂である。各々の土地に深く根付く文化を知らずして徳政は望めない。民草をより幸福に導く聖人君子たるならば、絶対的に必要な事業である。とは言え彼の国が服属すると決まったわけでは無いので、今は一度脇に寄せて置いても罰は当たらなかろう。
今日の夕餉は一際豪勢な物であった。白米、鱧の吸物、山海の幸、果物の蜂蜜煮などここ最近は目にする事も無かった品がずらりと並び、見た目にも嬉しい。明日は何をしようかと言った煩雑な思考は頭の片隅に暫く押し留め、箸に手をつける事にした。
美味くない訳が無い。大満足で夕餉を終えた彼は就寝準備を始めた。どうせ今日はやる事も無いのだからさっさと寝て明日に備えたいのである。本音は只々眠いだけではあるが。
不幸にも丁度その時、式神が文を二通携えてやってきた。一つの文の主は兵部卿であった。受け取り、読んでみる。
〈陛下が慈悲を施せし農民ども皆兵にして反抗す。我ら之を鎮め悉く捕縛せり。裁可を仰ぐ〉
彼等は偽装兵であったか。その時聖武天皇の頭に湧いたのは怒りではなく呆れであった。大方、反対派が送り込んだ者共であろうが、そんな者にやられる彼では無い。そんな感情を抱きつつもう一方の文を読む。差出人は陰陽頭である。
〈彼の国より使節出づ。輿一つ有りてその主姫巫女の可能性大。歩行故に明日昼頃の到着か〉
愈々分裂し、別で行動したか。無論彼が受け入れるのは後者の方である。恐らく僅かに残っている姫巫女の権威を利用して里を統合しようと言うのだろう。その為に反対派に気付かれぬよう夜間にこっそりと抜け出たのは得策とも言える。
明日起きる出来事に楽しさと若干の不安を覚えつつ、床に入る事にした。
……余談 政務雑用の灯は消えず
その頃、民部省庁舎内では道真が夜分遅くまで考え事をしていた。自らの式と陰陽頭の式とでかなり楽になったとは言え、未だに殆どの省寮を担当している彼は間違いなく社畜であった。使役魔が過労死する事は無いが、相応に疲れは出る。まして人で言えば過労死基準を遥かに超えるような労働量を任せられている彼は真面に思考が働くか甚だ怪しい所である。その状況下で職務を全うしているのは最早奇跡と言える。
そんな彼が悩んでいたのは、食糧問題であった。外に群がっていた偽装兵への支援で少なくない量の麦飯を失った。まだ貯蔵には十分すぎるほどの余裕があるとは言え、収入の無い現状では完全な赤字である。彼の悩みとは則ち収税の目処或いは自活の方法であった。最悪、兵を動かして隣国ごと制圧すれば解決するのだが帝は納得しなかろう。果たしてどうすれば良いのだろうか……
その答えが出る事は無く、夜は更けていくのであった。