第卅五話〜遂にその時が〜
……聖神皇帝視点
ちょっとした物音で目が覚めた。安心したとはいえ、極度の緊張下にあっては人は敏感になるのだろう。
物音の正体は、この神聖なる太極宮に入り込んで来た矢文であった。
「何故矢文が……」
広げて見ると、しっかりと漢文が書かれている。
手紙には、以下の文だけが記載されていた。
〈降伏不然死〉
「降伏か、然らずんば死か、とな。調子に乗りおってからに……」
その直後、鋭い音を立てて横から何かが掠めて行った。それも一本だけでなく、何本もである。
余りの驚きに声をなくし、飛んで来たものを探すと、果たせる哉、それは大量の鏑矢であった。確実に敵襲、それも完全な奇襲である。
「……て、てきしゅ……」
声を上げようとした瞬間、外から大きな音と眩い光が差し込んで来た。今度は何事か。
動かぬ足を何とか動かし、窓から外を眺めると、そこは数多の火箭が飛び交う地獄と化していた。
見え難い鏑矢、輝く火箭。鳴る鏑矢、響く火箭。飛び込む鏑矢、飛び回る火箭。
もう、頭がおかしくなりそうだった。
「な、なな、なんと……」
その時、また矢文が飛び込んで来た。あと少しずれていたら確実に命中である。正に間一髪。
震える手で手紙を開く。
〈即答。降伏不然死〉
最早、抵抗する気力なぞ失われていた。
やっと部屋に駆け込んで来た仁傑に、その手紙の答えを伝えた。
彼は悲痛な面持ちで長く考え込んでいたが、やがて腹を括ったのか、賛同してくれた。
こうしては居られない。急ぎ使者を派遣せねば。
……京職視点
「確認。矢文はどうか」
「予定通り打ち込みました。上手く行けばもう降伏準備に入っているでしょう」
「うむ。火箭はどうか」
「全て撃ち尽くしました。今頃、奴さんは度肝を抜かれているでしょう」
「うむ。皆、良くやった。早急に帰還する」
今回の作戦は至極単純、緊張で張り詰めた敵の糸を強引にぷっつりと切るのである。
ここまで包囲されれば、いくら敵とて不安に駆られる。そこで進軍を停止すれば、敵を食い止めた安心感と侵攻の恐怖が綯い交ぜになる。結局、普段程食事も喉を通らずに……或いは都合上あまり摂らずに……寝る事になるが、良く寝られる筈もなく。そこでこの睡眠を徹底的に破壊するのである。
使用したのは鏑矢、火箭の二種類。場合によっては漏刻の鐘も鳴らそうと思ったが、どうやら不要だったようである。
さっさと帰還して、明日を待とう。
…………
翌日、朝。
「京職様、陰陽頭様。敵方より使者が来ております」
「うむ、通せ」
「では、しばしお待ちを」
皇宮のすぐ外に移した本陣の天幕へ、敵の使者がやって来た。恐らく降伏するのだろう。
「やっとだな、これで帰れる」
「……だと良いんですがねぇ。向こうから我々と同じ匂いがしますよ」
「何だと。と言う事は……」
「使者も使役魔か、近い類でしょうね。面倒でなければ良いのですが……」
一体、誰が来ると言うのか。邑内の構造を見る限りは明らかに長安であるから、唐土の人物なのは間違いないだろう。いや、抑も使役魔が呼べると言う事は……
「京職様、使者をお入れしてよろしいでしょうか」
「う、うむ」
「では……使者殿、此方です。御無礼の無きよう……」
入って来た人物を見て、陰陽頭は何かに気付いたようである。
「お初にお目にかかります。代表使節として参りました、狄仁傑と申します」
「……大和将軍、遮那王である」
「同じく大和陰陽頭、賀茂晴明と申します」
二人は彼を警戒し、偽名を伝えた。京職は幼名を答え、陰陽頭は自分の師の苗字に名の訓読みを繋げたものである。
「して、何が為の使者か」
「無論、貴殿らの望む我等の降伏の件であります。主上は降伏の決断を下されました。城門は皆開門致します」
「……相分かった。陰陽頭、何とする」
「取り敢えず五十人ほど兵を送って周王の監視に当てましょう。開門時に逃げ出されても困りますからね」
「……では、御自由にどうぞ。国書はここに置いておきます。では私はこれで……」
何とも使者らしからぬ態度で彼は去って行った。
「何だったんだ、彼奴は……」
「恐らく斯様な役回りは経験がないのでしょう。ほら、貴方宛の国書ですよ」
「そうだろうか。して、これは……うむ、降伏文書だな」
「でしょうね。兵はどうしましょう」
「適当に選んで送っておけば良いだろう」
「では、そのように」
源闢五年、閏師走五日。
周は、大和に膝を屈した。
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第三帖はまだ続きます。
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