第卅二話〜希臘の火〜
……名も無き周兵の視点
板切れに掴まって波間を漂う。
体温より幾らか低い海水に漬け込まれ、手先が徐々に悴んで来る。それでも必死に、文字通り命を懸けて、嘗て軍船であったその板切れにしがみ付く。
どうしてこんな事になったのか。相手は礼儀も弁えぬ野蛮な夷狄ではなかったのか。いや、確かに皇帝陛下はそう仰せられた。兎に角陸へ戻り、本件を報告せねばならない。
何方が祖国かは分からないが、ある程度見当をつけて泳ぐ。重い鎧や武器はもう捨てた。着くまでの間、報告の為に思い出せる限りの事を思い出そう。
──回想──
「閣下、目標地点まで後暫くです」
「うむ、御苦労。しかし、たかが小島の蛮族退治に三万とは、ちと多いと思わんかね」
「あまり大きな声で言ってはなりませんよ、閣下。ですが、三万人が過剰兵力だろう事は同意します。我等であれば、三千でも十分でしょう」
「違いない。まあ、お前は上陸まで少し休んでおれ」
三山浦から出航した我々は、順調に航海を続けていた。実に八百を数えるこの大船団は、一隻も欠ける事無く一路小島を目指していた。
後少しもすれば、この蛮族共の蔓延る土地は何の苦も無く制圧がされるだろう。後は彼等の蛮王を引っ捕らえ、陛下の御前に差し出すだけである。
「……おや、閣下。報告があります。前方に不明船確認、距離は二里(約一粁)弱、敵対意識不明。如何致しましょうか」
「放っておけ。仮に敵とても、どうせ何も出来やせん」
「はぁ。後、海水の色が若干変化したと」
「なら、奴らが怖気付いて糞尿の類でも漏らしたのだろう。何を恐れるか」
「はぁ。では、前進を続けます」
正直、私はこの段階で少し嫌な予感がしていた。とは言っても、相手が撃ってくるか、と言ったものであるが。
「閣下、奴らが次々と火矢を番えております。軍船を燃やそうとする魂胆かと」
「む、それはまずいな。総員、消火設備備え。射掛けられた火矢は即座に消せ」
その後、予想通り彼等はその火矢を発射したのだ。唯一予想と違ったのは、そう、その目標だったか。
そうだ、思い出した。彼等が射抜いたのは軍船の帆では無かった。彼等は色の変わった海を撃ったのだ。
そしてその瞬間、海は突然燃え上がり、各所で悲鳴が……
──終了──
今思い出しても身の毛がよだつ。この為に軍船はほぼ全滅。残ったものはあっても、恐らく奴等に取られただろう。
何故私は生きているのか。何故この板切れは燃えなかったのか。何故敵は私を射殺さなかったのか……
考えても無駄だ。先ずは泳ぎ、陸に着かねば。
……京職視点
「彼奴等の船団、見事に灰と化したな。のう、陰陽頭よ」
「ええ、綺麗さっぱり退けました。予定では高麗国への上陸でしたか」
「うむ、貴殿の力も必要になる。期待しておるぞ」
「言われずとも。ほら、そろそろ陸地が見えますよ」
「そうだな。総員、上陸用意せよ」
先の海域より幾らか北方、会敵から二刻(一時間)後。
彼等の進路上に流し込んだ液体は、二度目の登場である臭水である。但し、今回はそれに硫黄などの混ぜ物をして、水に長く浮きながらも燃えるよう調整した物である。
現在は、これが海流で流れて来ないように迂回し、高麗国へ向けて北上中である。
上陸後の予定は、少数兵力の機動性を頼りに、人目に成る可く付かぬよう……付いたら付いたで当然穏便に口を封じる……拠点を確保する。したらば陰陽頭に信楽宮と繋がる転移陣を作成させ、軍団を呼び出す。
「して、準備はしておろうな」
「私を誰だとお思いですか。こちらで陣を書いて九字切すればすぐですよ」
「分かった。安全な場所を確保しよう……よし、総員上陸せよ」
あまり音を立てないように、千四百が上陸する。気付くものは一人としておらず……居ても口を封じるが……一行は更なる北上を開始する。
「希望の場所はあるか」
「そうですねぇ。やはり都に近い程後が楽になるし、気付かれ難いかと」
「では、暫く隠密に行こう。いざ!」
源闢五年菊月廿一日。
敵は、未だ気付いていない。
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ここ暫くの間、一話あたりの字数が足りないと思われる方も多いかと存じますが、一重に筆者の力量不足に依る所で御座います。何卒ご了承下さいませ。




