第百話〜西海指向〜
西陸道に置かれた許昌府は、大興府に勝るとも劣らない活気を呈していた。市域こそ大興府に大きく差を付けられている──数字にして三十倍以上である──が、その割に多い人口がその理由である。現在設けられている城壁も、遠くないうちに新しく出来ると思われる外郭の市域に取り込まれることだろう。
許昌府の政庁はその市域の中心にあり、嘗ての大神殿がその役割を担っている。祭祀領域は縮小されたものの、周辺地域の中心的神社として今尚巡礼者が絶えない。そのため、祭祀部分は政務に影響の出ない範囲で一般に解放されている。箱を段々に積み重ねたような奇抜な建物の第一層の一角が祭祀領域であり、それ以外が庁舎として用いられている。
晩餐には酒精として麦酒が供されると共に、麦酒を多用した料理が多数作られた。牛や羊などの肉も現地では食されるが、行幸隊や聖武天皇の嗜好などを気にしてか殆ど見かけなかった。乾燥させた木の実は非常に甘く、これから作られた糖蜜のようなものも好評であった。
…………
行幸隊は次に楼磨へ向かった。かつて蒜娥馬の配下であった尼禄の治めていた都市であり、西陸道内の西方方面支配の拠点である。現地人の自称を元に、何年か前に撰善言司が漢字を定めた。許昌府とは打って変わって大興府に匹敵する人口を誇る楼磨は、整然と並ぶ石造りの建物と広大な市域を擁する天下有数の大都市である。治天京をも凌ぐこの市は、大西洲の西における理財食貨の中心であり、且つ尼禄が蒜娥馬王から広大な範囲を任されていたこともあって、現地の基礎的文化を牽引する一大拠点でもある。
官衙は尼禄が居住していた宮殿が転用され、全土随一の壮麗さを具えている。晩餐においては、聖武天皇の普段の食事や宴のそれさえも霞むほどの豪華絢爛な料理の数々が一行を迎えた。凡そ食せる全ての肉、魚介、野菜を集結させたような種類の豊富さは、その存在感を示すのに十分すぎるほどであった。交通の便次第では、道府はこちらに置かれていたかもしれない。
次の目的地は、東洋道の開封府である。




