32_虜囚と給餌と全体前進
着衣を剥かれて身動きを封じられ、その上で毒を打たれて放置され。自分でも未だに信じられない驚愕の事態から……どれだけの時間が経っただろうか。
恐らくは二日くらい……だとは思うが、媚毒による熱に浮かされたこの頭で正確な時間を刻むのは極めて難しい。
人蜘蛛の少女はわたしへの給餌のため、あれから何度も脚を運んでくれた。
地底での監禁生活が始まってからの、わたしの生命線。最初に飲まされたものと恐らくは同じ……すっきりとした甘さの、無色透明な液体。
まだ思考が比較的働いていたときに数えた限りでは、たぶん一日に八回。ほとんど等間隔で訪れ、それを好きなだけ飲ませてくれた。
思考に霞が掛かり、正確な数は自信がないが……恐らくこれで二十回目くらいだろうか。
身体から勝手に止めどなく流れ出る水分。汗とその他の体液を常に垂れ流しているせいか、とにかく非常に喉が渇く。最初の数回は気恥ずかしさのあまりつい遠慮してしまったものの……生存本能がそうさせたのか、はたまた餌そのものに中毒性があるのか……いつしか次第に、飲めるだけ求めるようになっていた。
……しかしながら
なんで、わざわざそこから飲ませるんだろう。
給餌の合間。わたしの唾液に濡れ、眼前で蠱惑的に揺れる柔らかい膨らみを……自分の身体のものよりも一回り豊かなそれを眺め……ぼんやりと考えた。
喋ろうにも、痺れと疲労で口の筋肉がうまく動かない。動こうにも、蜘蛛糸の束はびくともしない。もはや身体を動かそうとすることも、股間に力を入れることさえも億劫になっており、代わりとばかりに思考を……働かないなりに、働かせる。
[時間、長い、います。 きき、あなた。 申し訳、ない。 います]
わたしの餌となる蜜を飲ませながら……彼女は無表情のまま、申し訳なさそうに告げた。べつに急がれても困るので、わたしとしてはむしろ朗報であった。
むしろそのまま永遠に準備を整えないで欲しいのが本音だが、心の中に留めておく。そもそも言葉を紡げない。
[さらに、長い、準備。 長い、必要。 お願い、します]
彼女にしては珍しく、謝罪らしき言葉を重ねてくる。どうやら繁殖用の個体造りは難航しているようだ。
どういう手段で新たな種を産み出しているのかは気になるが……知ったところで今のわたしにはどうすることもできない。
だが少なくとも、今日明日中に『おしごと』させられることは無いのだろう。それが解っただけでも、少しだけ安心した。
満足のいくまで……これ以上おなかに収まらない程まで餌を貰う。やがてわたしが吸い付かなくなるのを確認すると、彼女は転回し去っていった。
好きなときに飲めるわけではないので、ついつい詰め込んでしまう。……まだ『おしごと』が始まったわけでもないのに、おなかがずっしり重くなったのがわかる。
彼女の(上半身は)華奢な身体のどこに、こんなに豊富な蓄えがあるのだろう。おむねか。やはりおむねなのか。……だが彼女はどちらかというと小さいほうだ。それにあれだけ吸ったのに少しもしぼんでいない。……わけがわからない。
媚毒に浮かされた頭ではまともに思考できる筈も無いのだが、
身体の疼きを少しでも紛らわせようと、懸命に答えの出ない思考に没頭する。
ああ、答えの出ない思考と言えば。
わたしは、いつまでここにいればいいのだろう。
本当に人蜘蛛のあの子の言う通り、蟲の『主』を産み落とすまで帰れないのだろうか。
……もしくは都合よく、誰かが助けに来てくれないだろうか。
自分で考えておきながら、『それは無いか』と切り捨てる。
勇者一行でさえあのざまだったのだ。この時代の人族で蟲たちに勝てる者など、そうそう居ないだろう。
魔力が回復すれば自力で…お得意の身体強化で脱出できるだろうが、この場のせいか毒のせいなのか、体力魔力ともに回復の兆しが見られない。霊薬の類でもあれば一気に解決するだろうが、そんなものは買った覚えが無い。……最後の手段、頼みの綱も…手元には無い。
帰ることが出来たら、市場いこう。霊薬とか消耗品とか下着とか、おやつとか買いに行こう。
屋台でご飯食べてもいいし、詰所以外の食事も興味がある。アイナリーにはおいしいお店が沢山あると聞いた。
早く行きたいな。
……たのしみだな。
現実から目を背けるように、いつになるとも知れぬ予定を立て……
現実になるかどうかすら定かではない淡い期待に、壊れた笑みを浮かべ……
いつ終わるとも知れない、拷問のような疼きに耐え続ける。
………………………
「これで全部か」
「ああ。よくここまで掻き集めたもんだ」
微かな立ち木が見え隠れする、乾燥した岩肌。風に煽られた砂埃が舞い飛ぶ、岩山の麓の平地。
平時は人影すら見当たらないその地には今、異常な光景が広がっていた。
「あなた方のお力添えが無ければ、ここまでの人数は揃わなかった。……本当に、感謝しています」
「馬鹿か。まだ始まってすらいねェぞ」
「そうだな。……ここからが本番だ」
すぐ目の前の、やや高さのある岩山。その麓にぽっかりと口を開けた……地中へと下る入口を見据え、何やら会話を交わす者達。
彼らの背後には金属鎧を着込んだ完全武装の兵士が、およそ三百人。
軽装鎧と長槍を持った……兵士とはとても呼べないものの瞳に強い意志を湛えた予備兵士が、同じくおよそ三百。
更に背後には、食糧品や衣料品・燃料などの補給物資を積載した馬車が、三十。
ここにはアイナリーとオーテルの兵員および兵員予備役、そのほぼ全て……ノートの救出のため、危険を顧みず廃坑へと挑む者達が、集結していた。
「見てきたぜ、ヴァル。ここら周辺に蟲の姿は無ぇ。……恐らく全部あの中だ」
周辺の警戒から戻ったネリーが、装飾すら乏しい純白の外套を纏い、腰に二本の白剣を提げた人物……勇者ヴァルターへと告げる。
「了解した。ありがとう」
「今度こそは抜かり無ぇ。シアには悪いが、今回ばかりはずっと見張って貰う。……あの子もお嬢ちゃんに会いたいってよ」
「心意気はありがたいが……あまり無理をするなよ。お前も……シアも」
「……ナメんなよ。その言葉……そっくりそのまま返してやろうか? 勇者様」
「……ははは」
先日。魔蟲の侵攻を停める代わりに捕らわれの身となった少女、ノート。
目の前で守るべき少女を連れ去られたことで、茫然自失となっていた一同。沈痛な面持ちで歩を進める彼らの元へ、翌日アイナリーから完全武装の兵団が追い付いた。
なんでも……起きてくる気配のないノートを不審に思った衛生兵が部屋に入ると、寝台も部屋ももぬけの殻。詰所中大騒ぎの末、窓際に落ちていた人鳥の羽から『ノートが何者かに連れ去られたのでは』という推測が持ち上がった。
そうこうしている間に先だって勇者一行が向かった方角……アイナリーより西方向にて観測された、不審な光と魔力の奔流。
明らかに青ざめた顔のディエゴによって、ことの異常さが訴えられ……やがて準備が進められた。
出来得る限りの急ぎで、考え得る限りの備えでもって、全兵力――常駐兵員はもとより南砦からの臨時兵員、更には住民有志、予備兵員さえも掻き集めて出立した兵団――彼らが、やっと追い付いたということらしい。
さすがにアイナリーの守りを放棄するのはどうかとも思ったが、なんでも南砦へ更に追加の兵員を要請するとか。それでも追加要員が到着するまで無防備となるのだが……それを差し置いてでも派兵すべし、という結論に至ったらしい。
過保護だ……とは思う。
とはいえそのお陰で人員配分にも余裕が見え、こうしてオーテル兵の助力を得ることも出来た。
万策尽きた自分達にとっての救いであったことは、言うまでもないのだ。
こうしてなんとか整えることの出来た用意をもって、なんとしても彼女を……ノートを救出しなければならない。
彼女は自ら進んで同行するような素振りではあったが、本心から望んで虜囚となったわけでは無いと、彼らには解っていた。
彼女は去り際に、ネリーに『また今度』と言い残した。
それは彼女がネリーに……皆にまた会いたいと思っていることの、何よりの証拠であると。
また連れ去られる直前、勇者に『あとで返して』と告げた。
自分の装備を持っていてくれ。そして後で届けに来いと。お前ならそれが出来るだろうと。
彼女は……ノートは、助けが来ることを信じて待っているに違いない。どのような処遇を受けているかは知れないが、相手は蟲魔である。手厚くもてなされている筈は無いだろう。
能動探知は彼女の弱弱しい反応を――以前アイナリーの詰所で捉えたときとは比べ物にならない、今にも消えてしまいそうな反応を――なんとか捉えている。手遅れになる前になんとしても、彼女を救出しなければ。
「……ノート。借りるぞ」
誰に聞こえるでもなく呟き、ヴァルターは二本の白剣を抜く。
左手には国王より下賜された『勇者の剣』を。そして右手にはノートから借り受けた、まったく同形状の『勇者の剣』を。
初めて手にした筈の右手の剣は、まるで以前からの持ち物であったかのようによく馴染む。
……訓練時代に戯れとして磨いていた二刀持ちが、まさか役立つ日が来ようとは。
勇者として、孤独な戦いを覚悟していた自分が……住民達と肩を並べ戦うことが出来ようとは。
人生とは、解らないものだ。
「リカルド隊長。ギムレット隊長。……俺達は先行して奴らを掻き回し……ノートを目指します。彼らの指揮は……すみません、完全にお願いする形になると思います。……無責任な形ですが」
「無論、引き受けよう。思う存分暴れるといい。……あの子を、頼む」
「おうよ! コッチは任せとけ!」
彼ら隊長達に合わせるように力強く頷く、傍に控える二名の兵士。
彼ら……リカルド共々死の縁より引き揚げられた兵士達は、ノート奪還への熱意も殊更だった。
「帰路は我等が確保します。……勇者殿、どうか御武運を」
「……感謝します。行くぞネリー。ディエゴ先生」
「ああ。絶対ぇ助け出す」
「……そうさな。汚名返上といこう」
両手に提げた純白の剣。右手のそれを天高く掲げ、声を挙げる。
「……全軍」
そして…我らが向かう先。不気味な闇を湛える坑道入口へと振り下ろし…叫ぶ。
「前進!!!」
「「「「「「応!!!!」」」」」」
白の勇者の初陣にして、魔王への反撃の狼煙となる一戦。
その戦いの火蓋が、ついに切られた。
【人蜘蛛2/2】
少女の上半身と、蜘蛛の身体を持つ魔物、人蜘蛛。
本来の頭部は蜘蛛部分、黒い甲殻に覆われた下半身に存在し、八つの目も、主脳も、補食器官もそこに備わっている。
そのため少女の上半身のように見える部分も、内部構造はヒトと全く異なる。再現されているのは補助脳、ならびに発声器官と補助的な視角器官、そして何故か授乳器官。なお蜜袋は上半身の骨格内側、ヒトで言う肺から腹にかけて納まっている模様。
また下半身に八本備える巨大な脚は武器であると同時、蜘蛛同様に鋭敏な振動感覚器でもあるらしく、彼女に感付かれずに接近することは極めて困難。
記録が残る範囲で、人蜘蛛の目撃事例そのものが極めて少ないため、
その生態や構造には不明な点が多い。
また数少ない目撃事例のどれもが酷似している外見報告のため、
単一個体なのではないかという説も囁かれている。




