253_少女と保護者とそれぞれの役割
吾輩はニドである。名前は…………そうか、云うたな。ニドだ。
何時何処で生まれたのか、頓と見当が付かぬ。なんでも……鋼と硝子に囲まれた薄暗く冷たい処で、阿呆らしく『ぽかん』としていたことだけは記憶している。
吾輩…………吾は此処で初めて、人間と云うものを見た。しかも後で聞く処に因るとソレは『研究者』という……人間の中でも最も獰悪で陰湿な種族であったようだ。
なんでも時々吾らを捕まえて切り刻み、或いは化学物質を打ち込み、数多の『実験』を行うのだと云う話である。
しかし……その当時の吾は別段何とも思わず、恐ろしいと感じる事も無かった。ただ彼女の……あの御方の掌で鼻先を撫でられ、なんとも形容し難いふわふわした感覚があっただけである。
少し落ちついて人間……その『研究者』の顔を見たのが、いわゆる人間というものの見始であろう。この時妙なものだと思った感じを、今でも確りと覚えている。
その『研究者』は他の『研究者』とは異なり……丈の長い純白の衣ではなく、ひどく質素な衣を仕着せされていた。吾の鼻先を優しく撫でた掌は黒々とした鋼の装具によって纏められ、同色の装具はあの御方の細い首とそれ以上に細い両足にも……まるで呪いのように絡み付いていた。
『NMー015、識別呼称『ニーズヘグ』。正常に覚醒しました』
『生命兆候反応……正常。意識レベルに混濁は見られません』
『身体ならびに精神拘束機構、双方とも正常稼働を確認。緊急停止機構も問題ありません』
生まれたばかりの吾の視界に映るモノは、眼前で悲しげに佇むあの御方と……その後方、分厚い硝子板の向こう側から此方を観察している、研究者共の群れ。
奴等は吾の覚醒を見届け肩の荷が下りたのか、あのときの吾には理解出来なかった――しかし今にして思い返せば虫酸が走る程に自分勝手な――世間話という雑音を、安全が確保された小部屋から垂れ流していた。
『『北欧』からはコレで七騎目か。久し振りの成功だな』
『ここ最近失敗続きだったもんなぁ。あー良かった……なんとか『印度』の奴らに離されずに済んだか』
『例の『ヴリトラ』だっけ? あれはヤベェよな……』
『これでウチも何とか張り合える……と良いんだがな』
『後に回されればそれだけ不利だからな、仕方無い。あの『制御体』も段々鈍くなって来てるしなぁ、この後の『埃及』が可哀想だ』
『とは言っても……他に無いんだろ? それこそ仕方無い。……セカンダリとターシャリの話はどうなったんだ?』
『なんだ知らんのか。自害したらしいぞ、どっちも』
『…………んだよ、迷惑な』
『無駄口を慎め。……全工程の正常終了を確認した。『制御体』を引き剥がせ』
『了解。『制御体』プライマリ、回収。…………どうした、プライマリ』
『……早く戻れ。余計な手を煩わせるな』
今更になって思い起こせば……あのときあの御方がどういう状況に措かれていたのか……どういう扱いを受けていたのか、小さく縮んだこの頭でもはっきりと理解できる。
幼い吾がもっと早く気付いて居れば。吾に与えられた権能を、もっと早く十全に理解出来て居れば。言われるが儘に使われるだけであった吾が、もっと早くに省みていれば。
……あの御方をあんなにも、苦しませることは無かっただろうに。
『…………ごめんね、ニーズヘグ』
白い衣を纏った『研究者』に鎖を引かれ、温かな手は呆気なく吾から離れていった。
去り際のあの御方の悲しげな顔を……吾は決して、決して忘れはしないだろう。
………………………………
「…………もめ、やさい……にとぉー」
「気にするでないよ。あの子蜘蛛共はヨーゼフめに任せて措けば良かろ」
「んい、んい…………あと……めあー、おいてきも……」
「あ奴めが自ら望んだことだ、少しは信じてやるが良い。蟲共が付いておる、心配は要らぬよ」
「…………んいい」
石造りの壁と、木板張りの床。清潔な敷布がぴしっと張られた寝台に腰掛け、黒髪の少女が笑う。
目の前でしょぼくれる純白の少女を、ニドは優しく丁寧に諭していく。
『自分の軽率な思いつきで、自らの従者をおざなりにしてしまった』と自責の念に囚われる彼女の懸念を、言葉を選びながらじっくりと一つずつ解消していく。
ノートが従者と可愛がる夢魔の少年は、この街への移動の話を聞いた上で、あの荒野の開発拠点に残ることを……非常に控えめながら自らの口で主張したのだ。
人手不足に喘ぐ拠点長ライアは諸手を上げて歓迎し、勇者ヴァルターを始めとする有識者会議によって『問題ないだろう』との結論が出された。彼と付き合いの濃い人蜘蛛のキーが護衛を務めてくれることもあり……つまりはほぼ全員の同意のもとで、メアの拠点在留が決まった。
……そういう経緯があったのだが、アイナリーの宿屋に戻ってきたノートはそんなことなどすっかり忘れてしまったかのように、『従者を置き去りにしたのはわたしが悪い』などと情けない顔をし始めた。
自分の思いつきのせいで拠点の防衛計画を引っ掻き回し、多くの人に迷惑を掛けてしまったと……常日頃はた迷惑な立ち振舞いで周囲を引っ掻き回すくせに変なところで律儀な彼女は、拠点組を取り纏めていたニドに対し、泣きそうな顔で詫び続けているという状況であった。
「遠征組はヴァルターの坊と学者殿と竜娘。こ奴等は何の心配も要るまい。拠点での出稼ぎ組はメアと蜘蛛娘と、子蜘蛛二匹も付いておる。コレも総責任者が身内のようなものよ、そうそう不都合は無かろ」
「…………んい」
「そして吾らに至っては……云うまでも在るまい? 御前に加えて長耳娘と鳥娘、挙句には蟲姫までもが付いておる。不安など在る筈も無い。……つまりは、何処にも不安は無い」
「…………だい、じょー? みんな、あんし……あん、ぜん? あん、しん……あんぜん?」
「そうとも。皆安心、安全だ」
「………………んんー! にとー!」
「呵々、どうしたどうした」
何度にも渡って根気強く続けられた、幼子に優しく諭すような説明に……やっとのことで納得してくれたのだろうか。
真白の幼女はその顔をへにゃりと緩ませ、小さくも肉感豊かなニドの身体へと抱きついていった。
「よーしよし、全く愛い奴よ……御前は甘え上手だの」
「んふぁぁ……にとー、おっぱい、おっき。んぶぅ」
「何だ、御前も『おっぱい』が好みか? …………其処な長耳娘も好きだの、吾の『おっぱい』が」
「んえ?」「オオゥ!!?」
ニドの声に反応するように、廊下へと続く扉の向こうより騒々しい物音が響く。
しばらくの後にゆっくりと扉が開き……どこかばつの悪そうな表情を浮かべる長耳族の少女がおそるおそる部屋へと踏み込み、その背を追うように半人半鳥の少女が続く。
見れば長耳族の少女は耳の先まで真っ赤に赤らめ、視線をせわしなくあちこちへとさ迷わせている。
「おかえり、ネリーよ。首尾はどうだ?」
「あ……あぁ。追加料金……と心付けは支払って来た。下の階は一般客が出入りすっけど、この階は私達の貸し切りってコトになってる」
「それはまた……気前が良いと云うか」
「そう、めっちゃ気前が良いんだわ。……思えばお嬢と出会った頃からの付き合いなんだよな、この宿」
「御前が蟲ケラ相手に大暴れしたと云う……例のアレか」
「そうそう。大暴れしてこの街を救って、大ケガ負って治療してるとこにあの勇者が突っ込んで…………って、そんな話はどうだって良いんだ。お嬢!」
「んえ?」
「わ、わ、わ、わ、私も!! 私もお嬢抱いて良いか!?」
「……んんー? いい、よ?」
「ヨッシャァ!!!!」
「確認だが抱擁の意で合って居ろうな?」
「…………………………ソウダヨー」
真面目なときは頼りになるのだが……欲求不満が祟るとたちまち素直になって来る。抱擁ではないほうの意味で『抱こう』と画策していたのは、視線を合わせようとしない彼女の表情を見るまでもなく明らかである。
ある意味予想通りな指揮者の桃色思考に、さしものニドも乾いた笑いを禁じ得なかった。
しかしながら……緩みきったその思考も、今回に限っては仕方の無いことなのかもしれない。
負傷したニドの療養のため、という大義名分こそ在れど……正直なところ、療養を必用とする段階は既に越えている。現状この行動班には目的らしい目的も無い状況であり、実態としてはヴァルター達王都遠征組が状況を進めるまでの行動保留……早い話が待機中なのである。
発案者であるノートの手前、あくまで主目的は『ニドの療養』ということになっているが……当事者であるニドを含む年長組有識者達の共通認識としては、ぶっちゃけ『休暇』であった。
リーベルタ国王のお墨付きを貰い、人々の流れが出来るまでには、少なくない時間を要する。仲間を慮るノートの心意気を無下にすることは無いだろう、どうせ暫くは暇なのだ。ここらで羽根を伸ばし、ノートを労ってやっても良いのではないか。
有識者にして保護者である年長組の共通認識のもと、晴れて食の都アイナリーへの旅程が決まった……というのが、この度の真相であった。
しがらみから解放され、大義名分の下で堂々と羽根を伸ばせる休暇。
ワンフロアまるまる貸切、部外者の出入りが無い上質な居住環境。
同行者は人間も人外も含め、見目麗しい美少女・美幼女ばかり。
いつもは肝心なところで『待った』を掛ける邪魔な相棒は不在。
ここまで御膳立てされておいて……筋金入りの同性愛者が、何も行動を起こさないハズが無く。
「残念だがの、ネリー。吾は坊より『頼まれごと』を引き受けていてな。なんでも『色魔が狼藉を働かないように見張っててくれ』とのコトよ」
「な゛ア゛……ッ!!?」
「吾とて頼られて悪い気はせなんでな。他でもない坊の『お願い』だ、相済まぬが……悪く思うでないぞ?」
「そ…………そんな……」
がっくりと崩れ落ち、項垂れる我らが指揮者。……見れば彼女が魂を分かち合う少女、『嫁』と呼んで憚らぬ人鳥のシアも、やれやれとばかりに翼を広げ肩を竦めている。
シア本人は特に気にしている様子も無いのが、せめてもの救いだが……こんなにも愛らしい嫁が居るというのに堂々と他の子に手を出そうとは、さすがにこのあたりで躾けておく必要があるかもしれない。
しかし……まぁ、とりあえずは釘を刺したのだ。
この上で更に悪化するようなら、そのときに改めて仕置きを加えれば良いだろうと、密かにお目付け役を任されていた黒髪の少女は心に決める。
「全く……目合うだけが愉しみでも在るまいに。ほれ、飯に行くぞ。案内せえ。ぬしが引率者なのであろ?」
「…………そうだな。……よし! 美味しいもん食ってのんびりして、皆でお風呂入ってゆっくり休もう。後でお風呂入ろうな、皆で!」
「……まぁ、それくらいなら良いか」
「ヨッシャァ!!!」
しかしながら……ここ最近の騒動は、なかなか油断ならない事件の連続であったことも、また事実。
不死鳥騒動に始まり地下迷宮の発見、超巨大土人形と巨躯の『魔王』の襲撃……これらを乗り越えるにあって、決して少なくない貢献をしてくれた彼女を少しくらい労っても、罰は当たるまい。
悪乗りが過ぎるようならば、そのときに身体を張って止めれば良い。
ノートにさえ危害が及ばなければ、さしものヴァルターとて納得することだろう。
元気を取り戻し満面の笑みを浮かべるネリーに導かれ、種族も背格好もまちまちな少女達が楽しげに続く中。
最年長を自認するニドもまた……楽しげにその頬を弛めていた。




