185_勇者と災禍と陽の落ちる日
圧倒的な実力差を見せ付けていた眼前の敵……愛しい少女の身体で絶望を振り撒く敵の動きが、唐突に止まる。
「……ッ? …………!? ぐ……!!? き……貴様ッ!!」
「!! やっと回ったか……!! ネリー!!」
「応よ! も一丁喰らっとけ!! 圧縮気縛! 在れ!!」
ネリーの意に沿って流れる大気は……ノートの身体を奪った敵を中心として渦巻き、気圧の檻を造り出す。
身体全強化の加護を纏う敵に対しては足止め程度の役割も果たせない旋風であったが……それでも大気の渦であることは変わりない。
風に乗せて漂わせた揮発性の薬品を……神経伝達系に作用する麻痺毒を、指定区域に漂わせるには充分であり。
並外れた魔法耐性と再生力を誇る彼女の身体に……魔法に類するものではない、薬品由来の毒を含んだ空気を吸引させるには……充分だった。
「ぐ………! ……貴ッ、様…………!!」
「ヴァル! 抑えてろ!」
「ああ!!」
大気操作により呼吸器から侵入を果たした毒に加え、度重なる投擲杭の攻撃により傷口から侵入した毒。
傷口が浅かったことに加え、また彼女の神経系を破壊せぬよう慎重に効果を絞ったがため、麻痺毒の効果を発揮するまでに時間を要してしまったが……それでもやっと、充分な毒が全身に行き渡ったようだ。
実力による制圧が不可能、かつ対象を殺さず、壊さず確保するための……ノートの身体を奪い返すための、唯一の手段。
今まで共に居た中で知ることが出来た、数少ない彼女の弱点。
彼女の身体そのものには……毒に対する抵抗力が、無い。
苦しそうに喘ぐ彼女の姿を見るのは心が痛むが……ともあれ一時的とはいえ無力化することが出来たのだ。
あとは拘束呪布にて敵の意識と身動きを閉ざし、背中の呪印を破却し、首元の怪しげな拘束枷を破壊すれば……ノートは戻って来る。
『こ、れ…………どく……?』
「ああ……! 待ってろノート、今」
『!! だめ!! ねりー!!』
悲鳴のようなノートの声は……しかしながら彼女を組み敷いているヴァルターにしか届いていない。只ならぬ声色に視線を上げ……その顔色は一気に青褪める。
勝機を目前に控えたことで警戒が緩んだのだろう……両手に拘束呪布を携え、喜色さえ浮かべ駆け寄ってくる長耳族の少女。
その背後……再び矢を番え弓弦を引き絞る全身鎧と、この上無く冷たい光を湛えた刃を振り上げ跳躍する全身鎧――遠隔操作されていると思しきこの二体にも、敵の依代としての機能が仕込まれていたのだろう――追い詰められた敵の反撃が迫るも……武器を手放したネリーは気付いた様子も無く、対処出来るタイミングでは無い。
「ぐ……!? クッ、ソ……!!」
『あるたー!? あるたー!!』
ならばとノートの身体を手離し、剣を握ろうとするヴァルターだったが……ここへ来て遂に限界が訪れる。
こんなタイミングで……いや、むしろよく保った方だろう。
無尽蔵とも言える魔力供給が得られる反面、効果が切れれば暫くは途端に無力と化す……古代の遺物湧魔神薬。無情にもその効果時間は終わりを告げ……剣を握る手からも床を踏みしめる脚からも、みるみるうちに力が抜け落ちていく。
このまま倒れれば、恐らく立ち上がることは出来まい。
芋虫のように惨めに蠢いている間に依代鎧によって作戦の要である拘束呪布は処分され、ノートを取り戻す手段は完全に喪失するだろう。
いや……それよりも手っ取り早く、依代鎧に皆殺しにされるか。まあどうであれ完全敗北は揺るがない。
いやにゆっくりと崩れ落ちる視界の端……片足を痛めている筈のニドが、弓を構えていた依代鎧に身体ごとぶち当たっていった。
矢による狙撃は辛うじて阻止されたが、あの位置からでは剣を振るう依代鎧は止められない。
メアはそもそも戦いは不得手だし、生物ではない相手に彼の魔法が効く保証は無い……いや、泣きそうな顔を見るに、既に試みてくれていたのだろう。
蟲魔女王アーシェは……街の外の蟲を操りながら同時に礼拝堂を確保し、こちらの窮地を一度救ってくれた彼女は……さすがにこれ以上の負担を強いるのは酷だと理解しつつも、すがるような思いで見遣るも……やはり魔力の殆どを使い果たしてしまったのだろうか。
ノートの白剣に『不壊』の呪いを施した直後の、そのままの場所で……微動だにせず硬直し、真っ暗な瞳を見開き呆っと天を仰いでいる。
つまりは……剣を振るう依代鎧を止める手段は、無い。
『あるたー!! させ!! あたま!!』
妙にゆっくりと感じられる世界の中で……ノートの声が頭の中に強く響く。
こと戦闘場面においては観察力と判断力が抜きん出ていたあの子は――もはやそれしか手段が無いと、冷静かつ無慈悲に判断を下したのだろう――自らの急所となる弱点を、ヴァルターに告げる。
剣を手に、今まさに崩れ落ちようとするヴァルターに……その手で保持している剣を突き立てろと、自分を殺せと唆す。
「……クソッ!! 畜生ッ! 畜生!! この野郎ォ!!」
聴覚から入って来るのは……血を吐くようなネリーの怨嗟の声。直後金属を削り砕くような耳障りな破砕音が立て続けに響き……それらの情報からネリーが依代鎧を破壊したことと、作戦の要が依代鎧に破壊されたことを察する。
……恐らくは、ニドが弓を構える依代鎧にぶち当たった際の音……それで気付いたのだろう。ネリー自身は無事で良かったと言うべきだろう。
『しかた、ない。……こいつは……わたしは…………もともと、いぶつ。……いない、のが、とうぜん』
「ゥ、グ………………おの、れ……ッ!」
全てを諦めきった少女の声と、微塵も諦めていない亡霊の声が……静まり返った玉座の間に、小さく虚しく響き渡る。
黒の剣を杖のように突き立て、崩れそうな身体を無理矢理支えながら……なんとか希望を探し出さんと回らぬ頭で思考を試みるも……
『……どく、きえたら……ぜんぶ、おわる。……せかい、は……ほろぶ。……あるたー…………おまえの、せいで……ほろぶ。…………やだ、でしょ』
「……っ、俺は……!!」
『おまえ、は……ゆうしゃ。……おまえ…………あなた、は。……この、せかいの……りっぱな、ゆうしゃ』
「俺は! 『勇者』……なんか……!」
『……わたし……しってる。…………あなた、は……ひとびと、せかいの、ため……ただしい、できる……ゆうしゃ。……わたしが、ほしょう。…………だから』
状況は最悪。辛うじて敵の動きを封じている麻痺毒も、次第に効果が薄まっていくだろう。いくら薬物耐性が無い身体とはいえ、免疫機能は正常なのだ。いずれは抗体を備えるだろう。
敵が自由を取り戻したが最後……拘束呪布を破壊された上に戦闘力を喪失したヴァルター達に、打つ手は何一つ遺されていない。
周囲の状況の全てが……世界の破壊を防ぐために天使のような少女を殺さなければならないのだと、無慈悲な現実を突きつけている。
「コロ、す…………! 貴様、ら……!」
『……だから…………せかい、を。……わたしたち、いぶつ……ない、せかい。……あなたが、いきる……ただしい、せかいを…………まもって』
「殺、す……! コロ、して……やる!!」
『…………はやく、して。じかん、ない。……はやく!』
床に伏した体勢から、ずりずりと足を引き摺り……立ち上がろうと画策する敵。
麻痺毒に対する免疫が整い始めたのだ。残された時間は少ない。
頭では理解していたつもりだった。
こいつが起き上がる前にこいつの頭に――絹糸のような綺麗な髪がさらさらと流れる小さな頭に――剣を突き立て、貫き、白く綺麗な髪を血と脳漿で穢し尽くせば良いのだと……そうしなければ世界が破壊されるのだと、理解していたつもりだった。
ゆっくりと上半身を起こす敵に、ゆっくりと白の剣を掴む手を振り上げる。
考えることを拒否する思考に代わり、為すべきことを為さんとする頭は、律儀にも行動に移そうとする。
ネリーも、ニドも、メアも、アーシェも、その行動を咎めようとしない。
誰も彼もが俯き、歯を食い縛り、涙を溢しながらも……掲げられた剣を止めようとしない。
「殺す……! 貴様に………! 邪魔、は……!!」
『…………それで、いい。……こいつは……わたしは……いちゃ、いけない、から』
盾を支えに、片膝を立て、今にも立ち上がらんとする敵に……白の剣の切っ先が向けられる。
魔力欠乏と神薬の副作用で朦朧とする意識の中……優しく諭すような、労り導くような、心地のよい声の示すままに……
天使のような少女に、剣を向け。
『……このせかいの、ゆうしゃ。あるたー。…………さよなら』
ついに顔を上げ、ヴァルターを凝視し憤怒の形相を形作る少女の額へと……
夢現の最中導かれるままぼんやりと、逆手に握った『勇者の剣』を突き下ろし……
『…………………しにたく……ない…………よ』
「……ッ!!?」
嘘偽りの無い……本心からの声を。
塗り固められた強がりに隠された、弱々しい少女の望みを……聞いた。
力を喪ったヴァルターの、現状持てる限りの力を注ぎ込んだ一撃は……無防備に向けられた少女の額を逸れ、罅の走る大理石の床板を貫き、深々と突き立つ。
至近距離で身動きの取れぬ相手……到底外しようのない一撃はあっさりと対象を外れ、千載一遇の好機は呆気なく水泡に帰した。
「死! ねェ……ッ!!」
「ぐァ…………!? が、はッ……!」
『な…………ば、ばか!? あるたー!? ばか!! なんで…………なんで!!』
起き上がりざまに振るわれた大盾の直撃を受け、全身が弛緩しきったヴァルターは為す術無く吹き飛ばされる。
完全に麻痺毒に対する抗体を備えてしまったのだろう……関節の動きを確認するように全身を動かす敵からは、先程のような硬直はほぼ見られない。
ここに至っては……どう足掻いてもヴァルター達に勝ち目は無い。ノートの奪還どころか殺害さえも失敗し、この世界の滅亡が約束されてしまった事実に戦き愕然とする彼女の……天使のように優しい少女の思考が、力無く握った剣から伝わってくる。
『あるた……! ばか…………ばか……なんで……』
「……はは……なん、で、って…………そりゃ」
全身から溢れんばかりの魔力と怒気を迸らせ、幽鬼の如く立ち上がる敵を視界に納め。
もはや万策尽きたと自嘲気味に……自分の人生も、世界の命運も、もはやここまでかと『勇者』は笑う。
「……お前を……命に、代えても……守れ、ッ、て…………他で、ない……俺が……命、奪う…………そん、ッ……出来る訳、無ぇ……よな」
『ば…………っ、おまえ、は……! おまえは……っ』
ゆっくりと、ゆっくりと脚を運ぶ『世界の敵』。
長い長い戦いに終止符を打つため……
もはや抗う者が存在しない中を悠然と歩を進め。
ふと突如機敏に上方を仰ぎ見、迸る魔力を即座に身体強化に回し一挙動で飛び退いた、ほぼ同時。
けたたましい破砕音と破壊音、地響きのような衝撃と多重に鳴り響く倒壊音に耳を塞ぎ、一拍置いて降り注ぐ瓦礫に思わず頭を覆うヴァルター達一同。
「――――――合格、だ」
「………………な……!?」
立ち上る砂埃が勢いを喪う中。
僅かに白み始めた夜空を背景に……ぼんやりと浮かぶのは、異形の巨躯。
その身の丈は明らかに自分よりも上。肩幅も腕の太さも脚の太さも、ただの人間とは思えない。
極めてがっしりとした、岩山のような体躯の全て………頭の天辺から足の爪先までを闇のように暗い鎧で包み、血のように赤い外套を風に靡かせ………重厚かつ長大な剣を手にした、その姿。
王城区主塔、聳え立つ絢爛な構造物を派手に割り砕き、大理石の床を大きく陥没させるのは……破城鎚のように重厚な二本の脚。
「『世界を滅ぼす』……等と嘯いたか、小僧」
「…………何者だ、貴様」
「『何者だ』、か。…………フン、中々道理を弁えている」
眼孔の奥の眼を深紅に光らせ、頭部には猛牛の如き二本角を蓄えた……見る者全てを畏怖させる暴力の権化。
暗い暗い地の底の更に奥底より這い上がり、現代に蘇ってしまった……存在してはいけない筈の、大昔に滅んだ筈の存在。
―――その、名は。
「我が名は……セダ。魔を率いる王にして……」
右腕に提げた鉄塊を振り抜き、お世辞にも鋭利さなど感じられない肉厚の切っ先を白い敵へと突き付け……その風圧のみで突風を巻き起こし。
「……貴様ら『勇者』に…………絶望を与える者。……そうさな、有り体に言えば……」
『魔王』セダの大鎧、その全身に血管のように魔力光が疾り……『身体強化魔法』が発現する。
対する白い少女……百九十一番の名を冠する元勇者も迎撃体勢を整える。圧倒的な体格差に微塵も物怖じせず、睨め付けるような視線で大鎧を見詰める。
「『宿敵』…………だな」
大鎧の足元、大理石が粉々に吹き飛ぶと同時にその巨体が撃ち出され……
存在してはいけないモノどうしが、激突した。




