153_少女と夜道と惨劇の足音
既に陽が落ち、闇に染まる王都東岸街。
昼過ぎに生じた魔物の脱走騒ぎもあってか、今日この夜は平時と比べ……異様とも言える雰囲気が広がっていた。
陽の落ちた直後……普段であれば未だ人通りも多かったであろう王都の街中。しかしながら守衛隊より布告された『不要不急の外出は避けよ』『家屋の窓戸をしっかり締めよ』という通達を遵守し、兵員達を除く誰も彼もが家へと引き上げ扉を閉じ……市街は異質な静けさに包まれていた。
そんな中を。
出歩く者など見られぬ、静まり返った街中を。
駆け回り、逃げ回るかのような……ひとつの小さな影があった。
(っ、糞ッ! 全く! ……屈辱、だの……!)
肩で息をするように、ぜえぜえと荒い息を吐く小さな影………黒髪を後頭部で一つに纏めた少女。
動きにぎこちなさの残る身体を無理矢理動かし、それでいて可能な限り静粛さを保ちながら……自らの姿を隠しながら、必死に逃走を試みていた。
幾つかの角を曲がり、路地裏を駆け抜け、橋を潜り、坂を駆け降り………乱雑に積まれた木箱と樽の隙間に小さな身を押し込み、弾む息を無理矢理に潜める。
「畜生あのガキ……! 何処行きやがった!」
「まだ遠く無ぇハズだ! 探せ!」
「ははッ! 一発目は俺が貰うぜ!」
「ざけんな! オレが貰うッつったろ!」
(本ッッ当に……! 屈辱的だの……!)
騒ぎ立てる声の源が遠ざかっていくことを確認し………やっと大きく呼吸を解放する。
動かしづらいことこの上無い、未だ四肢に麻痺を引き摺る身体に鞭打ち、霞掛かる思考を無理矢理働かせ……男達の溜まり場からここまで脇目も振らず、必死に逃げて来たのだ。
過酷な運動によって小さな身体は熱を持ち、新鮮な空気を求めてぱくぱくと口が開く。
……落ち着いて呼吸が出来たことで、やっと霞掛かった思考が冷静さを帯びていく。
ここまでの過程を、こんな屈辱的な事態へと陥った原因を………これまでにもたらされた断片的な情報を元に、ニドは自分なりに考察を試み始めた。
(…………肉か。怪しいのは)
呼吸を整える傍ら、原因であろう事象に思いを巡らせる。夫人ヴィオレッタが手掛けていた肉煮込汁……思えば味見をした後だっただろうか、ヴィオレッタが気怠げにふらつき始めたのは。
長らく魔物騒動など無かった王都の安全神話が脅かされたからか、はたまた愛しい息子が最前線で矢面に立てられている心労からかと見当を付けるに留め……夫人の不調の原因を見誤り、その後の対策を練ることさえ叶わなかった。
(……ええい、吾が見咎めて居れば!!)
肉煮込汁に用いられた塊肉は、食材屋の倅が届けに来ていた。ニドの姿を見て硬直していた姿は記憶に新しく、別段不審な点も無かった。
夫人ヴィオレッタとも違和感無く言葉を交わしており、紛うことなく『いつも通り』であった筈だ。
だが………ニドは思い出した。
一度は立ち去った食材屋の倅が、『忘れ物』をと一度戻ってきていたことに。
またその際、勝手知ったる様子で……一人で食材庫へと立ち入っていたことに。
(あのときか……! 吾が気を抜いたばかりに……!)
恐らくは……そのときに。
普段通りの……注文通りの獣肉ではなく――薬を注入したのかそういう魔物の肉なのかは定かではないが――摂取した者を昏睡状態に陥れる、異質な肉を仕掛けていったのだろう。
夫人ヴィオレッタの手によって殊更に美味しく仕上げられた……味わう者を昏睡へと墜とす、奈落の肉煮込汁。
味見しながら仕上げた夫人と……美味い美味いと掻き込んでいったノート達、全員を………深い眠りへと叩き落としたのだろう。
(そして………此の様か……!)
気付いたときには胸元を開けられ弄られ、下着を剥ぎ取られる寸前であった。
まさか目を覚ますとは思っていなかったらしく、手錠や拘束の類を掛けられていなかったのは……幸いと言う他無いだろう。
伸し掛かる男の股間を蹴り上げ、一瞬の混乱と喧騒の隙を突き、もつれようとする脚を叱咤し、酒瓶の転がる薄汚い小屋を飛び出し……闇に沈み人けの無い街へと転がり出て逃走を試み………今に至る。
手足に痺れが残り、纏まらぬ思考では身体強化の詠唱も儘ならない。………いや、これは違う。魔力が干上がっているのか。どちらにせよ頼みの綱の身体強化が使えないとあっては……胸ばかり無駄に実った、ただの非力な小娘に過ぎない。
手錠の類が掛けられていれば……その時点で詰みだ。奴らの慰み者とされる未来は、避けられなかったであろう。
「あのガキ……! タダじゃ置かねぇ!」
「元々そのつもりだったろうがよ。騒々しい」
「オィクソガキ! 出て来やがれ! 今なら命は助けてやらァ!」
「ナメやがって……! 覚悟しやがれ!」
(……否………未だその未来は崩れて居らぬか)
戻ってきた騒々しい声に、呼吸を潜める。その声色から解る通り、奴らは素行の悪い粗暴者のようだ。
酒瓶が散在していたあの小部屋には、数人分の銀鎧――栄えある近衛師団員の制式装備――が転がっていたが………銀鎧の中でも落ちこぼれが粗暴者共と連んでいた、ということなのだろう。
普段は銀鎧達を隠れ蓑にひっそりとやって来たのかもしれないが……余程ニドに逃げられたことが――『お楽しみ』の直前で逃げられたことが――腹に据えかねたらしい。
「コソコソ隠れても無駄だ! 守衛隊は来ねェぞ!」
「とっとと諦めやがれ! ガキが!」
「今ならまだ優しくシてやんぞ!」
「チッ………ドコ隠れてやがるクソガキ!」
(…………いや、不味いの。……魔力さえ残って居れば)
これ程までに、あからさまに『反社会的存在』を声高に主張していれば……普通の市民は怯え、家屋へと引きこもるだろう。
ましてや魔物騒動の一件もあり、守衛隊直々に『戸を閉ざせ』とのお達しが出された夜である。……助けを求められそうなヒトなど、そう易々と出歩いている筈がないだろう。
(酒場や宿屋にでも逃げ込むか? ………開いているのか? 果たして)
市民の外出自粛が告げられているのだ。来るかも解らぬ飲食客のために危険を冒してまで店を開ける者が、果たして居るのだろうか。
宿屋とて同様、宿泊客と自分達の身と財産を守るためにも……頑丈な扉を閉ざしていても、何ら不思議ではない。
(……捕まりたくは……無いの。………あんな低能共の慰み者なぞ真平御免だが)
自身の安全と貞操を守るため……不完全な知識を基に、『最悪』を避けるべく打開方法を考えようと試みるが………しかしながらだからといって、あまりのんびりもしていられない。
小柄なこの身であれば、こそこそ転々と姿を隠し続けること自体は、まぁ可能であろう。このまま夜明けを待つことも不可能ではないだろうが………それでは駄目だ。
(……あの場に御前が居らぬのであれば……あの下郎共の手には落ちてないと見るべきであろうか)
理由や経緯は定かではないが……自分が囚われの身となっていた以上、あの危なっかしい主にも、当然魔の手は伸びたと考えるべきだろう。
あの身体の潜在能力を鑑みても、また将来有望な雌として考えても………彼女を欲する愚か者は決して少なくない筈だ。
探さねばならぬ。所在を突き止め、側に居らねば………いざとなったらこの身体を差し出してでも、狼藉者の薄汚い手から守ってやらねばならぬ。
(だと……いうのに………ッ!!)
「お、ぐォ……!?」
「居たぞ!! コッチだ!!」
完璧に不意を突き、一人を行動不能に陥らせたものの……逆に言えば一人しか仕留められなかった。
とはいえもとより魔力も枯れ、武器の類も手元に無い状況とあれば……受け入れたくは無いが、仕方無いのかも知れない。
(……っ、しかし……マズったの……!)
先の一撃で仕留められなかった者によって、完全にこちらの場所は把握されたようだ。周囲のあちこちから品性下劣な声が上がり、包囲網が徐々に狭められていることが理解できる。
先の軟禁部屋で組み敷かれていたときよりは、痺れが抜けてきているが……未だに万全とは言い難い。身体強化を発現させることさえ出来ない身とあっては………恐らく捕まったが最後、口にするも憚られるような事態となるであろうことは……もはや疑いようがない。
この身体が穢されることはどうでもよいが……かといって捕まってしまっては、主を捜索……あるいは救助に赴くことは絶望的となる。
それは我慢ならない。……捕まらないに越したことはない。
「出て来いメスガキ! 観念しやがれ!」
「コッチか!? 出て来いオラッ!」
(……近付いて来おったか)
強化魔法の補正の無い、自らの聴覚のみを頼りに………追っ手の位置を推測する。霞に呑み込まれようとする思考を必死に振り払い、騒音から離れるべく逃げ道を思案する。
主との合流を果たすためにも、安全な場に逃げ込むにも、まずは奴等から離れなければならない。
落ち着く暇など無い呼吸を無理矢理宥め、薄暗がりの裏路地を一心不乱に逃げ惑う。
少しずつ、しかしながら確実に狭まりつつある騒音源に現実を思い知らされ……徐々に近付く魔の手に、現実味を帯び始めた最悪の事態に、柄にもなく『恐れ』が浮かぶ。
(この、吾が……ッ! 不愉快な……!)
『恐れ』などという女々しい感情を抱いてしまったこと自身に毒づきながら……声のしない方向へと脇目も振らず必死に駆け抜ける。
積まれた木箱を踏み越え、もつれそうになる足でなんとか着地し、迫り寄る怒声を背に受けながらも角を曲がり……
「………ッッ!? ッが、ぐゥ………ッ!!?」
一瞬感じた浮遊感………直後に肩を、頭を、背を、立て続けに激痛が襲う。
天地がひっくり返ったかのような感覚に思考が混乱し、一拍置いて足に感じたのは斬られたかのような鋭い痛み。
刺激された痛覚によって思考は幾らか鮮明となるも、それは同時に自身の窮地を再認識させる結果に他ならない。
(っ、痛ぅ………! 糸か……!!)
暗がりに、しかも視線の通らぬ角の先………足元を狙うように張り巡らされた、強靭な糸。
出歩く人けの無い夜、わざわざ敷設された……紛れもない『罠』。
(追い込まれた、ということか……!)
石畳に打ち付けた頭を庇いながら、血を流す脚を震わせながら、それでも必死に立ち上がる。
とはいえ最早……無駄なことだろう。ここに罠が仕掛けられていたということは。わざわざ逃げ道を残すように……こちらへ逃がすように、追い立てるように怒声が張り上げられていたということは。
「へへ………ようやくお出ましか」
「待ちくたびれたぜェ? お嬢ちゃんよォ」
やっぱりか、と……忌々しげに歯を軋ませる。
包囲網の間隙を突いたのではない。すんでのところで逃げおおせていたのではない。……奴等の思う儘に、追い込まれていただけなのだ。
そんな単純なことさえも思い至らなかったことが、ただただ腹立たしい。
「捕まえたぞオラッ! 立て!」
「ぐ………っ! 離ッ、せ……」
「へへへ……離すと思ってんのか、よッ!」
「が、………グゥッ!?」
乱暴に伸ばされた手に、ついに束ねた髪を掴まれる。無遠慮に引き起こされ頭髪を引かれる激痛に、溢れそうになる悲鳴を噛み殺し、嫌悪感も露に脚を振り上げる。……が。
「おっ、と…………危ねぇ、なッ!」
「ぐ……っ! 糞ッ! 離せ下種が!」
末端の痺れも抜け切らず、崩れ落ちそうになる程までに疲労を重ね、トドメとばかりに傷を負わされた脚は……もう一人の男にあっさりと掴まれ、逆に一瞬で危機的状況に晒される。
前後を塞がれ、髪と脚を掴まれる。背後からは更に近付く、多くの男達の怒声と足音。
「威勢が良いな。……どんだけ持つか楽しみだ」
「先に始めちまおうぜ? 早い者勝ち、ってよ」
「だな……もう我慢の限界だ。準備なんざ要らねェよなァ?」
「構わねぇさ。どうせブッ壊すんだ」
……どう見ても、詰んでいた。
消耗しきったニドには、男の手から逃れる手立てなど……もはや何一つ残されていなかった。
「ぐ……っ、止めッ! 止め、んか! 糞餓鬼が!」
「ここまで来て止める男が居ると思ってんのか?」
「へへ、可愛い格好じゃねぇか。ヤる気満々だったんじゃねぇの?」
「ぐ、ぎ……………おの、れ……ッ!!」
奥歯を割り砕かんばかりに噛み締め、憤怒に染まった瞳で睨めつけようも……圧倒的優位に立った男にとっては、逆に嗜虐心を煽る効果しか及ぼさない。
(非力な! この程度か!? この程度の餓鬼に組み敷かれる程度の……か弱き『弱者』だと云うのか!? この吾が……!!)
打撲と裂傷に顔を顰めながら懸命に身を捩るも、色欲に目が眩んだ男の手を振り解くには力が足りず。
威勢の良い獲物を前に昂り勢いづいた男の手により………乱暴に装備が引き剥がされる。
「ぎ…………おの、れ……ッ!!」
ニドの身体を凝視しながら、下劣な笑みを浮かべる男。こんな芥のような醜男に穢されるのかと思うと、情けなさで気が狂いそうになる。
警戒を怠り、薬を盛られ、ろくな抵抗も出来ぬままに甚振られる。………こんな卑劣なオスに。
……吾ながら、情けない。
情けなさの余り………意に反し、視界が滲む。
(こんな……ことなら………っ)
穢れなき少女に特別な価値があることは、知識としては持ちあわせていた。
初槍を授かることは一種の誉れであるのだと………雄にとっての勲章でもあるのだと、知っていたつもりだった。
(こんな、奴等に……! 奪われる……くらいなら……ッ!)
年頃の乙女は、意中の男子に『初めて』を捧げるのだと――そのことが最上の幸福なのだと――いつのことだったか、そんな情報を仕入れた気がする。
政略結婚やら許嫁やらで恋慕を全うできぬ立場の乙女も………そういう憧れは抱くものなのだと、その情報には綴られていた。
か弱いヒト種の恋愛模様なぞ、興味を抱くことなど無かったのだが。
いちヒト種の雌個体へと身を窶したところで、その様な戯れに現を抜かすなぞ………有りよう筈も無いだろうと高を括っていたものだが。
(意中の……『男子』、か………)
一度『死』を迎え、理に反し『生』を得……しかし千数百年もの長きに渡り、悠久とも思えた孤独を味わい。
甦って初めて逢った、ヒトの雄個体。
未だ足元も覚束無い幼子かとも思うたが………しつこく、諦めず、一心不乱に喰らい付いてきた……男の、個体。
………あの小僧。……今代の、『勇者』。
(あの小僧に……無理矢理にでも、喰らわせれば………良かった、か)
後悔するも『時既に遅し』ということだろう。
抵抗さえ出来ぬ小さな身を乱雑に持ち上げられ、既に力の入らぬ上半身を羽交い締めにされ、もはやどう足掻いても逃れられぬ結末に………
悔しさのあまり、涙が滲む。
「………………ヴァル、ター」
ぽそり、と……力無く戦慄く唇から溢れた……『意中の男子』の名。
儚く、小さいその音は………卑劣な暴漢の嘲笑う声に、あっさりと掻き消され。
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不気味なほどに静まり返った……王都リーベルタ東岸街の、とある一画。
月の光も届かぬ狭い路地裏では……口にするにも憚られる惨劇が、繰り広げられていた。
あまりにも酷い、目を覆わんばかりの惨劇。
そのほぼ中心に居たものは……
着衣を肌蹴られ、呆然とした瞳で力無く横たわる……身体中至るところを狼藉者のものと思しき体液で汚された、黒髪の少女が一人と………
「……………は。……夢幻でも、視ているやら」
「黙ってろ。今手当てする。……悪い、遅れた」
「呵々…………戯け。未だ喰われとらんわ」
左右両の手に、狼藉者から奪った剣をそれぞれ握った………
狼藉者のものと思しき返り血で真っ赤に染まった……『勇者』ヴァルターの姿だった。




