112_少女と無害な最終迷宮
のっしのっしと悠然と歩を進める、大型の魔獣古顎獣。
物騒な切歯の並ぶ物々しい大顎は今や閉じられ、四角く張り出した鼻のラインはどこか大型齧歯類をも彷彿とさせる愛嬌を秘めている。
無尽灯の光が申し訳程度に照らす薄暗い通路を、金属の床に重厚な足音を響かせながら……まっすぐ進んでいく彼。その背の上では――心もち内また気味に足を閉じようと試みながら、ほのかに顔を羞恥に染め居心地悪げに揺られている――真っ白い少女の姿。
千年以上もの長きに渡り、環境が停滞していた『島』。ここへきて珍しい、ある種の異様な光景。
戦火の跡も緑に覆い隠され久しい、魔王城の跡地。この『島』の中でも比較的樹木の侵食が少ない平地、水際の草原地帯を住処とする彼が……本来立ち入る筈の無い、徘徊している筈の無い区域。
溶け落ちた隔壁の成れの果て、もはや扉の体を成していないそれを抉じ開け足を踏み入れた、巨大な迷宮。
かつて『魔王城』と呼ばれた浮島の内部、現在は陸地と同レベルの標高となった階層……さしずめ『第一層』といったところだろうか。
(少女にとっての)障害らしい障害も現れず、(少女にとって)危険らしい危険も存在しない、迷宮と呼ぶのもおこがましい程に平和な層(だという感想を抱く者は彼女だけであろう)。
順調に思われた重厚な歩みは……やがて程なくして行き止まった。
――『悲嘆』『不可能』『進入』
「んい。……ありがとう」
隔壁からまっすぐ延びる広大な空間……太古の昔は『格納庫』として利用されていた一画。天井や壁面に多数埋設され、未だに生存している迎撃自動射手たちが黙し見守る中。一人と一頭が悠々と進めてきた歩みの、その終着点。
目指すべき中枢層はこの先なのだが……ヒト型に適応化された通路では、魔獣の彼が歩み入ることは叶わない。
名残惜しく暖かな背から滑り降りる少女と、そんな少女をこちらも名残惜しく……しかしどこか満足げな視線で見つめる魔獣。
「わたし、はこぶ……ありがと。わたし、かんたん、できた。………んい、んい、………あと、もめなさい」
――『安堵』『激励』『祈願』
目を細める魔獣の背の一点……先程背から滑り降りる際、少々においが気になってしまった、一点。
自分の失態によって穢してしまったことを詫びると共に……あまりにも受け容れ難い事態に気が遠くなる。
なにしろ……寝小便だ。
……自分は魔獣の背で、寝小便をしたのだ。
「んい………げんき、おいなり、します。……ありがろ……もめ、なさい」
――『感謝』『感謝』
『時間は有限だ』『手早く用を済ませなければ』などといった自己弁護のもと……気恥ずかしさに急き立てられるように彼に背を向け、動力を喪った扉を開け放つ。
最後まで穏やかな視線で見送ってくれた彼を心に留め……こんな失態は二度とするまいと心に誓った。
………………………
旧『魔王城』格納庫脇、広々とは言えない館内通路。一人きりとなって歩みを進める少女であったが……その歩みはどこか覚束ない。
水気を多分に含んだ少女の下着に、長らく陽の光を浴びずにいた艦内の冷気が移り……足を踏み出すたびに少女の股間部から熱が奪われ、股間と背筋をすうすうと薄ら寒い刺激が襲う。
腕や足など、そこらの肌が冷やされるのなんかとは雲泥の差。女の子の極めて敏感な箇所、そこを中心とする周囲一帯が、冷気で絶えず刺激されているのだ。そこへの刺激に耐性が無く、そこから響くどこか甘美な神経信号に戸惑いを隠せず……とてもとても耐えられるものではなかった。
こんな刺激は知らない。わたしはこんなものは知らない。
前世において股間が冷やされるのとは、刺激の桁が違った。
「んひ………んひぃ……」
みっともなく半ベソをかき、はしたなく腰を引かせながら……薄暗い艦内通路をゆっくりと進む。
おまたがつめたい、きもちわるい、はずかしい。兎にも角にもパンツをはきかえたい。しかしながら替えのパンツは持ってきていない。着のみ着のまま、いちばん動きやすそうな服を着て剣を背負い剣帯を締めて外套を羽織り、それ以外の旅支度など持ってきていない。
前世で長旅に出るときは、必要物の類は何者かが揃えてくれていた。自分だけでは何が必要か、何を用意すればいいのかなんて解らない。そもそも前世では日中に替えのパンツが必要になることなんて……おしっこをもらしてパンツをダメにすることなんて無かった。いったいどうしてこんなことに。
魔獣の背で居眠りし、おまけに寝小便を垂れる……などという。
どう考えても弁明の余地などない。自分の醜態を再認識した顔は真っ赤に染まり、誰にも見咎められないのをいいことに顔を歪め、情けない半泣き顔でしゃくりあげるノート。
……そこで、あることに気づいた。
気づいてしまった。
誰にも見咎められないのなら。
周りに誰も居ないのなら。
パンツをはいていなくても、大丈夫ではないか?
思い立ったが最後。常識的な思考能力がすっぱり抜け落ちているノートは、一欠片の疑問も抱かずに行動に移った。
しかしながらさすがに人目が無いとはいえ、通路のど真ん中でパンツを脱ぐのは抵抗がある。今回はあくまで非常事態として、早急にパンツを脱ぐ必要が生じただけである。
わたしには往来でパンツを脱ぐ趣味は無いし、パンツをはかない趣味があるわけではないのだ。だがそもそもパンツをはかないことでわたしに生じる不利益なんかは特にないのだが……なんにせよパンツをはかないとヴァルターにめっちゃキレられる。
パンツをはかないと怒られるということは知っているので、自ら怒られにいくようなマネは慎まなければならない。露出癖や被虐願望をもち合わせているわけではないのだ。
なのでパンツを脱ぐにしても、通路などの往来で脱ぐわけにはいかない。
ではどうするか。……自分の縄張りを探せばいい。
自分の縄張り内のような『他人に迷惑の掛からない場所』でなら、べつにパンツを脱いでも問題無いのだ。
自身の記憶、そして古顎獣に運ばれてきた経路を呼び起こし、さしあたっての行動計画を立てる。
幸いなことに――というかそもそも以前旅立った際の目的地点、そして今回の出発地点である『砦』の方角からして、今回の上陸地点が見知った場所となるのはある種の必然なのだが――この近辺の通路には身に覚えがある。
濡れた股間を気にしながら、内股かつへっぴり腰で第一層を彷徨うこと、暫し。
幸いにして……とても身に覚えのある部屋を発見した。
壁には天井から床まで大きな亀裂が走り、そこからは外の緑色とともに明るい陽の光が差し込み。
亀裂の下部より流れ込んだ湖の水は、部屋の片隅に水場を形作り。
瓦礫を組み上げた粗末なかまどと、木の繊維を細かく裂いた寝床の遺構が見て取れる。
「………んい……ここ」
ほかでもない。
自分が以前、目醒めてから一年あまりを過ごしていた『住処』。
「……ただいま」
なつかしの住処、自分の手で作り上げた寛ぎの空間。
久しぶりに足を踏み入れた安住の地に、誰へともなく言葉が漏れた。




