110_追跡算段と危険な夜遊び
湖面から流れる緩やかな風が、夜闇に煌めく白い髪をさらさらと揺らす。
軽装備に身を包んだ夜警兵士の灯火が見え隠れする、ドゥーレ・ステレア湖南砦の士官用宿泊棟。……その屋根の上。
武力の象徴でもある堅牢な砦施設には明らかに場違いな……白い小さな人影がひとつ。
のっぺりとした黒闇を湛え星空を映す巨大湖を、微動だにせず注視している。
首から下すべてを覆う真っ白な外套と、背には鞘を蛇革で飾られた長剣。
何事かを思いあぐねているのかぼんやりと佇みながら、じっと湖……の中央に座す孤島を見詰めていた。
「夜遊びか? 御前」
「んぴ!?」
不意に掛けられた声に奇声を上げ飛び上がる白い少女。驚き振り向くその先、すぐ傍に…夜闇に溶ける髪色の少女がいつのまにか佇んでいた。
兵士達の巡回経路であるはずも無い、人の気配の全く無い屋根上。人知れず向かい合う白と黒の二人。
「黙って出掛けると坊らが心配するぞ? あの長耳娘に至っては……狂うぞ?」
「あ、あえ……? あえ………」
先程までの思い詰めたような顔はどこへやら、坊と長耳娘――ヴァルターとネリーの名を出され、途端に狼狽え出す小さな姿。
その弱々しい……見た目に違わぬ幼い言動に、ニドは密かに嘆息する。
「………やはり吾が王に非ず……か。………解っては居たがな」
「んえ………がおー?」
「何でも無い。ガオーではないぞ御前」
軽く目を瞑り、ふるふると顔を横に振ってニドは呟く。
確信した。やっぱりこの子は……ノートは、ただの子どもなどでは無い。
「良いか、抑もおんしは行動が軽率に過ぎる。自分が如何程好かれて居るか解らんのか。……吾の見る限り、皆が御前を気に掛けておる。……御前が突如消えれば、奴等皆が悲しむであろ」
「かな、しむ……? わたし、いない……みんな、かなしい……?」
「何を今更。……自分の人気を、影響力と云うものを……少っとは把握せえよ、御前」
「んい……んい………」
彼女自身が思っている以上に……ノートの人気は途方も無く、高い。
可愛らしい見た目、少々突拍子ないものの愛らしい言動、そして……他者のために尽くさんとする心意気。
彼女に心奪われた者は数知れず。彼女に命を、生活を救われた者――彼女に感謝の意を感じている者は――更に多い。
「はっきり言うてやろう、御前。……おんしは、皆にとって必要な娘だ」
「………? わた、しが……?」
夜中にこっそりと抜け出し、どこぞへと旅立とうと画策していた彼女。……大方フレースヴェルグの行方と対応に頭を悩ませる勇者を慮り、奴を追跡するための手がかりでも探しに行こうとしていたのだろう。
長きに渡り人の手が入ることの無かった……魔境と化した孤島へ。
湖のど真ん中、かつて『旗艦島』とも『魔王城』とも呼ばれた廃墟。眠りから目覚めた奴の目的地として、これ程判りやすいものもあるまい。
「………でも、わたし、……やくに、たつ……ほしい」
「これ以上に、か? おんしは充分皆の力となっておるよ」
「ちがう……ふれーす、べるく……ちがう。……これ……わたし、わるい」
「………それは……まぁ否定せぬが」
「あーね、まるめろ、ちがうくに。………ここに、くる……こまる。……これも………わたしの、せい」
「……………成程なあ」
此処に至るまでの話は、ヴァルターから一通り聞いていた。
ノートが半ば勝手に非公式な調査依頼を受け、外交問題スレスレを綱渡りしつつ赴いた先で未開の遺跡と遭遇し、突如として遺跡が息を吹き返すとともにフレースヴェルグに襲われた、という。
ニドにはことの全容が……ほぼ全てが推測出来ていた。
やんごとなき上位魔族の身体を持つこの幼子を館内の自動認証機構が来客として認識し……途方も無い長きに渡って待機中であった施設全体が再起動を果たし、施設間通信機構が再構成され、再生を果たし長期休眠中であった最高戦力が覚醒し、やんごとなき彼女の下へ馳せ参じたところ……
憎き敵の一族に連なる者――白い剣を持つ男――と遭遇、交戦状態に陥り興奮状態に陥った。……そんなところだろう。
あの腐れ鷲鼻が再生していたのは気に食わないが……下手人には心当たりがある。鳥籠の中で鳥頭どうし惨めったらしく群れていた、そういうことか。
ともあれフレースヴェルグが目を覚まし、得意顔で駆け付けたところで。その見当違いな張り切りっぷりは痛々しいことこの上なく……全くもって見当違い、間抜けと言わざるを得ない。
彼女の身体は確かに魔族の、それも相当身分の高い者であろうが……その内面は全く別物であろう。少なくとも為政者のソレでは断じて無い。
記憶を喪っているのかそもそも記憶が無いのか定かではないが、少なくともフレースヴェルグに傅かれても困惑するだけだ。魔族としての記憶も意識も彼女に無いのであれば、『神話級』の存在など単なる恐怖でしかない。怯えさせるだけだ。
そうして実際に拒絶されたのか、はたまた拒絶されたと早合点したのか……自尊心の塊である腐れ鷲鼻は怒髪天を突き、大人げなく大規模破壊魔法を行使した……ということであろう。
阿呆だな、とニドは独りごちる。
奴めも一度敗北した身であれば、少しは身の程を弁えても良いだろうに。
自分勝手な鳥頭のせいでこの幼子が謂れのない責を感じ、その末に起こさんとする行動によって可愛い弟子らが悲しむという。
………面白く無い。
この幼子は言って聞くような性根では無いのだろう。他者を頼ることを良しとせず、全て自分の手で片を付けようという……逞しくはあるが、悲しい性根だ。
言って聞かせて止めることは出来ない。
力ずくで止めることも……今の自分には、もはや出来ない。
つまりは……彼女を止めることなど出来ない。……ならば。
「身内に心配は掛けるモンじゃ無いぞ、御前。行く前に出来ることがあろう」
「? ……んえ?」
止められないのなら、考えを変えるしかない。
そもそも金輪際会えなくなるわけでは無いのだ。要は彼らが心配せずとも済むように、根回しが出来ればそれで良い。
一つ頷き、ニドはあるモノを取り出す。
医務室の机上より拝借してきた、誰のものとも知れぬ診断書……の裏。ついでとばかりに同じく医務室より調達した筆記具。
「ほれ。一筆残して行くが良い。さすれば彼等も然程悲しまんで済むだろう。………長耳娘以外は、な」
「?? ……いん、び? つの、こし…?」
「手紙じゃ、手紙。娘子の口で淫靡など口にするでない」
「……んい、んい……? てが、み……?」
紙とペンとを受け取り、可愛らしく首をかしげる白い少女。ペンを握り紙に向かい合い、さあ一筆したためるかと思いきや………眉根に皺を寄せなにやらうなり始める。
まさかと思い不安げに見守るニドの手前、おっかなびっくり書き始めたその筆跡を目で辿り……溜息を溢すニド。
やがてノートが書き上げた、一通の手紙。
……ヴァルターやネリーは到底読めないであろうその手紙を目にし、ニドはやれやれとばかりに深く深く項垂れた。
「………まったく。文字が書けぬならそう云うがよい、御前。無理して書かずとも良い」
「んい? ………ごめ、やさい。……んいい………にと、かいて……して?」
「呵々。良か……ろ……………あ」
「? にと……?」
饒舌だった口が、ぱったりと止まる。
咳払いを一つ。
首をかしげ見つめてくる少女から視線をそらし、彼女から受け取った手紙を小さく畳み懐に仕舞い込む。
常日頃から余裕綽々と構えている彼女にしては珍しく、どこかばたばたと急き立てられるような……焦ったような素振りを見せるニド。
「にと? かいて………にと?」
「いや、まあ、その……なんだ。………別に態々認める必要もあるまい。吾が言伝すれば良いだけよな。うむ」
「?? ……にと?」
「否、気にするな御前。坊らには吾の口から伝えて置こ。気にするな。…………良いな?」
「え、えあ……は、はい。……わたった、ました」
「うむ。解れば良い。……で、何時頃戻る?」
「……い、つ? ………んい……」
首をかしげ眉根に皺寄せ、思考を纏めているノート。
ふいに純白に煌めく剣を構え、探知魔法を発動。目的地である孤島付近を能動探知で探り………薄い唇を引き締める。
一度瞑り、再び見開かれた瞳には……満天の星空と並々ならぬ決意を写し。
「………さん、にち? ………んい……あさ、さん、こ? まで。……もどる。………ぜったい」
「……今より三度目の朝を迎える迄。絶対に戻る、と。……相違は無いか?」
「ない。…………ない。……あるたー、ねりー、あーね、まるめろ、……あと、にと。………かなしい、しない。ぜったい」
「…………呵々。良い子だ」
出来ることなら自分も付いて行きたかったが……剣の握れぬ幼子では単なる足枷と化すだけたろう。魔族の祝福を持つ彼女と違い、今のこの身体は単なる人族の小娘に過ぎない。ただの人族の小娘にとっては……あの島は危険過ぎる。
それに……言伝という重要な御役目を拝命してしまった。たとえ自ら申し出たことだとしても、たとえ彼女が其程重要視していなかったとしても……無下にすることなど到底出来ない。
見つめる先、星空を写す湖面が僅かに揺らぐ。……どうやら迎えが到着したらしい。
ならば此処より先は、彼等に任せるとしよう。少なくとも今の自分よりは彼等のほうが戦える。龍種に比べれば劣るとされる竜種といえど、幾百の歳を数えればその力は侮り難い。
島まで辿り着けば……あの子にとっては逆に安全だろう。あの身体を持つ者の危機を黙って見過ごすような不心得モノ達が、『魔王城』に配されている筈が無い。
この時代に、彼等忠臣達ほどに歳を重ねた者は……そう居るまい。
きっと、大丈夫。何度も自分自身に言い聞かせ……ニドは己の希望を圧し殺した。
「………くれぐれも、無茶はするでないよ」
「んい。……むずかし、おもう、は………にげる」
「其れで良い。……おんしが全て抱え込む必要は無いのだ」
「だいじょ、ぶ。……いく、します」
魔に依る権能を殆ど失ったニドでさえ僅かに感じるほどの、高密度の魔力がノートの身体を巡る。
小さく呟いた身体強化の詠唱句、それさえも置き去りにして……人知れず白い少女は消え失せた。
………………………
夜警の明かりさえ数を減らした砦の屋根上、残された夜闇色の髪を持つ少女は……畳まれた紙を広げ、穴が開かんばかりに注視していた。
それは先程白い少女、ノートが書き記した――彼女が親しんだ文字で綴られた――ほんの短い手紙。
「………吾が、読める。………と云うことは」
ニドとて偉そうなことを言っておきながら、現在の共用言語の読み書きなど出来よう筈もなかった。
無理もないことだろう。亡者として蘇生し、変化すら停滞した空間に千数百年も閉じ籠り、つい先日やっと表へ出たばかりなのだから。この世界の文化、この世界の文字を知っている筈など無いのだから。
その筈なのに、読める文字。
千数百年前に生きていた自分が、読める文字。
つまり……その文字を書いた者、とは。
千数百年前――世界が焼かれる前の知識を持つ者に、他ならない。
「…………面白い」
あの顔立ち。あの声色。そして色濃く纏う魔力の匂い。
懐かしい。忘れもしない。どれをとってもあの御方に瓜二つ。
守るべき王が去り、自らの存在理由さえも消えたと思っていたのだが……どうやら自分はまだまだ未練があるらしい。
あの地底で、いずれ朽ちていくばかりであった自分を尋ねてきてくれた。……それも何かの『縁』、何者かの思し召しなのだろう。
「吾が王の……忘れ形見…………無下になど出来ようか」
ならばこそ。どうせ一度は失った命、そのまま霧消する筈だった二度目の命。有効に遣って貰おうではないか。
尽くすべき王はもう居ない。守るべき国はもう無い。
『神話級』などと持て囃された身体も、とうの昔に存在しない。
なればこそただ一人、あの娘のために……人族として生きてみようか。
「……取り敢えずは……坊らへの釈明、そののちはあの御転婆娘の尻拭いかの。坊は言って聞かせるとして長耳娘は…………まぁ吾が身を差し出すか」
黒染の臣下は内に秘めたる思いも新たに……
主の末裔の出奔、その尻拭いをすべく動き出すのだった。
にどちゃ『外見は主に似てるのだがな』
にどちゃ『でも技能はあの強者めに似てるな』
にどちゃ『そういえば死んでる間に『主が駆け落ちした』って噂聞いたな』
にどちゃ『かかか、そうかやはりあの娘子が。主はちゃあんとやや子を儲けたか。……成程、剣は父親の遺品か』
※ネタバレ:ちがいます




