奥深き森にて
夜の闇にすっかりと静まり返る樹海。
奥深き森の、更に奥深く。
その最深部に佇む一本の大樹。
そびえ立つ大樹を囲むように、数十人の男女が腰を下ろしていた。
周囲に他の樹木は生えておらず、もし、空を飛ぶ鳥の視線で見ることができたならば、そこだけが鬱蒼とした樹海のなかで、王国銅貨に空いた穴の如く、ぽっかりと開けているのが分かっただろう。
月夜に向かって堂々とそびえ立つ大樹。どれ程の年月を掛け、今に至ったのか。その胴回りを測るには、手を広げたおとなが十人程集まったところで、まだまだ、まるで足るまい。
大きく、高く、そして広大に。
威風すら漂う佇まいに、見る者はすべからく畏敬の念を抱くことだろう。それはいまこの時、この果てしなく大きな老木を囲む男女達もまた、例外ではなかった。
ただ、その姿は様々である。
ただ腰を下ろしている者。
胡座に構える者。
敷物を用意し、その上に結跏趺坐する者。
果ては、横寝に頬杖をついている者。
それぞれが、思い思いの格好で大樹を囲んでいる。共通していることと言えば、誰もが手に手に剣や槍、長弓といった武具を携えていることか。
そんな彼、彼女らを、くらくらと燃える篝火が照らしていた。
時折吹く夜風に、篝火は揺れ、梢がざわざわと鳴る。
季節はようやく変わり目を迎え、芽吹きの時期を迎えていたが、風はいまだにひどく冷たい。しかし誰ひとりとして、文句を言うこともなく、とある一点を見つめているのだった。
その視線の先――。
大樹の根本には、銀髪の少女がひとり、佇んでいた。
まだ大人に成りきらない、青き肢体を包んでいるのは、大きな切れ込みの入った、丈の短い緋袴に、胸元が大きく開いた薄手の白衣。
右手には、細身の曲刀を。
左手には、連ね鈴を。
その背には――黒色の翼。
上気、いや陶然とした表情に、弾む吐息。着崩れた白衣のその隙間から覗く、その抜けるように白い肌は、じっとりと汗ばみ、ほのかに朱が差していた。
かれこれ、もう三日三晩になる。
一同が国を離れ、この地へと出立したのが二月半ほど前のこと。古き地図を頼りに、樹海に踏み入ったはよいが、襲い来る凶暴な魔獣に、ひとり、またひとりと、決して少なくはない犠牲者を出しながら、ようやくたどり着いた魔境。
と、脇に控えていた老女が、少女へ薄紫色の小瓶を差し出した。今晩だけで、すでに三本目だ。見れば、差し出す老女のその手には、びっしりと生えた鱗。同時に、別の者が黒塗りの鼓を打ち始める。その頭部には水牛のそれに似た角が生えていた。
そう、この場にいるのはヒトではない。
ヒト、とりわけハイマンと自称する者達が「デミ」だとか、「亜人」だと呼び、蔑んでいる――魔族――だった。
とん、とん、ととん
少女は小瓶の中身を、くいと一息に飲み干し、大きく息を吐く。始めの晩、老女はこれを一族秘伝の強壮剤だと言った。確かにそれで間違いはない。間違いではないが、かと言って正確でもなかった。
零れた液体が首筋をつう、と伝う。少女はそれを拭いもせず、しゃらんと鈴を鳴らし、肢体をくねらせ始めた。
腰まである銀髪を振り乱し、曲刀を閃かせ、舞う。
弾む吐息は白く、篝火に照らされた横顔は、年齢不相応な妖艶さを醸していた。
鼓の拍子は少しずつ、少しずつ速さを増してゆく。
篝火には薪が継ぎ足され、炎はより勢いづく。
風は止んでいる。
大樹をふり仰ぎ見れば、その合間から満天の月が覗いていた。
早まる鼓の拍子に、鈴の音もまた絡み合う。
合間を縫って、ひゅん、ひゅぱっと曲刀が空を絶てば、その指先からは飛沫が舞う。
森はすっかり冷えているというのに、体の奥はこんなにも熱い――。
ふと、一団の後方で怒号が上がり、老女は何事かと目を凝らす。大樹の近くからではよく見えない。どうも大きな黒い影が蠢いているようである。
夜の静寂をつんざく咆哮に、その近くの十数人が一斉に立ち上がり、手に手に得物を構える。そうして黒い影へと向かって剣や槍を突き出せば、杖を構えた者の、その杖の先から人の腕ほどもある氷槍が射出される。
――そう、これまでも一団に犠牲者を強いてきた、魔獣の襲撃だった。
突然の喧騒に老女は眉をひそめるが、しかし少女にとっては何事も起こっていないかのようだ。一心不乱とはこのことか。脇目も振らずただ舞い続けていた。
いつしか、少女の口からは、苦悶の呻き声が混じるようになっていた。それは喉の奥を絞るように「んっ、くぅ」と。声だけではない、事実、その表情もどこか切なげであった。
鼓の拍子はいよいよ狂おしいほどに早まり、肢体を振り乱して舞う少女は、もはや漏れ出る嬌声を抑えようともしなかった。そう、嬌声なのだ。原因は、老女が渡した最後まで舞いきるための強壮剤――催淫効果混じりの。
そうとも知らず、いや仮に知っていたところでどうなるわけでもないが、衣擦れに己の体がなぜ熱くなるのか、分からぬままに、少女は、ただ舞い続ける。
熱い、熱い。
声が漏れる。
頭がぼうっとする。
もっと、もっと、もっと早く。
ああ、何かが、何かがやってくる。
聞こえる、聞こえる、我慢できない。
何も、考えられない、白、白が、に、あ、
一団の後方で、壮年の男性――青白い肌に長い牙――が、討ち取った魔獣の首を掲げる。だが歓声は上がらない。魔獣の遺骸の側には、無残な姿を晒す、同朋の亡骸があった。
そして少女は身を捩り、絹を引き裂くような声を上げ、その黒い翼を痙攣したように震わせた。
そうして、異変が起きた。
それは地面から浮かび上がるように、ふわっ、と。
弱々しいが、優しく光る発光体が出現したのだ。
ひとつ、ふたつと、浮かび上がり、漂い始める。
少女は熱病に浮かされたように、半眼でその様子を眺めながら、膝から崩れ落ちる。荒い息遣いは、男女の行為のそれと変わりなく、その未成熟な体を艶かしく包んでいた薄手の白衣は、躰にぴたりと張り付き、肌が透けるようであった。
その間にも発光体は次々と数を増やし、わずかな間に数え切れぬほどになる。大樹のまわりを漂うその様は、真夜中だと言うのに、満開の花が咲いたかのようだった。
そうして、しばらくはふわふわと漂っていた発光体であったが、やがて明滅を繰り返しつつ、一箇所に集まり始めた。それを見た老女は口の端を歪ませ、事は成ったのだと、同胞らの尊い犠牲を払ってまで、古文書の内容に賭けた価値はあったのだと、しわがれた喉を鳴らす。
絶頂の余韻覚めやらぬ少女の目の前で――
感慨にふける老女の目の前で――
大樹を囲み、固唾をのむ一同の目の前で――
数多の光は、ただひとつに収束し、人の姿を形取る。
再び夜風が流れ始める。
雲が流れ、月を覆い隠す。
やがて光は消え、篝火の明かりだけが、ゆらゆらとその場を照らしていた。
ふと気がつけば、大樹の前に、ひとりの少女が立っていた。胸元と陰部を手で隠し、伏目に恥じらう、その肌は 雪のように白く、絹の滑らかさ。程よく肉の付いた、若々しく豊満な肢体は、すぐさま老女の差し出した漆黒の衣に隠されてしまったが、しかし何より、視るものの目を引くのはその額から生えた角であった。
天に向かって螺旋を描く黄金の角。
また呼ばれちゃったぁ。
この時って、いつもハダカだから恥ずかしいんだよね。
う~ん、でも、ま、いいか。
だって、ほら。
物憂げにため息を付き、白金に輝く前髪をふわりとかき上げれば、そこから覗く眼は、燃える紅眼。
老女が何か口を開こうとするのを、一寸たりとも気に留めず、足元ではぁはぁと荒い息を付く少女に、手を差し伸べる。そのまま抱き寄せ、耳元で労をねぎらう言葉を掛けてやると、彼女は至福ともいえる表情を浮かべ、そのまま気を失ってしまった。取り敢えず水牛角の青年に預けた。
さて、自分がまた現世に召喚されたということは、つまり、そういう事情があるということだ。
場を見渡せば、どうも戦闘行為のあった形跡も伺える。
自分にとっては庭のようなものだが、彼女らにとっては、そう簡単に行き来できる場所ではないのだろう。痛ましいことだが、犠牲者も出ているようだ。ならば期待に応えてやらないわけにもいくまい。
月は隠れていた。
夜の闇に、篝火の炎がゆらめいている。
ときにはこんな夜もいいのかもしれない、と、ひとり妙に納得する少女は、さて。
老女が一本の杖――どこか見覚えのある――を差し出してくる。続けて、いくつかの指輪に、ネックレス、腕輪。そのどれもが少女の記憶の琴線に触れるものだった。
ひとつ、ひとつ、指輪を嵌めるごとに、その懐かしい感覚にきゅうと胸が締め付けられる思いがした。
追い求め、追い求め、手に入れたと思ったら、するりとすり抜けてしまう。まるで指のあいだをさらさらと零れる、砂漠の砂のように。何度も、何度も、拾い直そうとしたって、どれが元の砂なのか分かりゃしない。だけど、いつか掴める日が来ると信じて、また繰り返す。
瞼の裏に浮かぶ情景に、少女の口元が引き締まる。本来の自分は楽天的で、どちらかというと怠惰で、できればのほほんと過ごしていたい。でも、最も叶えたい望みだけは、これだけは――。
いつの間にか閉じていた瞼を開けば、鱗の老女が、水牛角の青年が、青白い肌の男が、皆、皆が、自分を取り囲み、傅いていた。
うん、分かっている。
これが私に科せられた役割なのだから。
だから、名乗らないと……この古き名を。
――皆、よく頑張りました。私の名は、アルレシア。
――またの名を、始まりの魔女。
――どうか、心安らかに。不安はもう、無いのだから。
森の広間を、柔らかなアルトが流れる。
自身を魔女と名乗った少女は、慈愛とも憂いともつかぬ表情で、夜の闇を見上げた。