序章⑦
少し早い7月
スラヴァたちは『ハンガー』まで乗ってきた小型軍用車両のUAZ-469で『開発局』に向かうことにした。「第109親衛空挺師団」のクラン拠点は東京ドーム約321個、15000haもの広さがある。その広大なテリトリーの内にレーダーサイトや兵舎、演習場、弾薬や兵器の工場が点在している。大規模戦闘とリアリティがWoWの醍醐味であり、そのためクラン拠点はまるで1つの街の様相を呈している。AI兵士を雇うにしても兵舎の拡充は必須であり、生産性を向上させるために工場を増設する際には、工場数に見合うだけの工員用の住居を建設する必要があった。
無論、いくらリアリティを追求しようとも現実を超えることは不可能であり、そしてWoWがゲームであるがゆえに規制もあった。ゲームの要素として民間人の殺害は避けなければならない問題の1つであり、WoWを運営しているトロン社は民間人をゲーム内に登場させないことでこの厄介な問題を片付けた。あるゲームでは子供の死体を人形で表現するように、WoWでは民間人を住居で表現することにしたのだった。住居であるアパートやマンションが破壊されない限りは、いくら砲撃の嵐が吹き荒れて核の雨が降ろうとも民間人たちは死ぬことはなく、彼らはタブレットに表示される拠点のステータスの一部として、人口の項目に数字として計上され続けたのであった。
WoWのプレイヤーたちの間では、WoW最強の兵士は練度精鋭のAI兵士でも神がかり的なエースパイロットでもなく、ただの民間人であるというジョークがある。弾丸や放射線をもろともしない最強の兵士であると。そして、数字の上でしか存在しないために彼らのことを冗談めかしてゴースト・バタリオンなどと呼ぶものもいる。
そういう訳でスラヴァたちが開発局に繋がる幹線道路沿いに建設された「街」を通り抜けた際の驚きようは半端ではなかった。「街」には作業着を来た男たちの一団やスーツを着た実業家風の男、野菜が入った網袋を提げて建物に入っていた小太りのご婦人、そして母親と思しき女性に手を引かれている、おさげが似合う少女を見かけた時、スラヴァたちはまるで幽霊にでも会ったかのように真っ青になっていた。
一同が呆然とし言葉を失っている中で、イヴァンが何とか声を捻り出した。
「どういうこっちゃ。ありえん。ありえんぞ。運営は気でも狂ったんか」
イヴァンの独白地味た問いかけにスラヴァとカルシウムは沈黙で答えた。それはまさにそうだとしか思えなかったが、そうだと思いたくはなかったからだ。このような倫理に触れるようなアップデートが意図的に行われたのであれば、唯でさえプレイヤーがログアウトできない異常事態への責任を追求されるであろうトロン社の命運は尽きたと言ってもいい。そして、それは同時にWoWの終焉、サービスの無期限停止と同義であった。
3人のただなる様子を感じ取ったのだろうか、運転をしているAI兵士が恐る恐る尋ねてきた。
「どうかされましたか、大佐殿」
AI兵士の対応が余りにも自然で人間的だったために、彼がAIであるということを忘れてイヴァンは質問を投げかけた。
「ここは以前からこんなんやったか」
「はい、タラ地区に新しく工場や団地が建てられたという話は聞きませんので、前からこのような風景だと思いますが」
「いや、ちゃうちゃう。こんな風に人が大勢いたかってことや」
AI兵士は困惑の表情を浮かべつつ返答した。
「空襲警報や避難警報が出されていない限りはこのようだと思われますが」
彼との間に何か決定的な齟齬を感じたイヴァンは、ここに来てようやく彼がAI兵士であることを思い出した。それまではAI兵士は戦場に於いて発せられる単純な命令しか理解し実行できなかったのだが、AI兵士の言動は以前のそれと比べ物にならないくらい人間味を増しているように感じた。ミラー越しにこちらを伺っている表情にも、まるで本物の兵卒が士官に対して抱く敬意や畏怖が現れているようにイヴァンは思えてきた。
「いや、そうか。ありがとう。気にせず開発局まで向かってくれ」
そう言ってイヴァンはスラヴァの方を向き、このAI兵士との会話はまるで人間と話しているようだったと言おうとしたのだが、なぜか言葉が出てこなかった。スラヴァと恋人のように見つめ合った数秒間後に、イヴァンはこの奇妙な感覚の原因に心当たりがあるように感じた。それは本人の前でその人自身の噂を言うのが、どうも憚られる心情に酷似していた。噂をすれば影、まさにその場に当人が居合わせてしまった時の気不味さが喉を締め付けていた。それはイヴァン自身がAI兵士を頭ではAIと理解しつつも直感的に人間のように感じ取ったがゆえの反応だった。
「なんっすか、イヴァンさん、気持ち悪い」
にべもないスラヴァの発言にもイヴァンは取り合わずにぼそっと呟いた。
「いや、何でもない」
「大丈夫っすか、冷や汗すごいっすよ。幽霊にでも会いましたか」
引き攣った笑みを浮かべつつ、イヴァンは答えた。
「阿呆抜かせ、全く冗談きついわ。そういうスラちゃんやって目玉飛び出そうになってたやろ。どっかに転がってるんやないか。第一に驚かんかったら、それこそ節穴ってやつやわ」
「違いないっすね。いやあ、全く何がどうなっていることやら」
いつものように軽口を叩き合うぐらいには調子を取り戻しつつあった2人を尻目に、カルシウムは酷く重い表情をしながら口を開いた。
「イヴァンさん、スラヴァさん、僕らWoWの世界に迷い込んだのかも」
WoWの世界に迷い込んだ、カルシウムのその発言を聞いたイヴァンは神妙な面持ちでカルシウムの方を向き、まるで我が子を説得するしようとする父親のように言った。
「カルちゃん、何を馬鹿なこといっとるんや。いくら現実が辛くてもそこから目を背けたらいかんで。VRが発明されてから色んなやつが現実を捨てて、VR世界に没頭したけど、最後に残るのは現実や。いくらWoWが好きでも、それを現実と錯覚したら人生終わりやで。そういう願望があるってことは、VR廃人の一歩を踏み出したってことやからな気ついけへんといかん」
やけに真面目な、いつもの巫山戯た様子とはまるで別人のようなイヴァンに困惑しつつも、カルシウムは己の所見を力強く述べ始めた。
「いや、イヴァンさん、そうではなくてですね。ただ、現状から推察するにですね、そうとしか考えられないじゃないですか。これまで一度もWoWのみならず、VRゲームでログアウができないなんていう事態が起きましたか。もう実用化されて何年も経ってるんですよ。今更、こんな致命的な問題が発生するとは思えません。それにAIとは思えない、AIの限界を遥かに凌駕する彼らの人間じみた言動や表情。それに唯でさえリアリティを求めすぎて結果、R18指定があるにもかかわらず、有識者の方々の批判の矢面に立たされているWoWが、民間人、しかも子供というシビアな要素を導入するでしょうか。もしこれがまだWoWであるならば、トロン社のCEOはとち狂ったとしか言いようがありません。いや、トロン社の全員が全員、おかしくならないかぎりこんな狂気じみたことはできない。それに、WoWの世界が現実であれと望む願望の持ち主は相当なマゾですよ。四六時中どこかしらで戦争が起きて、年間うん十万人、うん万人も死ぬ世界になんて誰が住みたいと思いますか」
カルシウムの気迫に圧倒されたのもあったが、イヴァンもスラヴァも彼の推理は筋が通っているように思い、沈黙で彼の推論を肯定した。重苦しい静寂とGAZのガソリンエンジンの音が妙に調和して、その場を支配していた。
GAZ
乗用車から無骨な装甲車まで手広く扱うソ連時代から続くロシアの自動車メーカー。