序章⑩
説明回
案内された31倉庫は戦車の墓場だった。
倉庫の中には砲塔が外され、シャーシ*1や砲身などのパーツごとに分解された戦車の残骸が所狭しと並べらていた。倉庫の壁には戦車の設計図や数字と文字が複雑に絡み合った計算式が書かれた黒板が掲げられ、壁のそばには白衣を着た一人の男が立っていた。もし戦車が生き物でこの光景を目の当たりにすれば、間違いなくこの男はマッドサイエンティストで人造人間ならぬ人造戦車を製作しているのだと断言するだろう。その狂気の科学者こそがここの主であるピランデッロ本人であった。
「所長、お客様をお連れしました」
「ピランデッロさん、カルシウムです。ちょっとお尋ねしたいことがあって」
戦車設計に夢中になる変人と聞いていたので、イヴァンは勝手に中肉中背の典型的なギークを想像していたが、黒板から目を離しカルシウムたちの方に振り向いたピランデッロは黒髪、長髪、黒縁眼鏡、高身長、整った顔立ちをしていた。
「ああ、カルシウムさん。スラヴァさんもイヴァンさんも、皆さんもご同伴でどうされたのですか」
ピランデッロの落ち着いた声とその雰囲気は、クランメンバーと余り関係を持たずに倉庫に独り籠って戦車の魔改造に勤しむ変人だと言う前評判からはかけ離れていた。
「どうもお久しぶりです、ピランデッロさん。実は大変な問題が起こりまして」
深刻そうなカルシウムの顔を見て、ピランデッロは眉をひそめた。
「大変な問題ですか?」
「僕らWoWの世界に迷い込んだんすよ、ピランデッロさん!」
スラヴァの発言を聞いたピランデッロは、何を言っているのか理解できないといった表情を浮かべた後、おもむろに腕時計を見遣り、困った顔でスラヴァに言った。
「スラヴァさん、エイプリルフールはまだですよ」
「いや、ピランデッロさん、嘘でもジョークでもないんすよ!本当に、マジで、ガチで!」
そう言って詰め寄ってくるスラヴァをまあまあと宥めて、ピランデッロは3人に椅子を勧めて勧めて、自身も椅子に腰かけた。
「お三方、一旦落ち着いてください。そもそもVR技術が黎明期、開発段階だった時ならいざ知らず、インナーバイパス技術が確立した現在、仮想現実が使用者の神経と直接接続されることはありません」
ピランデッロの説明を3人が理解できず、3人が3人ともお互いの顔を見つめ合ったが、ピランデッロは構わずにさらに説明を続けた。
「簡単に言えば、現在のVR技術はヒューマンオーグメンテーションの延長線上にあります。つまり、皆さんの体内に埋め込まれたインプラントを介して、仮想現実が構成されています。この技術の基礎にあるのが電子擬化や人体電子工学でして、この電子擬化の技術に応用されているのは」
このままでは話についていけないと悟ったスラヴァは恥を忍んでピランデッロに言った。
「文系学生にも分かるようにお願いできませんか……」
「失礼いたしました。熱が入ると周りが見えないくなるもので……。では、基礎の基礎から説明させていただきます。まず、現実世界の皆さんには、インプラント・デバイスが埋め込まれていると思います。この技術の先駆けは21世紀に開発され、広く一般に普及し始めたのが21世紀の後半ごろになります。当時はまだマイクロチップを埋め込んで電子決済や身分証の代替品としての機能しかありませんでした。マイクロチップはインプラント・デバイスとは程遠く、データを保管するだけで能動的機能はありませんでした。つまり、現在のようにそれ自体で人体の情報を収集したり、神経信号として出力することは不可能だったわけです」
「なるほど、過去の技術は現代のには到底及ばないということっすね」
「簡潔にいえばそうです。人類は歴史の中で様々な技術的革新を起こしてきました。車輪、紙、火薬、羅針盤、活版印刷、蒸気機関、インターネットなど枚挙に暇がありません。それらの技術革新と比肩しうるのが、インナーバイパス技術なのです。この技術によってウェアラブルデバイスと脳を神経を介して接続できるようになりました。もしこの技術が発明されて普及しなければ、我々の生活水準や社会構造は今と大きく異なっていたでしょう」
「その技術とWoWからログアウトできないことが関係しとるんかいな、ピラちゃん」
「イヴァンさん、むしろ、逆です。このインターバイパス技術あるからこそ、ログアウトできないということは起こり得ないのです」
「なんでや」
「インターバイパス技術の根幹にある倫理規定に抵触するからです。このインターバイパス技術を開発するにあたり、最大の障害の一つは倫理との兼ね合いでした。仮に脳内の思考を文字化するインプラント・デバイスを開発したとします。悪用すれば、これほど簡単に思想犯を見つけ出す手段はありません。人間に残された「心」という秘密の部屋が科学によって蹂躙されるのを恐れた人々は、技術開発に規制を掛けました。インターバイパス技術によって脳とインプラント・デバイスを繋ぐのは体性神経のみ、つまり、運動神経や感覚神経を通じて疑似的に出入力することはできますが、思考にかかわる部分は未だに閉ざされたままです」
「んー、話がややこしくなってきたな」
「まあ、簡単に言えば、腕を動かすとか口を動かして発音するという信号はインプラント・デバイスに疑似出力可能ですが、なぜ腕を動かすか何を思って発音するかという根本の思考に関わる事柄についてインターバイパス技術では検知できません。つまり、皆さんの思想良心の自由は保障されてます」
「あくまでも深層心理は検知されないってことか」
「先ほど話したのは疑似出力についてでしたが、疑似入力に関しても制限があります。VR技術を利用している場合、認められる疑似入力は視覚と聴覚、触覚のみです。つまり、インプラント・デバイスから疑似入力された視覚情報を視神経を介して、音声は聴神経を介して疑似入力されることで、現実世界と同じように仮想現実が知覚されます。ですが、現実世界にある腕を動かせといった情報を外部から身体に直接入力すること認可を受けていない限りできません。身体を第三者に乗っ取られる恐れがあるからです。なので、半身不随などの身体障碍やサイボーグ手術を受けるなどの特別の事情がある場合のみ、所定の手続きと電子技術監督庁の認可を受けることができ、そして初めて人体に直接入力専用のインプラント・デバイスの埋め込むことができます」
「なるほど、出入力には限界があるってことやな」
「そうです。WoWのサーバーからの視覚、聴覚、触覚の情報をインプラント・デバイスを介して我々の脳に信号として送信し、我々の脳からは口をこう動かします、腕を曲げますといった情報しか送信されないわけです」
「これと今回の件はどう関係してくるんや」
「ここで問題となるのは、仮想現実上で意識的に現実の腕を動かそうとした場合です。このような場合、現実の身体と仮想上の身体に差異が生じ、その認識上のズレから同期不順が起こることでまるで金縛りにあったかのような現象が発生します。この現象は、大半のユーザーは仮想現実上で実際の身体を意識することはないので、あまり知られていません」
イヴァンとスラヴァの眉間に皺が寄るのを片目にピランデッロは説明を続ける。
「これは身体の不思議というべきなのでしょうか、現代科学でも解明できていないことなので理由ははっきりとしませんが、この同期不順が生じると仮想現実の身体への出力よりも現実の身体への出力が優先され始めます。これを回帰現象と呼称しています。科学者の中には肉体が魂を呼んでいるという輩もいますが、まあ、科学で説明できないことを認めずにオカルトで説明しようとしたら科学者失格ですがね」
「じゃあ、その同期不順を起こせば、WoWからログアウトできるってことっすね」
「厳密にはログアウトはできません。同期不順が起こっても疑似入力は継続されるので、目の前の光景は変わりません。ですが、現実の身体が動かせるようになるので、手探りでインプラント・デバイスからコネクターを外してください。それがセーフティになっているので、コネクターを外せば、強制的にWoWとの接続が切れます」
「ああー、安心したっす。もう一生ログアウトできないかと不安で不安で」
「まあ、ログアウトできないという事象が発生すること自体が考えられません。万が一にインプラント・デバイスの疑似出力不良だとしても、ログアウトの出力だけできないことや3人同時にインプラント・デバイスが壊れるなんてありえないことです」
「ログアウトだけじゃなくてGMCALLもつかえないんっすねよねえ」
「詳しくは分かりませんが、WoWのサーバー側に不調があるのかもしれません。大事にならなければ良いのですが……」
*1戦車の車体、フレーム