序章⑧
ピランデッロがいる『開発局』に着くまでイヴァンもスラヴァも互いに沈黙を保ったままだった。ヴァーチャルが現実になる、そんな突拍子もない思い付きは、イヴァンの頭にこびり付いて離れずにいた。仮想現実に取り込まれるなど、本来であれば一笑に付すべき妄想だが、これまでの不可解な事象に対してこれほど上手く説明できるものは他にないように感じられた。窓外に見える光景には、これまでプレイしてきたWoWのとはかけ離れた日常のワンシーンがあった。労働者の一団は昼休みなのか開放的な笑顔を浮かべており、スーツを着込んだ男性はまるで商談に遅れるかのごとく小走りで急いでいた。白黒の記録フィルムに残されるべき一場面が鮮やかな色彩を帯びて窓外を流れていく。
『開発局』はレンガ造りで歴史を感じさせる外観をしていた。WoWにおいて、『開発局』は陸上兵器から航空機などの研究、開発を行う機関である。施設レベルにより雇えるAI研究員の上限が決まっており、それに伴い『開発局』の見た目も変化する。建設に必要な膨大な資材や広大な土地、天井知らずな維持費の確保ができる大手クランは、何千人もの研究員を雇うことができる『開発局』や専門の『研究所』を幾つも保有しているが、「第109親衛空挺師団」の『開発局』はこの一つしかない。そして、「第109親衛空挺師団」唯一の『開発局』である第109開発局のレンガ造りの外壁には蔦が這って、どこか淋しげな雰囲気を醸し出し、「第109開発局」との門札がなければ亡霊が住まう古びた洋館かと見紛うほどであった。
「いつ来ても寂れた場所やなあ……」
門の前に立ったイヴァンが呟く。
「僕たちのクランじゃピランデッロさん以外に誰も利用しないすっもんね」
「必要な銃や機材の設計図は他のクランから購入や任務報酬として譲渡して貰えるので、わざわざ『開発局』のlvlを上げる必要はないですからね。空挺に特化したクランだからこそだとは思いますが」
「普通のクランやったら、戦車、自走砲、対空ミサイルやなんやら一式全部必要やから、『造兵廠』、『工厰』、『開発局』なんかで常に研究しとかんと研究ツリーが全く進まんからなあ」
「諜報活動で青写真を奪取するとか鹵獲してリバース・エンジニアリングとかである程度研究を進められるので、研究施設のlvlが低い小規模クランでも最新鋭でなければ、運用できるみたいですよ」
「諜報活動の対象になる『開発局』には警備員すらおらんとは……。どないなっとるんや……」
イヴァンが嘆かわしいとばかりに首を横にふる。
「多砲塔戦車や空挺戦車のピーキーな設計図なんて何処のクランも欲しがりませんからね。それにここに保管されている火器のデータは小クランでも持っていますよ。航空機に関しては、航空基地に併設されている『設計局』で行っているので、ここに研究資料はありませんので」
カルシウムがイヴァンに同意するようにため息まじりに蔦に埋もれた『開発局』を見上げる。
「ちなみにそこの警備は?」
「24時間警戒態勢、安心のケアサポート付きです」
「安心やな」
「お二人とも、まだっすか」
イヴァンとカルシウムを尻目に木製の扉を押し開け、スラヴァは『開発局』の中に入っていった。
「行きますか」
「やな」
スラヴァの後を追って、イヴァンとカルシウムもピランデッロと会うべく『開発局』に入った。