4:想起(A面)
「俊くん、あのね、わたし…―」。」
彼女の感情が驚きと喜びで満ちているなら、俺の心にあったのは驚きと当惑と恐怖だったろう。その一言だけで、俺たちにはそのぐらいの感情差はあった。
もう一つ違いを挙げるならば、彼女は、俺と赤ちゃんとで3人家族をつくって、『多少』の苦労をしながらも幸せに暮らしていく、という夢色の未来を描いていたのに対し、俺はいささか現実的な問題(たとえば、学校をどうするのか・中卒で仕事はあるのか・お金はどうする・親にはなんていうなど)に頭を抱え、そんなに楽天的にはなれなかった。
第一、苦労が『多少』ですむはずなんかない。
俺はミチルを説得しようとした。今の俺たちでは育てられない。だから・・・
けれど、そんなに簡単に説得される様な彼女ではなかった。
「俊君にその気がなくても、私が育てる!」
はいそうですか、なんて言えるわけがない。
迷惑をかけたくないなんて場合じゃなく、俺は両親に何もかも話し、ミチルの両親と話し合いをすることになった。父と母は土下座して謝罪した。もちろん俺も精一杯謝った。ミチルの両親も出産には反対だった。
どうしても、産みたいと訴えるミチル。時折、涙に濡れた真っ黒な目で訴えかけるように俺を見た。すがりつくような、祈るような、そして怒りのこもった目・・・。今までに見たことのない表情。こんな彼女は知らない!
怖い、気味が悪い、こんなことを思ってはいけないけれど…怖い!怖い!!
「・・・とりあえず、わかった・・・。」
長い話し合いの末、ミチルはようやく同意した。人の噂にならないように、ミチルのお母さんの実家がある都市へ移って、そこで手術をすることになった。
「人殺し。」
ミチルの家を出るときに、彼女から言われた言葉。暗く黒い目。
少しの好意も感じず、ただただ憎悪で充ち満ちているその表情・・・。あんなに好きだったはずなのに、ずっと一緒にいてもいいなと願ったはずなのに、そのミチルが・・・。
一週間ほどで戻ると思っていた。けれど、ミチルはもう学校には現れなかった。
ミチルの友達に、学校に来ない理由の心当たりや、最近連絡をとっているか・高校はどうするか言ってたかなど、なにかにつけて色々聞かれた。
受験・卒業と忙しい時期だったから乗り切れたものの、それでも問われるたびに、聞かれるたびに、やりきれない自己嫌悪と懐疑心に押しつぶされそうだった。
本当は、知っているんじゃないか?何が起きたのかを?
そうして影で噂しているんじゃないか?みんなで笑っているんだろう?
俺は、ミチルを見捨てたんだと、人殺しだと、自分の将来が変わるのが怖くて堕ろすのを強制した自己中だと。
誰も彼もが、俺を責める。
後から思い返すと、俺は過剰なほどの被害妄想に陥っていた。しばらく、人が笑っているのを見るだけでも、身に応える思いをしたものだ。
あのミチルの眼差しはしばらく心に焼き付いたままだった。あの声も、表情も。中学・高校生あたりの年代が苦手になったのも、きっとこの頃からだっただろう。
長い長い時間をかけて、過去として、ようやく思えるようになったのに。
ミチルのことも、あの暗い目も、ようやく忘れることができたのに。
昨日、ミチルの実家で会った少年は『俺の子ども』だった。
過去どころか・・・!現在進行形じゃないか!
あげくの果てに、死んでいるって?15年前に、子どもを産んでから死んでいる?!
間接的に俺が殺したようなものなのか?そもそも付き合わなければ、ミチルはこんなことにはならなかったのか?ミチルの母さんは、子どものことは忘れろと言った。けど、忘れられるか?どうして、どうして、どうして・・・俺はどうすりゃいい?どうすれはお前の気の済むようにできる?
うしろから首に手をかけられた気がして、俺は身震い一つで我に返った。
家に帰ってきてからずっと壁を背に座り込んでいたから、腰を上げるのにも緩慢さが残ってスムーズに動けない。喉が渇いた。ようやく流しで水を飲むと、ソファーの上に投げ出した携帯が鳴っている。
無視するかしないか迷ったが、どうせ他にすることもないので通話ボタンを押した。
「ああ、沙紀か・・・悪い。今、話せる気分じゃないんだ。」
「さっき、この前のね、女の子に会ったよ。」
いつもの明るいトーンではない。何か言われたのだろう。
「・・・そう。」
もはや、驚きも恐怖も感じなかった。
やっぱり、というか、追い込んできたなというか、そんな投げやりな感情。
そもそも、少女は何者なのだろう?少年の姉ってことはありえないだろうし、妹という線も無理だ。産んですぐ死んだっていってたからな。
・・・ミチルの怨念なのかもしれない。今思えば、あの目なんかそっくりだ。
これから先も、ずっと俺にまとわりついてくるのだろう。過去は変えられない。また、こうなった以上、思いもよらないトラブルが起きないとも限らない。
彼女の怨念は、今は周囲に「子ども」のことを触れ回っているだけですんでいるけれど、さらなる危害を加えないなどとどうしていえよう?俺が原因だから、それは甘んじて受けよう。おそらく奴は俺が死ぬまでついてくる。
けれど・・・けれど沙紀だけは、巻き込みたくはない。
「・・・あのさ、別れよう。」
掠れた声で呟くように切り出した。最善なんだ、これが。
「どうして?」
「沙紀には、もっと、良い奴がいるよ。」
過去になにもやらかしてなくて、もっと誠実で、もっと責任感のある奴が。
「あの子が言ったこと?それが原因?・・・まず、先にちゃんと話して。どういう経緯なのか?」
俺は、話した。
ミチルのこと、妊娠したこと、堕ろすことになり別の土地へ行ってしまったこと、それ以来会っていなかったこと。
そうして、昨日分かった・・・子どもが存在していて、ミチルが死亡していたこと・・・。
「ごめん。」
ここまで一気に話して、口を閉じた。そうして、彼女の返事を待つ。
「・・・。今の俊が謝ることで無いと思う。」
「・・・。」
長い、長い沈黙。
・・・と、沙紀が空気を変えるように軽く声を出した。
「ね、次の土曜、映画行く約束してたじゃない?返事、その時でいい?急ぐ話でもないからいいよね?」
「・・・ああ。」
それじゃぁ、と言って電話は切れた。
再び部屋に静寂が訪れる。何も物音はしない。何も動かない。
もう、何もしたくない、面倒だ。どうにでもなれ。