「お前は本当の娘ではない!」と追い出されましたが、お父様こそ三年前に養子に来ましたよね?
「エレオノーラ! お前を今日限りで勘当する!」
夕食の席で、父が高らかに宣言した。
私はスープを飲む手を止めた。
「……はい?」
「聞こえなかったのか! 勘当だ! この家から出ていけ!」
父は胸を張っていた。
大変立派な胸の張り方だった。まるで戦争に勝利した将軍のようである。
ただし、この人が勝利した戦争というものを、私はまだ一度も見たことがない。
「お父様。一つ確認してもよろしいでしょうか」
「なんだ!」
「どちらのお家から、私を勘当なさるのでしょう?」
「決まっている! このヴァレンシュタイン侯爵家からだ!」
「なるほど」
私は頷いた。
「ですが、お父様」
「なんだ!」
「こちら、母方の侯爵家ですよね?」
「…………」
父の口が開いた。
閉じた。
また開いた。
「それがどうした!」
「いえ。お父様は三年前、我が家に養子としていらっしゃったのでは?」
「だからなんだ!」
「ですから、私を勘当する権限はお持ちなのでしょうか?」
「あるに決まっている! 私はお前の父親だぞ!」
「養父ですけれど」
「父親は父親だ!」
「はい。それはもちろん」
私はスープを一口飲んだ。
今日のかぼちゃのポタージュは実に美味しい。
「ですが、現在のヴァレンシュタイン侯爵家当主は、お祖母様ですよね?」
「…………」
「そして、お父様は当主ではありませんよね?」
「…………」
「それから、私が侯爵家の次期当主であることも、お忘れではありませんよね?」
父は真っ赤になった。
「屁理屈を言うなああああ!」
大広間に怒声が響いた。
私はそっとスープ皿を遠ざけた。
唾が飛ぶからである。
ちなみに、これが私の父である。
正確には三年前、母が再婚したことで、我が家に養子として迎えられた男性だ。
名前はギルベルト・ヴァレンシュタイン。
旧姓はバルツ。
元男爵家の三男である。
容姿はそれなりに整っている。
声は大きい。
態度も大きい。
ただし、知能については少々残念なところがある。
母は何を思ってこの人と再婚したのだろう。
いまだに謎である。
もっとも、母は昨年亡くなってしまったので、確認することもできない。
「エレオノーラ!」
「はい」
「お前は私を侮辱した!」
「事実を申し上げただけですが」
「口答えするな!」
「では黙ります」
「そういうところが生意気なのだ!」
どうしろというのだろう。
私はパンをちぎった。
父の隣では、義妹のマリアンヌが涙ぐんでいる。
この少女も、父と一緒に三年前にやってきた。
「お姉様……お願いです。お父様に謝ってください」
「何を?」
「お父様を傷つけたことです」
「そうね。では、お父様」
「ふん!」
「申し訳ございません。お父様が養子でいらっしゃることを、うっかり口にしてしまいました」
「そういう謝罪ではない!」
難しい。
実に難しい。
私は十七年間生きてきたが、これほど正解のわからない問題に出会ったことがない。
ところで。
「お父様。そもそも、どうして突然、私を勘当なさるのですか?」
父は待っていましたとばかりに立ち上がった。
「よくぞ聞いた!」
聞かなければよかった。
「お前はマリアンヌをいじめた!」
「まあ」
「マリアンヌのドレスを奪い、宝石を取り上げ、使用人たちに冷たく扱わせたそうではないか!」
私は義妹を見た。
マリアンヌは俯いている。
「……お姉様が、私を嫌っていらっしゃるのは知っています。でも、私だって、この家の娘なのに……」
「かわいそうなマリアンヌ!」
父が義妹を抱きしめた。
「安心しろ! この父が必ずお前を守ってやる!」
「お父様……!」
感動的な場面だった。
ただし、一つ問題がある。
「マリアンヌ」
「……はい」
「あなたのドレスを奪ったというのは、先月注文した青いドレスのこと?」
「そうです! お姉様が取り上げたんです!」
「それは残念だったわね」
「えっ」
「でも、あれは私が注文したドレスよ」
「…………」
「採寸も私の寸法だし、支払いも私の個人口座からしているわ」
「で、でも! 私はあのドレスが欲しかったんです!」
「そう」
「だからお姉様が譲ってくださっても……!」
「あなた、私より胸囲が十センチ大きいでしょう?」
「なっ!」
「着られないわよ」
マリアンヌの顔が赤くなった。
「ひ、ひどい! 体型のことまで!」
「事実でしょう」
「エレオノーラ!」
父が怒鳴った。
「妹にドレスの一着くらい譲ってやれ!」
「わかりました。では、お父様がお代をお支払いください」
「なぜ私が!」
「マリアンヌのドレスですから」
「お前は姉だろう!」
「お父様は父親でしょう?」
「ぐっ……!」
父は詰まった。
私はにっこり笑った。
「それで、宝石を取り上げたというのは?」
マリアンヌが涙を拭いた。
「お母様の形見の、真珠の首飾りです……」
「ああ」
私は納得した。
「それは私の実母の形見ね」
「私だってお母様の娘です!」
「母が亡くなる二年前に、あなたはこの家に来たのよね」
「そうです!」
「母が私に遺した品なのだけれど」
「お姉様ばかりずるいです!」
ずるい。
なるほど。
最近の貴族令嬢は、相続をそういう言葉で片づけるらしい。
「お父様」
「なんだ!」
「マリアンヌは、お父様の亡き前妻様の形見をお持ちでしょう?」
「当然だ!」
「では、それを私にください」
「なぜだ!」
「姉妹ですもの。妹だけが母親の形見を持っているなんて、ずるいでしょう?」
「そんな理屈が通るか!」
「ええ。私もそう思います」
「…………」
父は黙った。
マリアンヌも黙った。
私はスープを飲み干した。
美味しかった。
◇
それでも父は諦めなかった。
「とにかく! お前のような冷酷な娘に、この侯爵家を継がせるわけにはいかん!」
「お祖母様がお決めになることです」
「私が決める!」
「お祖母様がお決めになります」
「私が!」
「お祖母様が」
「うるさあああい!」
父は拳を振り上げた。
私は椅子を少し引いた。
「では、お祖母様にお伺いしましょうか」
「必要ない!」
「そうですか?」
「私はこの家の主人だ! 私の決定が絶対なのだ!」
私は執事に目を向けた。
「セバスチャン」
「はい、お嬢様」
「お祖母様をお呼びして」
「かしこまりました」
「呼ぶな!」
父が叫んだ。
しかしセバスチャンは、すでに扉を開けていた。
そして。
「呼ばれるまでもないわ」
凛とした声が響いた。
祖母、ヴィクトリア・ヴァレンシュタイン侯爵が姿を現した。
七十二歳。
銀髪を美しく結い上げ、黒いドレスをまとった老婦人。
王国でも指折りの資産家であり、三十年以上にわたって侯爵家を切り盛りしてきた女傑である。
祖母はゆっくりと父を見た。
「ギルベルト」
「お、お義母様!」
「今、何とおっしゃったの?」
「い、いえ、その……」
「この家の主人は誰ですって?」
「…………」
祖母が微笑んだ。
「もう一度、おっしゃって?」
父は汗をかき始めた。
「わ、私は、その……」
「あなたが?」
「……この家の……」
「ええ」
「……主人……」
祖母は頷いた。
「そう」
そしてセバスチャンに告げた。
「この方、いつから侯爵になったのかしら?」
「存じ上げません、奥様」
「私も知らないわ」
「誠に不思議でございます」
「そうねえ。私が生きている間に、知らない侯爵が増えてしまったようだわ」
父は青くなった。
「ち、違うのです! これは言葉のあやで!」
「言葉のあや?」
「私は、その、エレオノーラの教育について!」
「教育?」
「そうです! この娘は傲慢で、妹をいじめ、私に逆らい……!」
「だから?」
「勘当しようと!」
祖母はしばらく黙っていた。
それから、首を傾げた。
「誰を?」
「エレオノーラをです!」
「誰が?」
「私が!」
「どこの家から?」
「この侯爵家から!」
「……ギルベルト」
「はい!」
「あなた、何か悪いものでも召し上がったの?」
私は思わず吹き出しかけた。
祖母は真顔だった。
「エレオノーラは私の孫で、この家の正式な後継者よ。あなたには、その地位を取り消す権限はないわ」
「し、しかし私は父親で!」
「養父ね」
「父親です!」
「養子ね」
「ですから!」
「あなたがこの家に来たのは三年前でしょう?」
「はい!」
「エレオノーラが生まれたのは十七年前よ」
「はい!」
「どちらが先にこの家にいたのかしら?」
「…………」
父は沈黙した。
祖母はため息をついた。
「まったく。あなたが来てからというもの、家の中が騒がしくて仕方ないわ」
「お義母様……!」
「娘が生きていた頃は、まだ多少の遠慮があったようだけれど」
祖母の声が冷えた。
「最近は、エレオノーラの財産にまで手を出そうとしているそうね」
父の顔色が変わった。
私は目を瞬いた。
「……財産?」
「知らなかったの?」
祖母が私を見た。
「あなたの母親が遺した別荘を、ギルベルトが売却しようとしていたのよ」
「まあ」
「しかも、その代金でマリアンヌの結婚持参金を用意するつもりだったそうよ」
私は義妹を見た。
マリアンヌは目を逸らした。
なるほど。
ドレス。
宝石。
そして別荘。
どうやら、単なるわがままでは済まない話になってきたらしい。
「お父様」
「な、なんだ」
「私の別荘を売るおつもりだったのですか?」
「そ、それは……家族のために……」
「誰の?」
「マリアンヌの!」
「私も家族ですよね?」
「もちろんだ!」
「では、どうして私の財産だけが減るのでしょう?」
「お前は侯爵家を継ぐのだから、十分裕福になるだろう!」
私は思わず感心した。
すごい。
この人は本当に、何も考えていない。
「つまり、私が将来裕福になるから、今の財産を妹に渡せと?」
「そうだ!」
「なるほど」
私は微笑んだ。
「では、お父様も将来裕福になるかもしれませんから、今ある財産を全部私にください」
「なぜそうなる!」
「同じ理屈ですけれど」
「違う!」
「どこが?」
「とにかく違うのだ!」
便利な言葉である。
とにかく違う。
私も今度使ってみよう。
祖母が手を叩いた。
「はい、そこまで」
室内が静まり返る。
「ギルベルト。あなたには、以前からお伝えしていたわね」
「……何をでしょう」
「この家の財産に、勝手に手を出してはいけないと」
「……はい」
「エレオノーラを尊重するようにと」
「……はい」
「マリアンヌを甘やかしすぎないようにと」
「……はい」
「そして何より」
祖母はにっこり笑った。
「私の家で、私の許可なく主人を名乗らないようにと」
「…………」
父は小さくなった。
大きな体が、まるで干からびたキノコのようである。
だが。
ここで終わるような父ではなかった。
「お義母様!」
突然、父が顔を上げた。
「私はこの家のために尽くしてきたのです!」
「そう?」
「三年間! この侯爵家を支えてきた!」
祖母は考え込んだ。
「何をしてくださったのかしら?」
「そ、それは……」
「帳簿をつけた?」
「いいえ!」
「領地を視察した?」
「いいえ!」
「商会との交渉を?」
「いいえ!」
「では、何を?」
父は胸を張った。
「毎日、家におりました!」
沈黙。
私は目を閉じた。
セバスチャンが咳払いした。
祖母はしばらく父を見つめた。
「……そう」
「はい!」
「それは、ずいぶん大変だったでしょうね」
「おわかりいただけますか!」
「ええ」
祖母は頷いた。
「では、これからは無理にこの家にいなくてもよいわ」
「…………え?」
◇
翌朝。
父の荷物がまとめられていた。
「な、なんだこれは!」
玄関ホールに、父の怒声が響いた。
セバスチャンが恭しく頭を下げる。
「お荷物でございます」
「見ればわかる!」
「それは何よりでございます」
「なぜ私の荷物がここにある!」
「奥様のご指示です」
「お義母様の!?」
「はい」
私は階段を降りながら、父に挨拶した。
「おはようございます、お父様」
「エレオノーラ! これはどういうことだ!」
「お引っ越しでしょうか?」
「私が聞いている!」
そこへ祖母が現れた。
「ギルベルト。おはよう」
「お義母様! これは一体!」
「昨日、決めたでしょう?」
「何をですか!」
「あなたを、この家から出すことにしたの」
「なっ……!」
父は口をぱくぱくさせた。
「わ、私を勘当するというのですか!」
祖母は首を傾げた。
「ええ。正確には、あなたとの養子縁組を解消する手続きを進めるわ。正式に成立するまでは家名も身分も変わらないけれど、もうこの屋敷には住まなくて結構よ」
「そ、そんな!」
「生活に困らないよう、当面の宿も用意してあるわ」
「私はこの家の父親ですよ!」
「父親だから何?」
「娘を教育する権利が!」
「その娘を、昨日、追い出そうとしていたわね」
「それは教育の一環で!」
「そう」
祖母は微笑んだ。
「では、これも教育の一環よ」
父は絶句した。
私は思わず祖母を見た。
なんという説得力だろう。
同じ言葉なのに、祖母が使うとまったく別の威力を持つ。
「お、お義母様!」
「何?」
「私はここに住み続けたいのです!」
「どうして?」
「ここは私の家ですから!」
祖母は静かに尋ねた。
「……ギルベルト」
「はい!」
「あなたの家は、どこにあるの?」
「ここです!」
「誰の名義?」
「…………」
「誰の土地?」
「…………」
「誰の屋敷?」
「…………」
父はとうとう膝をついた。
「お義母様あああ!」
泣いた。
五十歳近い男性が、玄関ホールで大声を上げて泣き始めた。
私は初めて見た。
「私を捨てないでくださああい!」
祖母は冷静だった。
「捨てるも何も、あなたは荷物ではないでしょう」
「うわああああ!」
そこへ、マリアンヌが駆け込んできた。
「お父様! どうなさったの!?」
「マリアンヌ! 私たちは追い出されるのだ!」
「ええっ!?」
マリアンヌが私を睨んだ。
「お姉様! ひどいです!」
「そう?」
「お父様を追い出すなんて!」
「決めたのはお祖母様よ」
「でも、お姉様が告げ口したのでしょう!」
「私は昨日、スープを飲んでいただけだけれど」
「スープなんてどうでもいいです!」
私は少し傷ついた。
あんなに美味しいスープだったのに。
「お姉様は冷たいです! 家族なのに!」
「そうね」
私は頷いた。
「では、マリアンヌ」
「なんですか!」
「あなたが欲しがっていた青いドレス、差し上げるわ」
「……え?」
「それから、母の真珠の首飾りも」
マリアンヌの顔がぱっと明るくなった。
「ほ、本当ですか!?」
「ええ」
「お姉様……!」
「ただし、一つお願いがあるの」
「なんでしょう!」
「お父様のこと、よろしくね」
「…………え?」
「あなたはお父様が大好きなのでしょう?」
「そ、それはもちろん……」
「よかった。なら、これからも一緒に暮らしてあげて」
マリアンヌの笑顔が消えた。
「……一緒に?」
「ええ。お父様のお世話をしてあげてね」
「でも……」
「どうしたの?」
「私……この家に残りたいです……」
父が顔を上げた。
「マリアンヌ!?」
「だ、だって! 私には婚約者がいるんです! 伯爵家のご子息と!」
「私より婚約者を選ぶのか!?」
「そういうわけでは……!」
「お父様を捨てるのか!?」
「お父様だって、昨日お姉様を捨てようとしたじゃないですか!」
言った。
とうとう言った。
私は思わず拍手しそうになった。
父が愕然とする。
「マリアンヌ……!」
「それに、お父様が家を出たら、私の結婚持参金はどうなるんですか!?」
「そ、それは……」
「別荘を売るって約束したじゃないですか!」
祖母が目を細めた。
「まあ。やはり知っていたのね」
マリアンヌが固まった。
あ。
これはまずい。
非常にまずい。
「マリアンヌ」
祖母が静かに呼んだ。
「あなたにも、少しお話があるわ」
◇
結局、マリアンヌの結婚話は白紙になった。
正確には、伯爵家から先に辞退の申し出があった。
どうやらマリアンヌは、自分が侯爵家の正式な後継者になると婚約者に説明していたらしい。
しかも、持参金として別荘一つと金貨五千枚を約束していたという。
そんな話は誰も承認していない。
伯爵家からすれば、当然の辞退だった。
「お姉様のせいです!」
マリアンヌは三日間泣き続けた。
私は三日間、かぼちゃのポタージュを飲んだ。
美味しかった。
四日目、マリアンヌは父とともに屋敷を出ていった。
父の実家であるバルツ男爵家が、二人を引き取ることになったのである。
もっとも、父の兄である現男爵は相当怒っているらしい。
父は三年前、侯爵家の婿になると決まった際、実家に向かってこう宣言したそうだ。
『これからは私の方が身分が上になる! お前たちとは格が違うのだ!』
それ以来、ほとんど実家に顔を出していなかった。
そして今。
その実家に戻るのである。
私は少しだけ同情した。
少しだけ。
◇
一週間後。
私は祖母と庭園でお茶を飲んでいた。
「静かになったわねえ」
祖母がしみじみと言った。
「ええ、本当に」
小鳥が鳴いている。
噴水の音が心地よい。
怒鳴り声が聞こえない朝というのは、こんなにも素晴らしいものだったのか。
「ところで、エレオノーラ」
「はい、お祖母様」
「あなたの婚約の件だけれど」
「……婚約?」
「ええ。そろそろ正式に考えてもいい頃でしょう」
私は首を傾げた。
「お相手は?」
「あなたの幼馴染の、アルベルト・ローゼンベルクよ」
思わず紅茶を吹き出しかけた。
アルベルト。
王国でも有数の名門、ローゼンベルク公爵家の次男。
王立騎士団に所属する青年で、幼い頃から私の友人だった。
容姿端麗。
成績優秀。
礼儀正しく、誠実。
ただし。
私に対してだけ、少々おかしなところがある。
「……アルベルトが?」
「ええ。もう三年も前から、あなたとの婚約を申し込んでいるのよ」
「三年!?」
「そうよ」
「初耳です!」
「ギルベルトが全部断っていたから」
「…………」
私は額を押さえた。
また父か。
祖母は肩をすくめた。
「自分の知り合いの息子と結婚させたかったようね。もちろん、正式な婚約の申し込みを拒否する権限なんてなかったのだけれど」
「……そうですか」
「アルベルトには事情を説明しておいたわ」
「それで?」
「明日、改めて求婚に来るそうよ」
私は黙った。
アルベルト。
あのアルベルトが。
私に。
求婚?
思い出したのは、去年の冬だった。
雪の降る庭園で、彼は私の手を取って言った。
『エレオノーラ。君はいつまで、あの男を父親と呼ぶつもりだ?』
『お父様ですもの』
『君の母上が亡くなってから、ずいぶん勝手なことをしていると聞いた』
『まあ、少しだけ』
『少し?』
『少しだけ、ね』
彼はひどく嫌そうな顔をした。
『……君は、もう少し怒っていい』
『怒っているわよ』
『そうは見えない』
『だって、怒るとお腹が空くでしょう?』
彼は笑った。
それから、私の手を握り直した。
『なら、俺が君の分まで怒る。君は好きなものを食べていればいい』
あのとき。
私は、少しだけ胸が高鳴ったのだった。
「……お祖母様」
「何?」
「明日のお茶菓子は、何にしましょう?」
祖母は微笑んだ。
「あなたの好きなものになさい」
私は考えた。
「では、かぼちゃのタルトを」
「本当に好きねえ」
「はい」
私は笑った。
翌日。
アルベルトは大きな花束を抱えて現れた。
そして私の前に跪き、真剣な顔で言った。
「エレオノーラ。君を妻に迎えたい」
「……アルベルト」
「三年待った」
「ええ」
「もう、あの男に邪魔はさせない」
「ええ」
「君が望むなら、公爵家の屋敷でも、君の侯爵家でも構わない。俺は君と一緒に暮らしたい」
私は微笑んだ。
「一つ、条件があります」
「なんだ?」
「私の家に婿養子に来ていただけますか?」
「もちろんだ」
「それから」
「何でも言ってくれ」
「絶対に、私を勘当しないでくださいね?」
アルベルトは目を瞬いた。
それから。
腹を抱えて笑い始めた。
「ははははっ! 君は本当に……!」
「笑い事ではありません」
「いや、すまない。だが、安心してくれ」
彼は私の手を取り、指先に口づけた。
「俺は君を追い出すくらいなら、自分が出ていく」
「……まあ」
「もっとも、君が一緒に来てくれるなら、どこへでも行くが」
私は顔が熱くなるのを感じた。
ずるい。
こんなことを真顔で言うなんて。
「……では、まずはお茶にしましょう」
「ああ」
「今日はかぼちゃのタルトです」
「君の好物だな」
「ええ」
私は彼の手を握り返した。
ようやく。
ようやく、我が家に平和が訪れたのだ。
◇
なお、その一か月後。
父から手紙が届いた。
『エレオノーラへ。
お前もそろそろ反省した頃だろう。
私が戻ることを許してやってもよい。
ただし、今後は私を正式な侯爵家当主として扱うこと。
それから、マリアンヌの結婚持参金を用意すること。
以上を条件に、私は帰宅してやろう。』
私は読み終えて、しばらく考えた。
そして返事を書いた。
『お父様へ。
大変申し訳ございません。
お父様のお帰りになる家が、どちらなのかわかりません。
ヴァレンシュタイン侯爵家でしたら、こちらはお祖母様のお家です。
バルツ男爵家でしたら、お兄様のお家です。
ご自分のお家が見つかりましたら、どうぞお知らせください。
エレオノーラ』
返事は来なかった。
代わりに、バルツ男爵から手紙が届いた。
『愚弟に鏡を贈ってやってくれないか。自分が何者なのか、まだわかっていないらしい』
私は笑ってしまった。
そして、アルベルトに相談した。
「鏡を贈った方がいいかしら?」
「いや」
彼は真顔で言った。
「鏡がかわいそうだ」
私はとうとう声を上げて笑った。
お父様。
どうか、お元気で。
そして、いつか。
ご自分が誰なのか、思い出せますように。
もっとも。
それまでは、どうか我が家に帰ってこないでくださいませ。
〈完〉




