第3話 勢が臨界を越える
開店前のカフェ。
朝の光が、ガラス越しに差し込んでいた。
秋斗が慌てて店の中に駆け込み、カウンターに入る。
「すみません、遅れました」
背後から即座に声が飛んでくる。
「……寝癖」
優風がじっと秋斗の頭を見つめて言った。
「えっ……そんなにひどいですか?」
「ひどい。勢いゼロ、今日の戦犯確定」
手櫛で寝癖を押さえるが、すぐに元に戻る。
「もう、全然できてない」
秋斗が、髪を撫でつけながら、優風の表情をうかがう。
なかなか決まらない秋斗を見て、しびれを切らしたのか……
「もう、私がやってあげる。そこに座って」
鏡の前の秋斗の髪に、優風の手が伸びる。
――距離が、近い。
秋斗は一瞬、息を止めた。
(やば、ち、近……)
優風はポーチからヘアミストを取り出し、髪に吹きかける。
優風の手が、髪に触れる。
わずかに香る、柑橘系のヘアミストの匂い。
集中している彼女の、小さな吐息が首筋に当たる。
秋斗は石のように固まった。
「素材は悪くないんだから、ちゃんとすれば……ね」
秋斗は、黙って鏡の中の自分を見つめていた。
***
「まあ、こんなもんかな」
秋斗のシャツのシワを伸ばし、姿勢まで軽く矯正する。
「勢いは見た目から作るんだよ」
「そんなんで変わるもんですかね……」
秋斗が弱気に言うと、優風は秋斗の襟元を整えながら微笑む。
「変わるよ。ほら、この前も流れが変わったでしょ?」
「よし。これで“爽やか店員”の席に配置完了」
鏡に映る自分は、昨日までと何が違うのか分からない。
「……これで、何が変わるんだ?」
半信半疑のまま、開店時間を迎えた。
***
バイト中。
常連の大学生グループが、ちらちらとこちらを見てくる。
(え、俺なんかした?)
首をかしげる秋斗の姿が、逆に注目を集めていた。
「ちょっ、かわいいかも……」
気まずさを覚えながら注文を取っていると、
そのうちの一人が、「あの、写真いいですか」と何気なくスマホを構えた。
「いいよ」
秋斗が答える間もなく、優風が即答。
カシャッ。
「……?」
秋斗は、戸惑いを隠せないままカウンターに戻る。
***
週末。
店の様子が、明らかにおかしかった。
若い女性客が増えている。
しかも、秋斗の方を見て、ざわざわしている。
「……あの人だよね?」
「写真の……」
小声が聞こえる。
秋斗は意味が分からず、固まる。
すると、優風がスマホを差し出してきた。
「これ、学内のグループチャットで回ってるらしい」
画面には、自分の写真。
「え、俺……?」
マスターが状況を察したように言う。
「今日はお前、前線な」
接客の中心。
秋斗の心拍数が一気に上がる。
それでも、動いた。
一歩早く。
遅れないように。
必死だった。
優風は裏から全体を見渡し、
必要なところだけ、的確にフォローを入れる。
***
さらに、追い風。
『カフェ・アンジェリアの爽やか店員、対応神だった』
そんなコメントと一緒に、秋斗の写真が再び上がる。
いいねの数が、伸びていく。
「ほらね」
優風がニヤリとする。
「勢いって、こういう“外からの流れ”も味方にするの」
***
数日後、明らかに、秋斗目当ての客も現れる。
「名前、聞いていいですか?」
「いつシフト入ってます?」
秋斗は完全に挙動不審だった。
返事が噛む。
トレーを落としそうになる。
「ほら」
優風が横から小声で言う。
「勢いに乗りなって」
「今は“できる店員”の席なんだから」
「……俺、こういうの慣れてなくて」
本音が漏れる。
***
休憩中。
優風が冗談めかして言った。
「すごい人気だね」
「そ、そんなわけないです!」
「いんじゃない、今は“流れに乗る練習期間”ってことで」
「はあ」
「でもね……」
優風の表情が少しだけ真面目になる。
「『激水の疾くして、石を漂わすに至る者は勢なり』
――激流が速すぎるとき、重い石も押し流してしまう」
「それって?」
「勢には乗ってもいいけど、流されたら終わり。
これこそが『勢』の怖いところであり、面白いところよ」
すぐに、いつもの調子に戻る。
秋斗の胸が、少しだけ高鳴った。
***
閉店後。
立ちっぱなしで足は重い。
でも、不思議と気分は悪くなかった。
「今日……ちゃんと役に立てた」
そう思えた。
以前なら、
麻美にフラれた自分には価値がないと、
決めつけていた。
でも今日は違う。
「自分の動きで、流れが変わった」
そう思えた。
勢いとは、
自分が押し上げられる感覚なのだと、少し分かった。
マスターが素っ気なく言う。
「お前、今日よく回してたな」
優風が満足そうに頷く。
「ほら、臨界突破」
秋斗は照れながら言った。
「……少しだけ、自分のこと、嫌いじゃなくなりました」
優風は笑う。
「それが一番大事。
勢いは、心が折れたら消えるから」
鏡に映る自分を眺める。
見た目は変わったけれど、
中身の自信はまだ追いついていない。
それでも、この勢いの先を見てみたいと思った。




