第2話 小さな一歩
次の日のバイト。
秋斗は、自分でも分かるほど覇気がなかった。
「……はい」
返事が小さい。
一拍遅れる。
気づけば「すみません」が口癖になっている。
まるで全身から、
“失恋した可哀想な人”オーラを放っていた。
カウンター越しに、それを見ていたマスターが苦笑する。
「秋斗くんさ、今日、魂どっかに置いてきた?」
「……すみません」
反射的に謝ってから、秋斗はハッとする。
でも、直せなかった。
(もう……どうでもいい)
そう思いながらも、エプロンを締め直す。
辞めたい気持ちはある。
それでも“生活費”は待ってくれない。
だから、無心で働くしかなかった。
***
休憩中。
秋斗がぼんやりコップの水を見つめていると、対面に優風が座った。
「はい、講義するよ」
「……講義?」
秋斗は理解が追いつかず、ただ目を瞬かせる。
優風は、それには答えず紙ナプキンを一枚引き抜いた。
「孫子の兵勢篇によるとね」
いきなり始まった。
「勢いって、“スピード”じゃないの。“配置”なの」
「……配置?」
秋斗が聞き返すと、優風は紙ナプキンをテーブルの端に置く。
「今のあんたの位置はここ。
自分から『失恋した可哀想な人』の席に座り続けてる」
「可哀想な人って……」
意味が分からず戸惑う秋斗に、優風はあっさり言った。
「とりあえず、『仕事ができる店員』の席に移動しようよ。
同じ人でも、座る場所が変われば気分も変わるでしょ」
そう言って紙ナプキンを、テーブルの端から秋斗の前に動かした。
(そんな簡単に移動できるものなのか?)
秋斗の不安をよそに自信満々の顔。
「大丈夫、恋愛偏差値70のこの私に任せなさい」
ドヤ顔だった。
(恋愛偏差値って、どうやって測ったんだ?)
ツッコミたかったが、優風の気迫に飲まれる。
気づけば、頷いていた。
***
「で、最初の作戦ね」
優風は指を一本ずつ立てながら説明した。
「一つ目、挨拶は0.2秒早く」
「二つ目、目を見て一秒だけ笑う」
「三つ目、呼ばれる前に一歩近づく」
拍子抜けするほど簡単だった。
「……そんなことで、変わるわけ……」
秋斗が呟くと、優風は真顔になる。
「勢は小さいところから積み上げるの。
派手なのは後」
その言葉に、なぜか反論できなかった。
***
結果は、散々だった。
「い、いらっしゃいませっ!」
はりきりすぎた挨拶の声に、
驚いて振り向くお客に、必死に笑顔を作る。
不自然すぎる笑顔。
客が一瞬引く。
厨房に戻ると、マスターが一言。
「……顔、ひきつってるぞ」
早く動こうとしすぎて、テーブルの横で身構える。
「……ちょっと、圧、強いんですけど」
お客にそう言われ、秋斗は慌てて引き下がる。
(俺、何やってんだ……)
***
さらに追い打ち。
体を乗り出し過ぎて、コップを倒す。
「ちょっ、やだ!」
お客の声に、秋斗は完全に固まった。
「あっ、あ……」
言葉が出ない。
頭が真っ白になる。
その瞬間、優風が自然に前へ出た。
「申し訳ございません」
柔らかな声。
落ち着いた所作でテーブルを拭く。
数十秒後、場は収まっていた。
秋斗の横で、優風が小さく囁く。
「今のは私が悪い。配置ミス」
「次は、私の影になる位置に立って」
具体的だった。
落ち込む秋斗に、さらに続ける。
「秋斗、今ちょっと肩に力入りすぎ」
「深呼吸して。はい、もう一回」
怒られない。
見捨てられない。
その事実が、胸に沁みた。
***
少しずつ、変化が出始める。
常連客に挨拶すると、軽く返事が返ってきた。
「新人くん、最近いいね」
その一言で、秋斗はフリーズする。
背後から、優風の声。
「ほら、勢が動いた」
「秋斗ってさ、元々“優しい”って強みがあるんだから」
「それが、みんなに見える席に座りなよ」
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
***
バイト終わり。
片付けを終えた秋斗は、ぽつりと漏らした。
「……俺、今日ちょっとだけ楽しかったです」
優風は一瞬驚いてから、微笑む。
「でしょ?」
「流れに乗ると、案外、人って楽になるんだよ」
「楽に……それも兵法ですか?」
思わず聞くと、優風は少し照れながら笑った。
「それは……まだ応用編かな」
その仕草を見て、秋斗は混乱する。
(優風さんの笑顔って……こんなに可愛かったっけ……
いやいや、何考えてんだ俺)
失恋で止まっていた流れが、ほんの少しだけ前に進んだ気がした。




