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死の蜜

作者: 八坂 雲
掲載日:2026/03/05

はじめまして。

初めての投稿となります。ご寛恕のうえ、お目通しいただけましたら幸甚に存じます。


10月の半ばを過ぎ、山あいの村が急激に色を失い始めた頃。

私は、古い友人である彼を訪ねて、この辺境の農家へ足を運んでいた。彼は数年前に実家に戻り、農業の傍らで養蜂を営んでいる。


母屋の縁側に腰を下ろすと、彼は「今年の最高傑作だ」と言って、何の変哲もない小さなガラス瓶と木のスプーンを持ってきた。


「舐めてみろ。ただの蜂蜜じゃない」


差し出されたスプーンには、透き通るような美しい黄金色の液体がとろりと輝いていた。

口に含むと、驚くほど芳醇でコクのある甘みがふわりと広がり、少しスパイシーで気品のある香りが鼻腔を抜けた。スーパーで売られている百花蜜とは次元が違う、花の命をそのまま濃縮したような鮮烈な味わいだった。


「素晴らしいな。雑味がまったくない」


「だろう。人を寄せ付けない、冷涼で深い原生林の奥で 、ごく短い開花時期にしか採れないトチノキの単花蜜だ」


彼は満足げに目を細め、自分の湯呑みに茶を注いだ。


「しかもこれは、蜂たちが羽ばたきで水分を飛ばし、巣の蜜蓋率が九十パーセントを超えるまで完熟させたものだけを絞っている。非加熱、非撹拌。年にわずか三十瓶しか作れない。……そして採蜜は、満月の夜明けにしかやらない」


「満月の夜明け?」


「ああ。樹木と蜂たちが極限まで高めた『生命を紡ぐ濃度』が、その瞬間にだけ宿るからね。一瓶でちょっとした宝飾品並みの値段がつく」


私は感嘆の溜息をついた。これほどの時間と執念をかけられた蜜ならば、その価値は計り知れない。

しかし、彼の目はふと、庭先の枯れかけた雑草の影へと向けられ、微かに暗い色を帯びた。


「でもな。……数年前、蔵に出荷前のこいつをごっそりと盗まれたことがあってね」


「盗まれた?」


「ああ。敷地の構造や、俺の生活サイクルを熟知している人間の犯行だった。目星はついていたんだ。二軒隣に住む、一人暮らしの中年女だ。昔から手癖が悪いと村で噂されていてね」


彼は淡々と首を振った。


「だが、確たる証拠がない。こんな限界集落で不用意に波風を立てれば、逆恨みされて何に火をつけられるか分かったものじゃない。だから、ただ黙って泣き寝入りしたのさ」


私は手元の黄金色の瓶を見つめた。これほどのものを奪われ、沈黙を貫くのはさぞ無念だっただろう。


「養蜂というのは、自然とのシビアな駆け引きでね」


 彼は唐突に話題を変えるように、庭の奥の山林を指さした。


「収穫の時期を少しでも見誤ると、山には栗の花が咲き始める。この栗の花の蜜が少しでも混ざってしまうと、ひどく生臭い匂いがつくんだ。端的に言えば、男の精液の匂いだ。高貴な甘みの中にそんな異臭が混ざり込めば、もう売り物にはならない」


私は顔を顰めた。あの清らかな甘みの中に、そんな臭いが混ざる光景は想像したくなかった。


「なら、さらに収穫が遅れたらどうなる?」


私が何気なく尋ねると、彼は湯呑みを両手で包み込み、ゆっくりとこちらに向き直った。


「……さらに季節が遅れると、どうなるか。ある年、身をもって知る機会があってね」


彼の声のトーンが、一段低くなった。


「夏の終わりから秋にかけて、山には紫色の兜のような花が群生する。トリカブトだ。ミツバチはね、トリカブトの蜜も集めるんだよ」


私は息を呑んだ。トリカブトといえば、誰もが知る猛毒の植物だ。


「お前、醜い容姿を嘲笑う『ブス』という言葉の語源を知っているか?」


「いや……」


「トリカブトの別名を『附子ぶし』という。その毒を摂取した者は神経を激しく侵され、顔の筋肉が痙攣し、見るも無残に引き攣った表情のまま息絶える。その凄惨な死に顔から、醜く歪んだ顔を『附子ぶす』と呼ぶようになったと言われているんだ」


秋風が縁側を吹き抜け、私の背筋に冷たいものが走った。


「蜂自身には毒は効かない。その年、俺は試しに秋口まで山奥に放置しておいた巣箱から、その蜜を絞ってみた。栗の花の生臭さなんて完全に消し飛ぶほどの、この世のものとは思えないほど妖艶で、どこまでも深い琥珀色をしていた」


「まさか、味見を……」


「するわけがないだろう。一口舐めれば、文字通り『あの世』行きだ。ただ、その蜜の底知れぬ美しさに、俺はなぜか目が離せなくなってしまった」


彼はゆっくりと瞬きをした。


「捨てるのが惜しくなってね、その『死の蜜』を丁寧に濾過し、最高級の栃蜜とまったく同じ規格の瓶にたっぷりと詰め込んだ。もちろん、毒だという野暮なラベルなんて貼らない。見た目は、極上の蜂蜜そのものだったからね。……そして、それを蔵の棚に置いたんだ。ただ、それだけだ」


沈黙が落ちた。

遠くで、カラスが一度だけ、鳴いた。


「それから二週間後のことだ」


彼は残っていたぬるい茶を飲み干し、静かに言った。


「二軒隣の中年女が、自宅の居間で亡くなっているのが発見された。死因は急性心不全。孤独死として処理されたよ。……だが、第一発見者となった民生委員は、女の顔を見てひどく怯えていたそうだ」


「……」


「筋肉が激しく引き攣り、これ以上ないほど醜く、おぞましい顔になっていたらしい」


彼はそれ以上、何も言わなかった。

彼は直接手を下してはいない。ただ、自然が作ったものを、そこに置いただけだ。


私は、手元のスプーンに残る黄金色の蜜を見つめた。

先ほどまであんなに純粋で美しく見えていたそれは、今や、人間の底知れぬ悪意と執念を溶かし込んだ、恐ろしい液体にしか見えなかった。


縁側の外では、傾きかけた秋の陽射しの中、紫色の小さな花が、風に揺れて静かに笑っているようだった。


〈了〉

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