6.その者だけの使命
「嘘だろ……とんでもねえ火事じゃねえか」
病院を見上げ、唖然とする長濱。
通報の内容は勤務していた医療者の死傷と、爆発と火事。
そして実際それは起こってはいるわけだが、想像していた様とはかけ離れていた。
ガラスの割れた窓から火と煙の昇る箇所はいくつもあり、まるで複数の爆弾が起爆されたかのよう。
「おい、患者とスタッフの避難状況は?」
「それが、全くと言っていいほど進んでおらず……! ほとんど中にいる状態かと思われます。消防は突入準備を終わらせつつありますが」
「とっとと突入させろ! んで、加山ぁ!」
長濱はテープを潜ろうとしている加山に怒鳴る。
「長濱さん、時間はかけていられません! 煙の上がっている場所は複数、そして窓はほとんど割れています。被害は外から見えるよりもずっと深刻なことは明白です! 急がなければ死傷者は増えるばかりですよッ」
「だからってお前を突っ込ませるわけねぇだろうが! 装備もノウハウも無いお前が行ったところで無駄死にだ、そんなこともわからねぇか!」
「警察の安全のために中にいる患者や医療者を諦めるというんですか!?」
「そうは言ってねぇ!!」
長濱と加山は声を張り上げて言い合いを始める。
加山の言う通り、悠長にしていられる時間はない。
しかし長濱の言うように、気持ちだけで生身で突入すれば意味もなく怪我人、あるいは死亡者を増やすだけだ。
だがこの言い合いもまた意味を持たないのも事実である。
「消防の突入を待て! 俺たちにできるのは現場の封鎖と負傷者の誘導ぐらいだ! お前の仕事じゃねぇんだ。加山、自分の力を過信するなよ。その癖直さねぇとお前、いつか取り返しのつかない目に遭うぞ」
「……!」
長濱は加山の肩を掴み、強く言い聞かせる。
彼は加山を認めているかと言われれば、おそらく完全に認めているわけではない。しかし、彼女には強くこだわっていた。
長濱は五十代手前のベテランである。
目の前の若手を守りたい、それだけではない。
過去の自分と同じ轍を踏ませたくない、そうした思いが彼の言葉から滲んでいた。
熱と勢いだけで助けられる命など、限られているのだから。
「消防、突入します!」
近くの別の警官が二人に報告する。
長濱は加山の肩から手を離し、冷静に言った。
「俺たちには俺たちの仕事がある。まずはそれだ。助けたい気持ちはわかるが、分不相応な行動は悪い結果しか生まねぇんだよ」
長濱は自分の過去を思い出していた。
彼がまだ若い頃。あれもまた、燃え盛る建物を前にしていた時のことである。
中に残された子どもを助けるために、消防を待たずして彼は一人建物に入っていった。
子どもを何とか保護できたまでは良かった。
その子どもはまだ火の手の迫っていない部屋の、クローゼットの中に隠れていた。自分なりに火から逃れようとしていたのだろう。
しかしその後、二人は火で朽ちた瓦礫の下敷きとなり、身動きがとれなくなった。
その結果子どもは一酸化炭素中毒となり、長濱も気絶。
後に突入した消防士たちに救助されるも、子どもは結局死亡してしまった。
あの時、消防を待っていれば。あの子どもの命は助かったかもしれない。
子どもの両親に責められたわけではないが、この出来事は燃え盛っていた彼の正義の炎を鎮火するには十分過ぎたのだ。
加山にも、悲劇が起こる前にそれを知ってほしかった。
しかし彼女は、炎で橙に染まる夜空を見上げるばかり。長濱の言葉は確かに彼女に届いていた……が、それを聞き入れるかどうかはまた別だった。
「自分にしかできない、自分の仕事……。それなら確かに、ここにあります」
「だろう? だったら」
「私は行きます。あれだけは、私がやらなければならないんです!」
「!? 加山ッ!?」
加山はテープを押し上げ、消防士たちの後に続くようにして病院の玄関へ走り出す。
長濱は彼女を制止しようと追いかけるが、彼はテープの奥へは進まなかった。
進むことができなかった。
加山にしかできないことがそこにある。
夜空から、葦の香りを纏う黒羽が舞い降りていた。
───────────
息を切らし、加山は階段を駆け上がる。
院内は異常な暑さと乾きに包まれており、装備の無い加山の体力を着実に削っていた。
しかし彼女は諦めず、近くで見つけたマスクで乾燥から口を守りつつ病棟を回って逃げ遅れた患者を助け起こす。せめて火と煙から逃げられるよう、誘導を続けていた。
(……あの羽、鴉が言っていた妖怪の羽だった。子どもを狙うと言っていたけれど、まさかこの病院に……!)
殺人現場にて拾った妖怪の黒羽。
あれと全く同じものが目の前に舞い降りてきた。
火の明かりに照らされる煙の中を、巨大な鳥の影が飛ぶのを目の当たりにした。
消防士では、きっと太刀打ちできない。人間を簡単に溶解させる毒を扱う怪鳥だ。
加山は妖怪の存在を知り、銃を携帯している。
勝ち目が無いわけではない。勝てる保証は限りなくゼロに近くもあるが。
だが、妖怪の話をしたところで絶対に信じてもらえるわけがない。
その点、加山は怪鳥が子どもを狙うことまで知っている。
妖怪から他者を守ることは、加山にしかできない。
「た、助け…………み、ず…………!」
「大丈夫!? 水はここよ。ほら飲んで」
病室に残された患者たちの多くは極度の乾燥に晒され、動く以前に水分を必要としていた。
ただの爆発や火事ではこうはならない。加山はこの現象に違和感を抱かずにはいられなかった。
(あの鳥の妖怪がこの惨状を……? でも、鴉はそんなこと一言も言っていなかった。こんな現象を起こすだなんて……。まさか、別の妖怪もいるというの……!?)
行き着く答えは一つだった。
だとしたら、自分一人で妖怪二体を相手にすることになる。
流石に分が悪過ぎる。鳥の妖怪だけでさえ、加山には荷が重いというのに。
妖怪を殺す、鴉がいれば……
「……とにかく、今は患者たちを介抱していかないと……!」
エレベーターは動かない。
病棟の真ん中に造られた階段は煙で充満しておらず、そこだけが人間にとっての唯一の道である。
見つけた患者や看護師たちを集め、自力で動ける者に突入した消防たちとの連絡を任せる。
そして自分はさらに奥や上階へ進み、他の負傷者を探しに行く。
熱と乾きは上に行くほど酷くなる。
それを考えれば、おそらくこの異常な気象現象を操る妖怪はより上階……。
屋上にいるのだろう。怪鳥も空から病院に近づいていた。
上の階に上がるということは、彼らに近づいていることにもなる。
「妖怪に、出くわさなければいい……けど──」
ブオオォンッ!!
「あッ……!?」
加山が7階に到達した瞬間、凄まじいスピードで何かが彼女の目の前を通り過ぎた。
縦に真っ直ぐ、目の前に何かが降ってきたのだ。
驚いた彼女は足元に目をやる。降ってきたのは、いや振り下ろされたのは真剣であった。
「……お前は」
「か、鴉……!?」
階段の角に身を潜めていた刀の主は、なんと鴉だった。
「あなたも、ここに……!?」
「まあな……。姑獲鳥の痕跡を追って来た。お前こそ何故……」
「この病院……この建物から爆発と火事が起きたと通報を受けて来たのよ。外にも大勢警察がいるし、中には消防士たちも入ってきてるわ」
鴉は何者かが階段を駆け上がってくる気配を察知し、身を隠してその正体を探ろうとしていた。
あくまで脅しのために刀を振り下ろしたが、まさかそれが加山だったとは思わなかったらしい。
彼も驚いていた。
黄泉の香りは魃の起こした熱波で病院中に撒き散らされ、妖力も院内に充満しているために妖怪を探ることができなかったのだ。
「姑獲鳥以外の妖怪がどこかにいる。おそらくこの一番上だが……魃が熱風を放って、ここをめちゃくちゃにしたんだ」
「やっぱり、妖怪はもう一匹いたのね」
「……まさか、姑獲鳥が?」
「ええ、屋上に向かっていたわ。おそらくだけど、二体同時に戦うことになる……」
「……わかった」
それだけ言うと、鴉は上階へ続く階段へ駆け出す。
「待って!」
「ん?」
「私も……行くわ。そうすれば、数的不利は覆せる」
「…………」
「囮にならなれる! こんなこと言いたくないけど、あなたが死ぬのは……まずいのよ。妖怪を倒せるあなたがいなくなったら……。私もできる限りのサポートはするわ! だから……」
「落ち着け」
加山は口をつぐむ。
初めて出会った時の鴉はきつい目つきをしていた。
だが今は違う。横目に加山を見つめる彼の瞳は、彼女に何かを訴えたそうで、しかしそれが難しくもどかしそうに感じている。
加山にはそう見えた。
「妖怪は俺が殺す。お前は来るな」
「……勝てるの?」
「勝つ。俺にはそれしかできないんだよ。だからお前も……自分のできることをやれ。俺にはできないが、お前にならできることがここにはある」
「お前は、人を助けろ」
「鴉……」
鴉は踵を返し、階段を駆け上がっていく。
残された加山はその背中をただ見送るのみ。
その者だけの使命がある。鴉には鴉にしかできないことが、加山には加山にしかできないことが。
鴉の言葉を呑み込み、彼女は7階に残された人々を助けるために足を踏み出した。