57.月の精
月兎の移動は文字通りの転移。
線の移動ではなく、ある地点と地点を瞬間的に移動する点の移動である。
マンションから姿を消した月兎と加山は、一瞬で『幻明芸能事務所』の社長室に移動し到着していた。
加山はデスク前の向かい合ったソファの片割れに座らされ、月兎は部屋の中をぐるぐる歩き回りながら彼女と問答をしていた。
「はぁ……ようやく君を迎え入れられた。僕は大満足だよ、ほんと」
月兎は心底嬉しそうにそう語る。
一方の加山はぎゅっと目を閉じて、今にもちぎれ飛びそうなほどの緊張の糸を張り詰めさせ、この空間、この状況に直面していた。
「……私をここに連れてきた目的は、なにっ……!?」
「ああ、そうだ。まずそれを説明してあげないとね。公平じゃない」
月兎は皆途区を一望できる窓から、雲の合間から覗く月に目をやり、答えた。
「僕の妖としての性質でね、何より月が重要なんだ。僕は月からやって来た妖。気づいたらあそこにいて……ずっと孤独だったのさ」
「……!?」
月兎の口から語られたことは、加山にとって予想外過ぎる話であった。
彼女は妖怪は日本や日本の周囲の国々独自の存在だと考えていた。どれだけ日本から離れた土地であっても、妖怪の存在は地球だけに留まるものだと認識していた。
だがそれは根底から覆されたのである。月兎が月の妖怪であるという事実によって。
「で、いろいろ頑張った結果──満月の時だけは地球に降り立てることを発見した。それももう千年ぐらい前になるかな? そして僕は、ようやくそこで自分が何なのかを知ることになる」
「…………? 月の妖怪、じゃないの?」
「そうとも。月の妖さ。だが、妖も何も無いところから生まれることはまずあり得ない。つまり僕に誕生のキッカケ、親のような存在があると理解したんだ。地球でね……。何だと思う?」
「…………」
「流石にわからないよねぇ。正解は、"人間"だ」
「……!? に、人間……!?」
加山は目を閉じたまま驚愕する。
月兎も相変わらず窓の外に目を向けており、二人して目はおろか顔も合わせないまま会話が続く。
「人間に限った話でもないけれど、魂というのは肉体を動かすためのエネルギーとして"霊力"というのを放っていてね。そしてこれが中々厄介なもので、本体以外のものにも影響を与えたりするんだ。大抵は、数百年ぐらいの時間を要するんだけども……」
「……」
(……この話、聞いたことが……。家で鴉と覚が話してた、『付喪神』の……)
加山が拐われる前、月兎の目的について意見を交わしていた鴉と覚。二人の会話の中で出てきた付喪神の話題でも、今まさに月兎が話している内容を聞かされた。
加山は考える。
人間が親。霊力の影響の話。やはり月兎の正体は鴉たちが予想したように付喪神であり、自分の高い霊力をエネルギー源として利用するのが彼の目的だというのか。
であれば、さらなる疑問が。
月兎は、何の付喪神なのか?
「……月。何故か人間たちは、これに様々な思いを寄せるらしい。美しいとか、安らぐとか、愛情表現にも使われたり……あるいは、恐ろしいと思ったり。そういった人間の感情を、月は何百、何千年と向けられてきた」
「……ま、まさか」
「僕は月に向けられた人間の感情──それに乗せられ、運ばれてきた霊力から生まれたんだ」
「月の……付喪神……!?」
地球と月の間の距離は38万kmもある。
そんな位置から穏やかな光で地球を照らし続ける悠久の時の中で、歴史のほんの数秒間で栄えた人間たちにより命がもたらされた。
月の精。月兎の存在を知った者たちはそう形容する。
そんな神秘の化身とも言える彼が、今となっては世界の国々を滅ぼして回り、日本で一企業の社長となって国の支配者の一柱となっている。人間の感情から生まれた存在が、人間を脅かし支配する。
皮肉な運命の申し子、それが月兎だった。
「まあ、そう思ってくれて構わない。で、だ。結構脱線したけども、君を連れて来た目的はものすごく単純だ。もちろん狙いは君のその類稀なる高い霊力。それを、月を介して僕のものにする……ってことだよ」
パチンっと指を鳴らして、ソファに座る加山へ向き直る月兎。
その時彼は一瞬だけ、ちらりと加山の方へ視線を向けた。まるで目を合わせることがまずいことかのように、コンマ数秒間だけ。
月兎の刹那の視界に入った加山は、相変わらず目を固く閉じていた。
(……ずっと目を閉じているな。恐怖から来るものじゃない。確実に、意図的に目を閉じてる。まさか、僕のことを知っているのか? 田がらしから聞いたのか……いや、あの覚が別の妖の心を読んで……?)
月兎は訝しむ。
彼にまつわる顔の秘密については、以前に鴉たちと共に神宿警察署の刑事課長の心の内を暴いた時に初めて加山は耳にしている。
とにかく「顔を見てはいけない」ということだけを彼女は知っており、見た結果どうなるかということに関しては一切知らない。だからひたすらに視界を塞いでいるのだ。
月兎は加山の行動から、顔の秘密を知っていると判断。彼は彼女の背後にまで回ると、なんとそのまま抱きついてしまう。
「っ!?」
「そんなに怖がらなくていいじゃないか……。君をここに招いた時点で、君はもう僕のものだ。顔を直接合わせることができないのは残念だけどね、僕はもうとっくに君を気に入ってる。だからこそ、教えておこう」
「教えるって……何を……」
「顔を合わせないことは確かに対策の一つだ……。だが、たとえ視界を塞がれていようとも一瞬で命を奪うのに必要な条件は、顔だけじゃない」
「……!?」
「だから、君のしていることは無駄なんだ」
月兎は加山の耳元で──息が当たるほどの距離で──そう呟く。
優しく、甘い声だった。何も知らない、並の女性ならすぐに体の力が抜けて彼に骨抜きになってしまうほどのスキルである。最大限警戒している加山には通用しないが。
加山の反応を見た月兎は、おそらく彼女の理解が追いついていないのだろうと考える。
そこで彼は、ある人物に電話をかけ始める。
社長室に来るよう伝えて電話を切ると、壁に掛けられていた白面の狐のお面を手に取り、それを被った。
「加山さん、目を開けてみて。大丈夫、死にはしないよ。今の僕は仮面をしているから……さあ、こっちを見てごらん」
再び優しく語りかける月兎。
加山の心はそれでもブレることはないが、月兎の声によって不本意ながらに安心感を抱きつつあった。そして、それがまた彼女の恐怖を逆に煽る。
それでも月兎の言葉を信じ、彼がこれから何をしようとするのかに注目するため、ゆっくり、怖がりつつも瞼を開けていった。
「……本当に仮面をしてる……」
「だから言ったじゃないか。ハニーに嘘は吐かないよ」
「誰がハニーよっ……!」
「まあまあ落ち着いて……。そろそろ来るからさ、デモンストレーション担当が」
狐の仮面をしたままおどけて見せる月兎。
そしてその数十秒後、部屋のドアがノックされる。ドアの向こう側から聞こえてきた入室の断りは、若い女性の声だった。
月兎がすぐに許可を出すと、両開きのドアが静かに開き来訪者が姿を現す。
「社長……私に何か、ご用ですか?」
「悪いね、沼田くん。もう少しで退勤だったっていうのに」
「いえ、そんな……」
沼田と呼ばれた、眼鏡を掛けた若い女性。出立はザ・OLというものでキッチリと整えられた髪型、服装をしていた。
彼女は入室時からやや頬を赤らめていた。チークではない。加山が思うに、何かを楽しみにやって来たのだろう。男女の中では、珍しくもないことだ。
そんな沼田だが、ソファに座る加山の姿を視界に入れるとすぐに態度を硬くする。
「社長、そちらの方は?」
「んん? ああ、客だよ。僕の個人的な、ね。まあ彼女のことはあまり気にしないでいい。三年ぐらいになるかい? 僕の秘書になって……」
「は、はい。あと二ヶ月で四年目になります」
「そうか……。今までご苦労だったね」
「えっ──」
「さようなら」
ドアの前に突っ立っていた秘書、沼田。
月兎は彼女に向けて、何かを手繰り寄せるようにして腕を振るった。
その行動が何を意味しているのか加山にはわからなかったが、すぐに理解させられる。
呆然と立ちすくんでいた沼田の目から光が消え、一瞬で瞳孔が散大する。そして膝から崩れるように、受け身も取ることなく床に倒れてしまったのだ。
「なッ!?」
加山は思わず立ち上がり、倒れる沼田に駆け寄る。
首元で動脈触知を行うが、弱々しい脈動が急激にさらに弱まっていくところを感じ取り……それはやがて、消失した。
「し、死んでる……!!」
「早い話がこういうことさ。これが僕の力だよ。"魂の強制徴収"とでも言おうか。顔を合わせずとも、この手でスッとむしり取るだけ……。簡単だろ?」
仮面の下で月兎が笑う。
玉藻も、瑞子も、茨木童子も。他の四大財閥が月兎を最も警戒している所以がこれである。
彼の計画は玉藻だけが知っている。無法とも言える力を持ちながら、加山を使って更なる力を手にしようと目論んでいた。
これが月の精、月兎。
また名を、『桂男』。




