【コミカライズ】どうせ死ぬ命なので、誘拐犯に連れ去られてみます。
「はあ、はぁっ……」
私は今、なにをしているの? どうして今、こんなにも走っているの?
薬物治療の影響で細くなってしまった腕を引かれ、走る。
草むらがガサゴソと風で揺れていて、踏み出す足が土を力強く踏む。外に出るのもやっとだった私は今、見ず知らずの人と走っている。
「……ご、ごめんなさい、もう走れないわ。私、身体弱くて、その……」
ふいに、私の婚約者・ロイドの言葉が頭に響いた。
『身体が弱いことを言い訳にするとは、本当に惨めな女だ』
どうしましょう。私のせいで不快にさせてしまったかもしれない。早く、謝らないと……。
「大丈夫」
その短い言葉と共に、私の身体はふわりと彼の腕の中に抱き上げられてしまった。
書斎の隅にあったロマンス本で見たことがある。これはいわゆる、お姫様抱っこというやつだ。憧れはあったけれど、まさか初対面の殿方にされてしまうなんて。
真っ黒なローブを深く被った男の顔が、距離が近くなったことでやっと見えた。
月明かりに照らされて、キラキラと輝く青い瞳と目が合う。
「僕を信じて」
名も知らない男の言葉を信じ、家を飛び出してしまうだなんて、私はどうかしている。
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「レティア・カスターナ、愛しているよ」
白がかった金髪に、黄金色の瞳。目を細めて甘い声を囁き、私に向かって手を伸ばした男。
「離して!」
「……レティア?」
ダンドリー侯爵家の長男ロイド・ダンドリー侯爵令息。私の、婚約者だ。
「私、知ってるんだからね、ロイド!」
私は自身の頬に添えられた手を振り払い、困惑した顔を浮かべるロイドをギュッと睨みつけた。
今までの私なら、ロイドの口から発せられるその愛の言葉に笑顔で頷いていたはずだ。
しかし、私は聞いてしまったのだ。
父の友人である伯爵の邸宅で開かれたパーティーで、母が体調を崩し、代わって私が父のパートナーを務めた時のこと。
お父様と会場で別れた後、私は来ているはずのロイドを探したが、会場のどこにも彼の姿が見当たらなかった。そのため、私は彼の控え室へ探しに向かうことにした。
――扉の隙間から見た、服をはだけさせて抱き合う二人の男女の姿を、私は死ぬまで忘れることはできないであろう。
そこに居た二人は、私の婚約者ロイド・ダンドリー。そして、男爵令嬢レリアン・フランシスだった。
「ねえ、ロイド? 私は嬉しいけど、あの病弱姫の元に行かなくてもいいの?」
「あの女なら大丈夫だよ、レリアン。どうせ今頃、自慢のお父様と一緒にいるだろうから。それに……直に、あの女は死ぬのだからな」
ソファーになだれ込む形で抱き合う二人。レリアンは豊かな胸をロイドに押し当て、甘えた声で囁く。そんなレリアンを見てロイドは満足げに微笑んだ。
二人の会話を聞いてしまった私は息がうまく吸えなくなるほど動揺した。
どうして、どうして……!
この場からすぐにでも逃げ出したいのに、足がすくんで動くことはできない。
そのため私は、必死に耳を押さえて、レリアンの甲高い叫び声にも似たその喘ぎ声が耳に届かないように必死に耐えることしかできなかった。
「あいしてる、愛しているわ、ロイド」
「私もさ、レリアン……」
ううっ……吐き気がする。
私は、生まれつき身体が弱かった。
医師からは二十歳に命を落とすと診断された。病に侵され、結婚など夢のまた夢の話だった。
それでも、私と結婚したいと申し出る人間は少なくなかった。それはけして私を愛しているからではない。私と結婚して、カスターナ公爵家の当主の座に就くことを狙っているだけだ。
公爵家の一人娘で、病に犯された短命な女。貴族の結婚相手として、私はこれ以上に無いほど都合の良い結婚相手だった。
そりゃあそうよね、愛が無くとも結婚さえすれば公爵家の当主になれる。私が死んだ後にでも、本当に愛している女性と再婚すれば良いだけだもの。
でも、貴方だけは私の味方なんじゃなかったの……?
『愛しているよ、レティア』
『でも、私は病に……』
『知っている。そこも含めて、君が好きなんだ』
あの時私に囁いた言葉も、全て嘘だったというの?
「私のことを騙していらっしゃったんでしょう?!」
「レティア……」
「なっ、なによ!」
ロイドの言葉に反発した返事をしつつも、心のどこかで、勘違いだと彼の口から撤回してほしいと願っていた。
嘘でもいいから、言い訳でもなんでもいいから。全て間違いであったと、そう言って欲しかった。
「ほんっとうにお前はマヌケな女だな……」
しかし、その愚かな期待は哀れなものでしかなかった。
「虫の息の、虫けら以下。お前は本当にクズだ」
「……ロイド」
「チッ、気安く私の名前の名前を呼ぶな!」
鋭い視線、冷たい声。それは今までに見たことがない、ロイドの本当の姿だった。
これまでの貴方は全て偽りだったというの? 私への愛は全て嘘で、貴方が本当に愛していたのはレリアン嬢だったの?
「どうして? 私を、愛していたのではないのですか?」
泣きたくないのに、自然と私の目からは涙がこぼれ落ちた。
ダメよ、泣いちゃダメ。
泣いたって、余計に自分が惨めになるだけじゃない。
「ああ、そうさ。もちろん愛しているとも。しかしそれはお前自身ではなく、お前の公爵家の娘という立場をだ」
「……そう、貴方もそうだったの」
「だったらなんだって言うんだ? 今更、お前は私に婚約破棄を言い渡すことはできないだろう?」
「そ、そんなこと……」
「病弱な一人娘がやっと婚約でき、跡継ぎ問題に安心できたと思ったら婚約破棄をしたいと言い出した。これに、公爵はどう思うだろうなぁ?」
ロイドの言葉に私の胸はドクンと鳴る。
何も言い返すことが出来ないでいる私を小バカにしたように「フンッ」と鼻で笑ったロイドは私に向かって一歩、二歩と足を進めた。
「大丈夫ですよ、レティア。君は今までどおり、私の手のひらの上で転がされていればいいんだ。そうすればお前が息を引き取るその時まで、君の理想の王子さまとやらを演じてやろう」
私の肩に手を置いて、吐息交じりにそう告げたロイド。
全て、ロイドの言うとおりだ。
私にはロイドに婚約破棄を言い渡す勇気などない。そんなことをすれば、きっと優しい家族を心配させてしまう。だから私はこのまま……このまま息を殺して、死ぬ時を待つことしかできないんだわ――。
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「ぐすっ、ぐす……」
皇宮の美しい庭園の陰に隠れ、声を押し殺して涙を流す。
憧れの皇宮のパーティーなのに、どうして陰で泣いているんだろう。
こんなことになるならロイドに問いたださなければよかったじゃない。バカね、私。
それとも、無意識のうちに保険をかけていたのかな? 皇宮でなら、あの人も私に酷い扱いはしないって。
そんな叶いもしない期待を抱いてしまったから、きっと罰が当たったんだわ。ああ、私って本当にバカ。
今からでも会場に戻ろうか……いや、今更戻ったところで私をエスコートしてくれる人も居ない。お父様に恥をかかせるだけだわ。
あの時見た、ロイドとレリアンの幸せそうな顔が忘れられない。
そういえばロイドは私にあんな顔を向けたことはなかったわね。いつだって完璧な笑顔を浮かべていたけれど、今思えばあの顔はただの仮面のようなもの。
正直、羨ましいと思ってしまう。
私だって、一度でいいから恋がしてみたかった。
だけど、こんな私を心から愛してくれる人なんているはずがないんだわ。
「泣かないで、レディ」
突如、ここにはないはずの誰かの声が聞こえた。
急いで顔を上げると、そこには私を見下ろす形で立っていた一つの人影。
「だ、誰なの……?!」
見られた、と焦り涙に濡れた顔を隠すように手で顔を覆う。
最悪だわ。仮にも私は公爵家の娘なのに一人で隠れて泣いていたところを誰かに見られてしまうなんて。
目の前の人は、ローブを深くかぶっていて顔がよく見れない。
声や背丈からして、男性だと思うけど。皇宮のパーティーに来ているということはそれなりに立場のある人間のはず。
「そんなに怯えなくとも大丈夫です。怪しい人間ではありません」
「し、信じられません!」
「あなたのような麗しいレディを泣かせたのは誰ですか?」
「……あなたには関係ないでしょう?」
「ははっ、随分と警戒されていますね。僕は、君をここから連れ出そうと思いまして」
「……えっ?」
私を連れ出す? この人、本気で言っているの? 私のことを、公爵家の娘の私を誘拐すると宣言するなんて只事では済まないわよ?
どうしよう、誰か助けを呼ばなくちゃ!
……でも、助けを呼んで、その後は?
『お前はクズだ』
……私をクズ呼ばわりする男のために、死んでなんてあげない。
私は、私に残された時間を全うしたいの。
「さあ、僕を信じて」
たとえこれが、私に下された罰だとしても。私はこれに賭けてみたい。
私は指し伸ばされた手に自分の手を重ねる。
その瞬間、ピカッと眩い光に包まれたのだった。
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男の満足気に微笑んだ口元からローブの陰から見える。そして彼は自分が着ていたローブを私に着せた。
ローブが外れたことによって見えた彼の姿は、思わず目を疑ってしまうくらい美しかった。銀色の髪に、青の瞳。その整った顔立ちはまるで彫刻のよう。
「大丈夫ですか? レディ」
「え、ええ……」
「それは良かった」
その冷たい目が閉じて微笑む顔は、本当にうっとりとしてしまうほど……って、ダメじゃないレティア! 殿方を容姿で判断してしまうなんて!
外観で判断されることが嫌なのは、私が一番分かっているはずでしょ。
それに、この男はただの誘拐犯なんだから……。
「あの、あなたは一体誰なのでしょうか? 先ほど皇宮から抜け出した方法は移動魔法ですよね?」
「ああ。この指輪の力さ」
彼はそういうと、私に自身の右手を差し出した。
色白で長く伸びた薬指にはめられたエメラルドの宝石が輝く指輪。
「この指輪には魔法使いによって移動魔法がかけられている」
「い、移動魔法ですか?! そんな高価なもの、どこで手に入れて……!」
「ああ~……盗んだんだよ」
男は一瞬戸惑ったような顔をしたかと思えば、ポリポリと頬をかきながら呟いた。
「盗んだ……?」
拝啓、お父様。
私は、とんでもない極悪人の方についてきてしまったのかもしれません……。
「今更考えたって仕方がありません。お父様ならきっと私の背中を押してくださるはずです。そうでしょう……そうであってください」
「うん?」
「いえ、こちらの話です……」
適当に誤魔化すように返事をすると、「まぁいいさ」と言い私の手を取って微笑んだ。
「僕の名前はルイ。お初に、レディ」
「……レティアです。よろしくお願いいたします、ルイ」
生まれて初めて、私は自分の意思で行動している。
その背徳感に少し気分が良いということは、ここだけの秘密だ。
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「ねえ、ルイ! これはなんという食べ物なの?」
「それは綿菓子だよ、レティア」
「まあ、どうしてこんなにもふわふわとしているのに甘いのかしら? 口に入れた途端に溶けてしまうなんて不思議……」
ルイとの逃走劇が始まってから今日で五日が経った。
初めは常に警戒していたものの、次第に彼の楽観的な所と優しさを知るうちに、いつしか彼を信頼し始めていた。
ルイが見せてくれるものすべてが私には目新しくて、ドキドキと胸を高鳴らせた。
「もう祭りが始まったようだね」
「私、街の祭りに来るのは初めてだわ」
「レティア、手を貸して?」
「え? ええ、構いませんけど……」
彼に言われるがまま右手を差し出すと、彼は私の手を取って薬指に指輪をはめた。
「ルイ? これはなに?」
「プレゼントさ」
「プレゼント……?」
「ああ。君が今日、祭りを楽しめるようなお守りとでも思ってくれたらいい」
私の薬指で輝くサファイアの指輪は、見るからに高価なものだ。
「……まさか、これも盗んだものじゃないでしょうね?」
「ははっ、ご名答~!」
「はあ、やっぱりそうなのね? いいわ。もし持ち主が見つかれば、この価値の何倍ものお金を払って許してもらうから」
「いいのかい? それだと君も同罪になってしまうが」
私をからかうように言うルイに、とびっきりの笑顔を向ける。
「いいんです。あなたと同罪で裁かれるのなら、それも悪くありませんから!」
「……レティア」
いっそのこと、このまま時が止まってしまえばいいのに。
春風が吹いて、私のウェーブがかったピンク色の髪を揺らした。
ルイ、私をあの場から連れ出してくれてありがとう。あなたのおかげで、私は今とても幸せなの。
「さぁ、そこの恋人たちもこっちに来て踊りなさいな!」
「えっ?! あの、その……私たちはそんな関係では……」
恥ずかしさで顔に熱が上る。
慌てて撤回しようとする私に、彼は笑った。
「踊ろうか」
「で、ですがルイ。私、あまりダンスは得意な方では……」
「大丈夫、僕に身を任せて」
腕を引かれるがまま私とルイは舞台上に上がる。
到底ダンスホールとは言えないこの舞台は、土が盛り上げられて整えられただけの場所。
それでも私は、今までにないくらい胸が高鳴った。思わずうっとりとしてしまうくらい。
もしかしてこれは不整脈かしら? なんて、少し不謹慎なことをを考えてしまうくらいドキドキと胸が高鳴ったのだ。
ルイの踊りは完璧で、そのステップは社交界で今流行りのものだった。
どうして平民のあなたが社交界の踊りを?
そう一瞬思ったが、そんなことがどうでもよくなってしまうほど楽しくて、楽しくて、楽しくて――。
「ねえ、ルイ。どうしましょう……」
ルイと手を取り合ったまま、私は震える声で話す。
「私、産まれて初めて生きていることが楽しいと感じるの……」
ルイの傍に居ると、何故か毎日のように私の身体に感じた痛みも、苦しみも、感じることはなかった。それが単なる興奮状態に居るアドレナリンの効果なのか、ただ偶然の話なのかは分からないけど。
たった五日間の逃走劇。それでも、私が彼に夢中になるには十分な時間だった。
私は、彼に恋をしてしまったのね――。
「飲み物を買ってくるよ、ここで待っていてくれ」
「はい」
踊りが終わった後、ルイに飲み物を買ってくるから待っていろと言われた私は街角の隅で一人彼の帰りを待っていた。
ルイとの時間は本当に楽しい。
生まれてきて良かったと心から思うのは初めてのことだった。
私の、この短い命が尽きる時まで、ずっとここに――……。
「見つけたぞ!! レティアお嬢様だ!!」
――しかし、その幸せはそう長くは続かなかった。
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「話は分かった。ダンドリ―侯爵令息とのことはお前が決めなさい。しかし、そのような経緯があったとしても、お前に何の罰も課さないことはできないのだ」
「分かっています、お父様。ご迷惑をおかけしてしまい申し訳ございません」
私はカスターナ公爵邸へ連れ戻された。
待っていてと言われたのに、突然消えてしまったからきっと彼は怒っているだろうな。
ポタ、ポタ、と涙が零れ落ちる。
涙を拭おうとしたとき、右手に光るサファイアが目に入った。
「ルイ」
彼の瞳とよく似たサファイアの宝石。
本当に美しい指輪。彼が私にくれた、プレゼント。
……ダメよね、こんなことじゃ。
しっかりしなくちゃ。泣き虫な私は、もう終わり。
たとえ彼に二度と会えないとしても、私は私で、頑張らないと。
∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴
「公女様、戻られたのですね!」
「はい、皆さんにはご心配をおかけしました」
「ええ、本当に驚きましたよ。公爵様はとても厳しいお方だとおもっていたのですが、そうでもないようですね? カスターナ公爵家は自由奔放な教育方針なのかしら?」
「アハハ、あの時は本当にどうかしていました。そんなことはありません、お父様にはこっぴどく怒られてしまいましたわ」
「そうでしたか……」
「まあ、公女様はなんにせよお体が……ね?」
なにが「ね?」よ。この、忌々しいレリアンめ。貴女はただ私の事をいびりたいだけでしょ?
レリアンだけじゃない、他の令嬢たちだってそう。
少しだけ高圧的に言い返した私の様子に、皆動揺が隠しきれないようだった。
確かに今までの私なら、貴女たちのいうことを真に受けて今頃涙で枕を濡らしていたところでしょうから。驚くのも無理はない。
だけど、今回は貴女たちを存分に利用させていただくわ。
「そうですね、私は身体が弱いですから何かと皆さんにご迷惑をおかけしてしまい申し訳ないです。……しかし、それすらも気にならないほどショックな出来事があったんです」
「ショックな出来事、ですか?」
「はい……。ね? レリアン嬢」
やり返しだと意味を込めて「ね?」と、視線をレリアンに向けてみる。
すると、その場に居た全員の視線がレリアンに移った。
「レリアン嬢、何かご存じなのですか?」
「え? な、何を仰りますか公女様。み、みなさん誤解で――」
「誤解です、皆さん」
まさか、貴女に先に言わせるわけがないでしょ?
「私が悪いのです! ケホッ、ケホッ……私が至らないばかりに、レリアン嬢を不快にさせてしまったのです。そのせいか、ダンドリー侯爵令息にはすぐに死ぬ女の相手など誰がするかと怒られてしまいましたわ」
「……ダンドリー侯爵令息?」
私のロイドへの呼び方が気になったのか、先ほどまで私をいびっていた一人の令嬢が追及して来た。
「実は先日、ダンドリー侯爵令息に婚約破棄すると言われてしまったので馴れ馴れしい呼び方は控えた方がいいかと思ったんです。ああ、ですがどうか誤解なさらないで! 私が全て悪いんです。私が、ダンドリー侯爵令息とレリアン嬢の甘いひと時を邪魔してしまったのですから……」
私の言葉を聞いて、みるみると令嬢たちの顔色が変わっていく。
どれだけ悪口を言っていても、この子たちはただ甘やかされて育った箱入り娘だけであって、けして悪人ではない。自身の良心に引っかかるものがそれぞれにあるのだろう。
「グスッ、グスン……」
泣くことは得意なの。
病弱姫の私に、ピッタリの特技だと思わない?
「レリアン嬢、今の話は本当ですか?」
「えっと、いや、その……!」
「……否定されないのですね」
沈黙は同意を意味する。
レリアンに向けられる令嬢たちの冷たい視線。
涙で頬を濡らす今話題の家出公女。
それだけの情報があれば、この宴会場にいる人間の全ての視線を集めることなど、容易いことだった。
∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴
「家出騒動の後からどうもおかしくなったと思っていたが、ついにそんな愚かなことを言いやがって!」
「好き勝手言っていただいて構いませんから、早くこちらの婚約破棄の示談書にサインをお願いします。出来次第、我が公爵邸に送ってください。……では、私はこれで」
「ふざけるなよ、誰がこんな書類にサインなどするものか!」
顔をしかめたロイドが、去ろうとした私の手首を掴んだ。
今更引き留めようとするなんて、一体、何様のつもり?
私は力のままにその手を振り払い、ロイドを睨みつけた。
「私を誰だと思っているのですが? たかが侯爵令息の分際で、私に触れないでください」
「……っ、お前のような死にかけの女、誰も妻になど貰わないだろう! お前は一生、後悔することになるからな!」
そうね。貴方の言うとおり、私のような死にかけの人間を愛してくれる人など誰も居ないでしょう。
でもね、そんなことはもうどうだっていいのよ。
あの人にもう二度と会うことができない。それが、私の胸を何よりも苦しめる。
「公女様!」
ロイドの横でずっと黙り込んでいたレリアンが口を開いた。
「どうか私の身の潔白を証明してください! で、でなければ……」
「どうするの?」
「え……?」
「私が証明しなければ、どうなるのって聞いているの」
「だから、その……」
「貴女はたかだか男爵の娘。その点、私は公爵家の娘よ? 直接処罰を下さないだけ有難いと思いなさい」
心配しなくとも、私はあと三年で死ぬんだから。
私が死んで、少しもすればこの噂はきれいさっぱり無くなるわよ。
……まあ、あなたたちへの世間からの目が変わることはないでしょうけど。
それからというもの、驚くほど淡々に事は進んでいった。
堪忍袋の緒が切れた私の父・カスターナ公爵が、カスターナ公爵家とダンドリ―侯爵家の間に結んでいた契約を全て切ると宣言したのだ。
経緯を知らなかったロイドの父、ダンドリー侯爵が謝罪したいと、わざわざカスターナ公爵邸まで来て申し出たが、それもお父様によってすぐ追い出された。
予想外だったのは、レリアンの方。
レリアンとロイドの話が広まれば広まるほど、レリアンと関係を持っていたと名乗り出る令息が後を絶たなかったのだ。
それはもう、広々と。
十代、二十代、三十代……六十代まで。貴族から、使用人。
聞いていて、思わず紅茶を吹き出しそうになってしまった。
ま、まあ……確かにレリアンは男性から見るととても魅力的な女性のようだから、将来結婚相手くらいは見つかりそうだけど。
誰にでも身体を委ねてしまうと話題になった以上、どこの家も彼女を妻に貰うことを拒否するでしょうね。
結婚も出来ない貴族の娘の成れの果てといえば、修道院だけど……。
ああ、残念。私が生きているうちに彼女が修道院に送られていく様をこの目で見れないなんて!
私は本当によく頑張ったと思う。自分で自分を褒めてあげたいくらい。
この私がよ? あの、病弱姫なんてムカつく異名で呼ばれた私が、あいつらにやり返してやったの。
ルイ。これは全部、あなたのおかげだわ。
ありがとうと言いたいのに、あなたとはもう会うことができない。
心の底からスッキリしたと言い切れないのは、あなたに会えないという事実が私の心をぽっかりと空けるから。
ねえ、あなたは今、何をしているの?
∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴
あっという間に一年という月日が流れ、私は十九歳になった。
私が命を落とすまであと、一年。
「お前に結婚の話が来た。隣国、ロンバルディア帝国の皇子だそうだ」
「隣国の皇子が、どうして……」
「ロンバルディア帝国は現在、帝国側と教皇側で抗争をしているからな。お前の存在を利用して教皇の娘を妻に迎えろという命を避けようとしているのだろう」
ああ、なるほど……。
結局私は、どこまで行っても政治の駒に過ぎない存在なのね。
「しかし、レティア。私はこの結婚をお前に無理強いしない。お前はずっと家にいればいい」
「お父様……」
「結婚なんてしなくていいんだ。ずっと私の元にいなさい」
……ありがとう、お父様。
私は身体にも立場にも恵まれなかったけど、家族にだけは本当に恵まれた。
いつも私を庇い、守ってくれたのに。私はいつも足枷になってばかりで、家の繁栄のために生きることができなくて、本当にごめんなさい。
だけど、私が皇子と結婚すればロンバルディア帝国からそれなりの持参金がもらえるでしょう。
それがあれば、私一人の命分くらいはチャラにできるかしら?
「行きます。私を行かせてください、お父様」
直に死ぬ運命。それならば、少しでも今まで良くしてくれた家族の役に立ちたい。
∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴
「それでは、行って参ります」
涙交じりに私を送り出してくれる家族たちに礼をして、私はロンバルディア帝国より迎えに来た騎士にエスコートされ、馬車に乗り込む。
「お手をどうぞ、レティア様」
そう言って私に手を差し出したロンバルディアの騎士様の声は、長年想い続けたルイによく似ていて、とっさに彼を思い出してしまった。
バカね、姿はちっとも似ていないというのに。
「……あなたも一緒に乗るの?」
私を乗せた後に、自身も馬車に乗り込んだロンバルディアの騎士様。
「これがロンバルディアの方針ですので。いつ何時レティア様をお守りできるように同行させていただきます」
「……そう」
そんな方針が合っただなんて知らなかった。
私、こんなことでロンバルディアでやっていけるのかしら。
まあ、期間限定のお飾り妻の私に心配することなんてないのだろうけど。
たった、一年間の命だし……。
一年間。そう、たった一年の残された命。
……私、本当にこれでいいの?
「ロンバルディアは本当に美しい国なので、きっとレティア様もお気に召される……」
「……ごめんなさい」
「レティア様?」
早く忘れてしまおうと何度も心で呟いたはずなのに、私は一度たりとも彼に貰った指輪を外すことはできなかった。
あなたを忘れ去ってしまうことなんて、私にはできなかったの。
「ごめんなさい、ロンバルディアの騎士様。貴方の主人にどうかお伝えくださいね、頭のおかしくなった令嬢が逃げ出したと。そうすれば、貴方に危害は加わらないでしょうから」
「何を言って……」
「せーのっ!」
困惑した騎士様を無視して、私は足を馬車の扉にかけて勢いよく力をかけて蹴り飛ばした。
「へ……?」
ガンッ、と大きな音を立てて馬車の扉は開かれる。
気弱な『病弱姫』という異名は隣国にまで届いていると聞いたことがある。だからこそ、騎士様は驚いているのだろう。
私だって驚いているわ。こんなにも大胆な行動が私にできるなんて思ってもいなかった。
「私は自由になりたいんです。自分の思うままに生きたいの! だから、結婚なんてしません!」
「ちょ、ちょっと待ってください! 突然どうされたのですか?! レティア様、とりあえずこちらに来てください。そこから落ちたら死んでしまうかもしれませんよ!」
「構いません! 私は、彼以外の人と一緒になるくらいなら死んでも構わないわ! ほんの少しのチャンスに賭けたいの!」
「どうか落ち着いて。危ないですから、ひとまずこちらへ……」
私に向かって手を伸ばした騎士様の手。
それが、一年前のあの日に私をルイと引き離した護衛兵の手と重なった。
もう嫌なの。もう、誰にも邪魔されたくない……。
「こっちに来ないでくだ……きゃっ!」
その手から避けようと重心を逸らすと、私の身体はよろけた。
どうしよう、受け身も取らずに後頭部から走る馬車に降りたなら私は確実に死ぬ……!
ギュッと目を瞑って、これから来るであろう痛みに耐えようとする。
しかし、私が痛みを感じることはなかった。
「はあ……本当に驚いたよ。妻を迎えに来たら、まさかこんなことを仕出かすなんて」
月明かりが銀髪の髪を照らして、キラキラと煌めいている。
男のサファイアに似た青い瞳が、私を見つめている。
騎士様が、私の身体を抱きしめて馬車側へと倒れたのだった。
「……ルイ?」
私を見つめて、微笑みを浮かべる彼の顔は先ほどまで共に居た騎士様の顔ではない。一年前に見た、私を救い出してくれたあの青年のものだった。
「ルイじゃない。僕の名は、ルイーズ・ディ・ロンバルディア。元気にしていたか? レティア」
夢でもいい。
夢でもいいから、どうか、覚めないで。
「本当にあなたなの? あなた、ロンバルディア帝国の皇子だったの?」
「ああ、君に早く会いたくてね。バレないように変身魔法の掛かった指輪で知人の騎士に変装していたんだが、君の身体を抱きとめた時にどうやら外れてしまったようだ」
「ほんと? ほんとうに……ほんとうにあなたなの……?」
溢れる涙が止められない。
まだ状況が上手く飲み込められない私に、彼は手を差し伸べた。
一年前、私を救い出してくれた時と同じ言葉と共に。
「ははっ、僕を信じてくれよ、レティア」