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2.その名では呼ばないで


 体育館のリノリウム張りの床とシューズがキュッという音を激しくたてる。選手やプレーに集中すれば誰も気にしない。でも悠花には気になってしまう。


「悠花、何か気になる?」


 二階のバルコニーから見下ろしていた悠花に悠然と歩んできた、この強豪バスケ部を率いるキャプテンに悠花は目を向けた。中学からの馴染みの司がそう訊いてくるのはよくあること。そこに何も根拠は求めていないことに慣れていて、ただ思ったことを伝えればいいことなので、悠花は答える。


「足音が変だよ。二十五番、やたらに突っかかる音が短く頻繁」

「ああ……なるほど高橋か」


 目の前の司がそちらに目を向けて頷く。足首が痛いのかな、と思ったけれど言わなかった。あとは彼が判断すること。


「――やはりいいね。悠花に頼んで正解だったよ」

「……司君がそう仕向けたくせに」

「どんなに頼んでも興味をひかなければ悠花は筆を取らない」


 悠花は目の前の壁の時計に並ぶ扁額に目をむける。そこに入っているのは、『凡事徹底』の揮毫。もう一年も経つのに、未だに墨の色は紫がかり艶めいている。


 好きなものを描いていいと言われたから引き受けた。


 ――あの時はその言葉を選んだ。でも今では違う言葉を選んだかもしれない。人の心は移り変わるから。


「――あの書に、悠花のうちなる龍が出ている。それがいいよ」


 わからない、と悠花は言わなかった。


 いつもとは違う書体。会場や個展、大会で紙の大きさは違うし求められるテーマも違う。自分の中の感情も違う。

 その中では、今見てもあの字は荒々しい。牙を向け、貪欲になれ、その思いが描かせていた。感情を向きだしたのは、失敗かもしれない。


 でもあれはあれでいい。だから差し出した、そして司は気に入った。


 最初は副学長に頼まれたけれどそれは断った。次に司が手を回したせいで悠花は引き受けざるをえなかった。それは中等部の時と同じだ。


 体育館は、スポーツ校で名を馳せる文化鳳凰校常勝バスケ部の独壇場だ。あれはバスケ部のために描いたようなもの。

 ただ司以上に学長にも気に入られた。スローガンとして最もだとご満悦だったが、たぶん悠花がそれを選んだ意味を彼は知らない。


 わかっているとしたら隣の司だけかもしれない。中等部一年からの付き合いだけど、彼はそれなりに悠花のことをわかっている。彼はそう言う。うちなる龍、そう言われてみるとそうかもしれない。


 司は、内に虎を飼っている。牙をむき咆哮をあげる。気づいた時には既にその爪に引き裂かれている。対等に渡り合うには、同じ爪をもつものだけ。


「――そう言えばうちの部員が迷惑をかけてるね、悪かった」

「…………別に」


 悠花はかなり長い間を置いた後、無難な答えを返した。


「司くんに謝られることじゃないよ、バスケとは無関係だもの」


 あれから、ゼッケンナンバーの八番の蓮には五回声をかけられた。


 答案用紙を取ってもらった恩もある、邪険にはできない。既に知り合いと言えばそう言えるから、友達としてならば仕方がない。ただ妙な呼び方が嫌なだけ。


「今日、釘をさしておくよ」

「それはいいよ」


 遠慮からじゃない。そのニュアンスに気づいたのか司が笑う。


「――姫っーー!!」


 その時、大音量で響き渡った声に、悠花は肩を揺らした。見つかってしまったという思いだ。


「来てくれたんだ!!」

「――蓮、悠花はお前のためにきたわけじゃない」


 身を乗り出さなくても、司の声は階下によく響いた。場を冷やす部員をすくみあがらせるもの。特にミスをしたわけでもないのに、まるでファールを叱責されているような声に部員達はすくみあがる。


 ――蓮をのぞいて。


「なんでもいいって、来てくれたんだから。っていうか、なんで司といるの?」

「だから――」


 司は、三年の引退前にすでにキャプテンを引き継いでいるほどの統率力のある人間だ。その彼と同級生の蓮は怯える様子もなく気軽に話している。

 というよりも、同じ二年でさえ司には一歩改まった態度を取るのに、蓮は三年にも同じようにフレンドリーだ。


 蓮のことをバスケ部をよく見に来ている悠花は知っていた。――悠花は司の友人としてこれまでだって体育館にも試合にも足を運んでいた、なのに話しかけられたことはない。


 蓮があの件まで気づいてなかっただけ。それぐらい彼にとって存在感が薄かったのに。


(今頃になって、いきなり執着されても)


「それもどうでもいいか。姫、今度こそデートしてよ」

「……」


 デートは嫌。それ以上に、“姫”呼ばわりが嫌。一部の人が葵御殿の延長線上で揶揄混じりにつけたその呼び名。それを二回目の遭遇時に大声で呼ばれて、悠花は逃げ出した。なのに、彼はそれからも呼び続ける。


「――嫌。しない!」

「なんで?」

「……」


 なんでデートしなきゃいけないのか。断る理由がとっさに思いつかなかった。


「蓮。ペナルティが欲しいのか」

「まだ部活前だよね。司が口出すことじゃないし」


 司が口を出す前に、蓮は笑ってボールを両手の中で鮮やかに回転させてから頭上に掲げる。


「じゃあ、こっからシュートするから。ゴールに入ったら姫、デートしてよ」


 彼がいるのは、コートの一番端。フリースローではなく、そこから反対のゴールポストを見据えている。悠花は思わず言葉を失い、見つめてしまった。他の部員も手を止めている。


「おい、蓮」


 司の制止より早く、蓮は背筋を伸ばし綺麗に跳ねる。長い手を高くあげ、手を軽く曲げ背中を逸らしてボールを投げる。


 速いのにゆっくりとした動きに見えた。敵はいない、誰も防ぐものはいない。ボールはきれいな放物線を描き、そしてリングを回り――けれど網には入らず落ちた。


 部員達も練習の手を止めて見つめていた。


「あ、惜しい」


 彼が悔し気に呟いた時、副部長の矢沢の叱責する声が聞こえてきた。


「おい、大滝!!」

「やべ、ていうか、姫。ワンチャン!」

「しません!」


 もう一度という蓮に悠花は叫んで、身を翻した。バックヤードの薄暗く狭い螺旋階段を駆け下り、壇上の隣のドアを押し開ける。蓮が追いつく前に、体育館の扉をすり抜ける。後ろから声が聞こえてくる。


「蓮。部活前でもコートの上で勝手は許さない」

「――っていうかさ、司。なんで部活以外に口出しすんの?」


 微かに、司と蓮の会話が聞こえてくる。司に蓮を止めて欲しいのかはよくわからない。それも違う気がするけれど。


「――てか、司。機嫌悪いよね。邪魔されたから?」


 そんな声を背に逃げ出した。


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