【08】最愛の家族
カリスタ・ブラックムーンストーン子爵令嬢とニール・ツァボライト男爵令息の婚約が穏便に解消されてから二週間後。
ボニファーツ・ブラックムーンストーン前子爵とその妻である前子爵夫人コローナ、そして貴族社会では名前すら知られていない一人の令嬢が、馬車に乗って王都を去った。
(私はどこから間違えてしまったのだろうか)
かつて当主として威張っていた面影は、既にボニファーツにはない。
可愛がっていたヘレンが、実孫カリスタの婚約者を奪おうとした一件により、彼の息子デニスはついに我慢の限界に達した。ニールの事が片付いたと共に、彼は父親に向かって爵位を譲るように迫ったのだ。
「今回の騒ぎは穏便な婚約解消という事になりますが、それでもけじめはつけるべきだ。……意味は分かりますね?」
言い返そうとしたボニファーツだったが、そこにヘレンが飛び込んできたのだ。部屋の中にボニファーツとデニスがいる事を知っていて、部屋の外にいた使用人に止められたにも関わらず、ノックの一つも声掛けの一つもせずに。それはとても失礼な事で、幼い子供ですら許されない場合があるような行為だった。ボニファーツはその事実に、今更やっと気が付いた。
「おじい様! おねえ様から聞いたわ、ニールとおねえ様の婚約を解消してくれたんでしょう? ありがとう! ねえねえ、私とニールの結婚式はいつにしましょう。私、ウェディングドレス沢山着たいわ。一生に一度なんでしょう、一着なんて決められない!」
カリスタが何を説明したのかは分からない。しかし、ヘレンが言うような夢物語を彼女は語らないだろう。実直に、堅実な子爵家の女当主となるべく、孫娘には教育を施してきた。
ボニファーツに抱き着きながら夢物語を紡ぎ続けるヘレンを見るデニスの目は、冷たい。何もかもを視線で凍らせられそうだった。
息子は無言で父に目を向ける。その目には呆れ、失望、軽蔑が込められていた。父親に……ボニファーツに向ける目ではない。そう思ったが、同時に、そう見られるだけの事を自分はしてきたのだと、やっと理解した。
遅すぎる理解だった。
「グレイニーに屋敷を用意いたします。どうかそこで、最愛の家族と心行くまでお過ごしください」
■
ボニファーツ・ブラックムーンストーンは、早くに実の母を亡くしていた。
父は仕事ばかり、母はいない。周りに使用人がいてくれたとしても、ボニファーツの心が満たされる事はなかった。いつもどこか空虚な気持ちが漂っていた。
それが変わったのは十歳になった頃。父が、新しい母親を連れてきた。
新しい母親は男爵家の五女という立場で、生家から継ぐもの等何もない。ブラックムーンストーンの分家からも本家からも、あまり喜ばれない再婚だった。それでも結局周りが許したのは、ひとえに父が優秀だった事と、跡継ぎのボニファーツが既に優秀さを見せ始めていたからだろう。
継母は優しい女性だった。彼女は父との再婚から一年後、娘を産み落とした。ブラックムーンストーン家の長女で、ボニファーツの異母妹だ。
黒髪黒目のボニファーツと違い、継母に似た異母妹コーリーは瑞々しい橙色の髪に、青い瞳を持っていた。ブラックムーンストーン家で黒髪黒目以外が生まれる確率は低い。ブラックの名を冠しているからか、同名の親戚の殆ども黒髪或いは黒目を持つ。それと違う色を持って生まれたとしても、髪も目も黒ではないという事は殆どない。
コーリーは顔立ちが間違いなく父譲りであったのだけれど、それが分かったのはある程度大きくなってから。それまでの間、父は二人目の妻が謂れなき中傷を受けるのを避けるため、コーリーを病弱という事にして、屋敷の外に殆ど出さなかった。
「おにいさま、あそんでください!」
貴族学院から帰ってきたボニファーツに、コーリーはいつもそう言ってじゃれてきた。ボニファーツも年の離れた妹の事が、可愛くて可愛くて仕方なかった。
その頃婚約が結ばれて婚約者となったコローナも、ブラックムーンストーン家に来るたびにコーリーの事を可愛がった。コーリーは年上の女性にもよくなつき、嫁と小姑の関係は実の姉妹のように良かった。それはコローナが正式にボニファーツの妻となった後も変わらなかった。
大きくなったコーリーは貴族学院で出会った、とある美しい男爵令息と恋愛結婚する。元々ボニファーツの父も継母もコーリーに政略結婚を求めるつもりはなかったらしく、可愛い娘の結婚に父とボニファーツが少しごねたのち、コーリーは夫となった男爵令息に嫁いでいった。
――その僅か半年後、コーリーの夫が仕事中に突如倒れて、そのまま帰らぬ人となった。
あの幸せな結婚式から、たった半年でコーリーは未亡人となりブラックムーンストーン家に帰ってきた。
気落ちしたコーリーを、家族一同必死に支えた。そんな最中、コーリーの妊娠が発覚する。亡き夫との間の子供が自らの身に宿っていると知り、コーリーは生きる気力を取り戻した。
そうして、コーリーは一人娘のエルシーを産み落とす。エルシーは髪の毛の色と目の色はコーリー譲りで、顔立ちは父親譲りだろう、赤子でもわかるほどの美しさだった。
コローナはコーリーの数年前にデニスを産み落としていた事もあり、母親として助言を与えていた。コーリーも母親としての話は一番にコローナに聞きに行っていた。
まだ幼いデニスも、生まれたエルシーをよく可愛がっていた。妹ではないけれど、妹みたいなものだよねと拙い言葉で喋っていた。
エルシーは問題なく育っていき、デビュタントも済ませる。一時はデニスと結婚させようかとコローナとコーリーが盛り上がっていたけれど、デニスは勿論、何よりエルシーにその気がなかった。
「デニスお兄様と? 絶対に嫌!」
エルシーはデニスとの結婚を断固拒否していた。その理由は、数年後、エルシーに縁談の話が持ち上がりだした頃に発覚する。
エルシーは、ブラックムーンストーン家に出入りしていた業者の息子と恋仲になっていたのだ。
何年も前から恋仲だったのだと言われてボニファーツは酷く驚いた。しかもその業者の息子は、信頼がおける家の息子とはいえ、先祖代々平民という家系だ。
エルシーは美しい。その美しさから、良い縁談先はいくらでもあった。
それらを蹴って、貴族という身分を捨てて平民と結婚させるのか?
その頃既に、亡き父に代わって子爵家当主となっていたボニファーツはとてもではないがその選択を尊重出来なかった。しかし、そんなボニファーツに文句の声を上げたのは他でもないエルシーの母コーリーだった。
「お兄様。心の底から愛し合える相手と出会える事がどれほど貴重な事だと思いますか。私は母として、エルシーが彼と結婚するのを応援するつもりです。お兄様が反対するというのなら、私はブラックムーンストーン家を出てでも、必ずエルシーが結婚出来るように助力致します」
そこまで言われては反対も出来ない。
結婚後、二人はブラックムーンストーン家の屋敷の中で働くことを条件に、最終的にボニファーツは結婚を許した。結婚に伴いエルシーは平民となるが、それでもブラックムーンストーン家の中で働いていれば、何かあった時にすぐ助けられる。コローナの出した案を採用した形だった。
エルシーと、平民だった男は小さい教会でこぢんまりとした結婚式を挙げた。この程度の規模、と何度も思ったが、そのたびに世界で一番幸せそうな顔で笑うエルシーに、コーリーが結婚した時を重ねて、不平不満は呑み込んだ。
幸せだった。この幸せが永遠に続くかと思った。
――エルシーが嫁いだ数か月後、コーリーは階段を踏み外して落下して、亡くなった。即死だった。
コーリーの死亡はコローナやエルシーを始め、多くの人間が目撃していた。間違いなく事故だった。階段を下りる時に踏み外し、そのまま受け身も殆ど取れずに落下したのだ。
実の妹のように可愛がっていたコーリーの死、しかも見ている目の前での死。コローナはしばらく落ち込んで真面に屋敷の外に出れないほどだった。
エルシーも、大切な母が階段を落下していくのをただ見ているしか出来なかったと酷く落ち込んでしまった。そんなエルシーを支えたのが夫となった男で、それを見た事でやっと、ボニファーツは彼を認める事が出来た。
その後もボニファーツの生活は続く。
年の離れた異母妹は自分より早く逝ってしまったけれど、それでもボニファーツには最愛の妻に優秀な息子に出来の良い息子嫁、それから異母妹が残してくれたエルシーがいた。
息子夫婦に娘カリスタが生まれた数年後、エルシーは自分によく似た娘を産み落とした。エルシーとその夫は、娘にヘレンと名付けた。
ブラックムーンストーン家は幸せに包まれていた。残念なことに息子夫婦には男児が中々出来なかったが、それでもカリスタは幼いながらに優秀だったし、ヘレンはエルシーによく似て可愛かった。
これからも幸せな家族として生きていくのだろうと思っていた。だが、そうはならなかった。
――姪夫婦の乗った馬車が横転し、二人とも亡くなった。
まだヘレンは言葉をしゃべり始めた頃で、最愛の娘にプレゼントを買うために二人は出掛けていた。その帰りに、雨で泥濘んだ泥に車輪がハマり、馬車はバランスを崩して倒れたのだ。
その日は雨が降っており多くの人間が外出を控えていて、発見が遅れた。馭者は死ななかったものの衝撃で長い間意識を失っていて助けを呼べなかったのだ。
医者によれば、夫は即死だっただろうが、エルシーは暫く意識があったはずだというのである。雨の中、誰かに助けを求め続けていたのかも知れないと――。
どうしてだとボニファーツは憤った。どうして、何も悪い事をしていない、ただただ幸せになろうとした者たちが次から次へと不幸に見舞われなければならないのか。何も悪くないヘレンは、こんなに幼いのに親を失ってしまった……。
ボニファーツも、妻コローナも、誓ったのだ。
ヘレンを愛し守る筈だったエルシーたちやコーリーたちに代わって、必ず、この子を愛し、守っていくと。
そう、誓った…………。
■
馬車の中。ボニファーツの向かい側に、妻コローナとヘレンがいた。ヘレンは泣き疲れて眠っている。
引っ越しの準備はヘレンには伏せられていた。知れば、文句をつけて泣き騒ぐに決まっているとデニスが考えたからだ。息子の考えは正しく、いざ引っ越す段階でニールとは結婚できない事、ブラックムーンストーン家は当然ヘレンは継げない事、もう王都にはいられない事を告げるとヘレンは大声で泣き叫びながら抵抗した。大の男でも一人では押さえきれないほどに泣き、自分の部屋に閉じこもろうとするヘレンにキレたデニスは、ヘレンの両手両足を紐で縛って馬車に積み込んだ。あまりの扱いにコローナは怒ったが、デニスはそんな実母を冷めた目で見て「貴女も早く馬車にお乗りください」と告げるだけだった。
前子爵夫妻は新子爵の命令通り、馬車に乗り込むしか出来なかった。
見送ったのはデニスやフィーネ、そして使用人たち。
その中にカリスタの姿はなかった……。
やっと眠りについたヘレンの頭を撫でながら、コローナは赤子に囁くように言った。
「大丈夫よヘレン、グレイニーは良いところですからね」
グレイニーは貴族たちの避暑地として人気の高い場所だ。人気のない田舎にやらなかったのは、家族としての情か……それともすぐに用意できる家が無かったからか。ボニファーツには、どちらであったのか分からない。
■
前ブラックムーンストーン子爵夫妻とヘレンが乗った馬車が完全に見えなくなる前に、デニスは背を向けた。それを、デニスの横で見つめていた妻フィーネが呼び止める。
「最後まで見届けなくて、宜しいのですか」
「ああ。爵位を継いだ直後だ、仕事は山積みだからな」
もう、生家の当主という地位は、デニスの物になっていた。
デニスは両親を疎んでいた訳ではない。王宮で長年働いていた父も、それを支えていた母も、尊敬していた。けれどもただ一点、彼らの異母妹の血を継ぐ者たちに対する態度だけ、どうしても、心に引っかかるものがあった。
ヘレンが望む物をカリスタに譲らせる。
その構図は、形は違えど、デニスとエルシーの間にもあった物だった。
幼い頃からデニスは、両親の愛情は己よりもエルシーに向いている事を知っていた。それでもカリスタの現状よりましだったのは、デニスとエルシーは性別が違うので普段から与えられるものが違った事。それから、ヘレンと違いエルシーやその母コーリーの性格が良かった事だろう。
エルシーは感情的になる所はあったけれど、さっぱりした所もあり、後々まで怒りや恨みを引きずらない女だった。コーリーはいつも家を継ぐ血筋であるデニスに対して、一歩引いて立てるという事を意識してくれていた。
だからデニスの幼少期はそこまで悲惨ではなかった。
それでも、親の目が向かないというのは悲しいものがある。耐えていたのに、年々、両親を見ている内に堪え切れなくもなっていた。
フィーネがカリスタを産んだ時。父母は最初に「男児ではないのか」と言ったのだ。勿論貴族の跡継ぎとして男児の方が望ましいと考えられているのは分かる。それでも、最初にかけた言葉がそれであった事はデニスの心に残り続けた。
――その数年後、エルシーがヘレンを産み落とした時に「なんて可愛い女の子なんだ!」と二人がそろってエルシーを褒めているのを見て、デニスの心には暗いものが生まれていた。頭で必死に当主候補のカリスタと、何の関係もないヘレンでは立場が違うと言い聞かせても、完全に自分を納得させることが出来なかった。
それでもエルシーたちを恨むのは嫌だった。恨めばもっと自分が惨めになると思っていた。
……両親を共に失ったヘレンに対しても、最初のころは純粋に心配し同情していた。
だがヘレンは両親とは似ても似つかぬ、我が儘な人間へと育っていった。誰が悪いかと言われれば、それはボニファーツとコローナに決まっている。二人はヘレンの育て方を決定的に間違えた。それを止めきれなかったという点では、デニスにも罪があるとは思っている。だがもう、あそこまで育ってしまった怪物を、自分の家族の傍に置いておくことは出来なかった。デニスには何よりも守らねばならないものがある。
「お父様。……もう行ったのですか?」
屋敷に入れば、恐る恐るという風にカリスタが階段を下りてくる所だった。カリスタを見たヘレンがもっと暴れる可能性を考えて、部屋にいるように命じたのはデニスだ。
「ああ、行ったよ」
そっと、妻と娘をデニスは抱き寄せた。そして自分に言い聞かせた。
――私は間違わない。最愛の家族を、正しく守って見せる。