【07】穏便な(?)婚約解消
翌日にはツァボライト子爵からブラックムーンストーン子爵に対して来訪し直接話したいという手紙が来た。
「カリスタ。お前は基本的に出る必要はない。私が話をつける」
朝から父デニスは、カリスタにそう説明した。その上で、もしかすれば当事者として呼び出されるかもしれないので、人前に出られるように準備だけはしておいてくれと伝えられる。
「分かりましたお父様。……その……」
「どうかしたか?」
「…………私、最終的にはおじい様やお父様の決定に従いますわ。ですが、その…………万が一にも、婚約が、戻る可能性はあるのでしょうか……?」
おずおずとカリスタが尋ねると、デニスはそっと笑顔を浮かべた。笑顔は笑顔なのだが、娘であるカリスタが見ても少しゾクッとするような笑顔だった。
「たとい何があろうと、そんな可能性はない。安心なさい」
デニスはそうカリスタの頭を撫でて、ツァボライト子爵の来訪を待った。
■
ブラックムーンストーン子爵家にツァボライト子爵とニール・ツァボライト男爵令息が訪れたのは、昼を少し過ぎた時間帯であった。それを出迎えたのはボニファーツ・ブラックムーンストーン子爵と、デニス・ブラックムーンストーンの二名である。一夜明けて、ボニファーツは昨夜の憔悴ぶりが嘘のように……とまではいかなくても、多少疲労を感じている程度に体調を回復させていた。本人の意思もあり、今回の話し合いに参加する事となった。……ボニファーツの体調が実際のところはどうであれ、明らかに体調が悪いですという顔で話し合いの場になど出られない。相手に足元を見られかねないからだ。そのあたりの自己管理能力は、流石に長期間王宮で働いていただけあるなとデニスは思った。
難しい顔をしたツァボライト子爵と、魂が抜けたような顔のニール。ニールの顔は腫れていて、恐らくツァボライト子爵に殴られたのだろうと、その場を目撃した訳ではないブラックムーンストーン側も一目で理解できた。さもありなん。両家の婚約は、そもそもがツァボライト子爵とブラックムーンストーン子爵ボニファーツの二人が王宮で同僚として働いていた時期があった事から始まっている。ツァボライト子爵は自分の分家である男爵家が事業の発展に躓いている事と、元同僚であるボニファーツが孫娘の婿取りをどうするか悩んでいる事を知り、そこを結び付けようと持ち掛けたのだ。この婚約の立役者はツァボライト子爵と言える。彼からすれば、自分の分家が自分の顔に泥を塗りたくった状況な訳で真っ当な貴族当主であれば許しがたい愚行である。
ツァボライト子爵が大きく頭を下げて謝罪の言葉を吐こうとしているのを見て、デニスは先手を打った。
「昨日そちらのニール・ツァボライト男爵令息が我が娘カリスタ・ブラックムーンストーンに対して婚約解消を願い出ました。こちらとしても結婚の準備を本格的に始めようとしているこの大事な時期に婚約解消を一方的に、何の断りもなく、個人の考えで決定するような者を婿入りさせるつもりはありません」
「デニス殿!」
ツァボライト子爵が青ざめながらデニスの名前を呼ぶ。デニスからすれば親とも兄とも言い難い年齢の相手だが、年上だからといってこの主張を曲げるつもりはない。
「これはブラックムーンストーン家の総意です、ツァボライト子爵」
ツァボライト子爵はボニファーツに縋るような視線を向けたが、ボニファーツは無言で見返すだけだった。味方にはなってくれないと分かり、ツァボライト子爵は肩を落とす。
もしかすれば彼は婚約解消はニール一人の暴走であり、ニールには罰を与える代わりにツァボライト男爵家との婚約は解消しないでほしい、等と交渉するつもりで来たのかもしれない。ツァボライト側からすればそのような事が出来れば、それが最善策になるだろう。とはいえそれはツァボライト側の事情であり、ブラックムーンストーン子爵家からすると関係ない、どうでもいい話だ。
「更に、カリスタがその際、ニール・ツァボライト男爵令息がブラックムーンストーン子爵家に対してお家乗っ取りを考えているというような話をした、と聞いております。これは由々しき事だ、そう思われますでしょうツァボライト子爵」
「っ、お言葉ですが。その一件についてニールを焚き付けたのは、そちらにおられるご令嬢と伺っておりますが?」
やはりそう持ってきたかとデニスは嘆息する。
「こちらにいる令嬢……ああ、もしやヘレンの事でしょうか?」
「ええそうです。ブラックムーンストーン子爵家のご親戚のご令嬢だとか。そのご令嬢が、カリスタ殿を追い落として当主になろうと画策しており、ニールは愚かにもその策に引っかかったのです。勿論他家の跡取りについて口を出す等、領分侵害甚だしい。ニールの処遇はこちらが責任をもって対処致します。しかしその一件について、全責任をニールに被せ、ツァボライト家の名を必要以上に貶めようとする事は当主として受け入れる訳には参りません」
「ツァボライト子爵。残念だ。長年我が家と関わりを持っていながら、貴方は根本的な事すら把握されていないのですか。それとも、敢えて話題を避けているのでしょうか」
ツァボライト子爵が片眉をついと上げる。視界の端で、ニールが虚ろな目をデニスに向けていたが、デニスは彼には目も向けなかった。
「我が家におりますヘレンに家を継ぐ事など端から不可能なのです。故にあの娘が、正当な権利を持つカリスタを押しのけて当主の座に就こう等と考える事は有り得ない。焚き付けた者がいるとすれば、それはニール殿の方でしょう」
「嘘だ!」
ツァボライト子爵が口を開こうとしたのを遮るように、突然ニールが大声を出した。そして彼は立ち上がった。「おい!」とツァボライト子爵が険しい顔で彼を座らせようとするが、ニールはその手を振り払う。
「ヘレンは幼い頃からこの家で暮らしてきた、しかもブラックムーンストーン子爵も夫人も、ヘレンの事を何より大切だという風に可愛がっていた! あれほど深い関係でありながら、家を継ぐ権利すら持たない親族な訳がない! 貴方はカリスタの父親だから、カリスタのためにヘレンを陥れようとしているんだ!」
「ニーッッ!! 黙れ! デニス殿になんて口を!」
ツァボライト子爵の顔が真っ赤に染まり、外聞も忘れてニールを椅子に戻そうとする。ニールはそれに反抗しながらデニスの事を睨んだ。デニスは大きく息をついた。それから、横に座る父を睨む。貴方のせいだろうという言葉はボニファーツにはしっかりと届き、ボニファーツは肩を落としながらニールの勘違いの原因を説明しだした。
「違うんだ、ニール君。ヘレンは……ヘレンは私の孫ではない」
ニールは口ごもったが、すぐに首を横に振った。
「嘘だ、嘘だ。そんな訳ない。あれほど大事にしていて、貴方たちの孫でないというのなら、なんだというのですか、子爵!」
「嘘等ではない。あの子は、私の腹違いの妹の孫だ」
ボニファーツの言葉が理解できない。そんな顔をしているニールに、デニスは少しだけ同情した。デニスには彼がボニファーツの言葉をすぐに理解できない理由が、理解できた。
ジュラエル王国は血統の管理等が他国よりハッキリしているせいか、余程の事でもなければ同じ血族同士で集まり、徒党を組む傾向にある。それでもやはり一番に考えるのは己の血統だ。ボニファーツ夫妻のヘレンの可愛がり方は、異母妹の孫という離れた関係性とは到底思えないものだった。
「それから、あの子には家を継ぐ権利はない。何故ならあの子は、戸籍上、平民だからだ。我々の誰とも、養子縁組もしていない」
これにはツァボライト子爵までもが、信じられないという顔をしていた。
ヘレンが実孫ではない事は把握していたが、彼女の身分までは確認していなかったようだ。
「あ、有り得ない。ならば、何故ヘレンは貴族学院に通っていたんです? 何故デビュタントをしたんですか!」
当然の疑問である。ボニファーツは最早力なく俯いていたが、横に腰かける息子が冷たい目で自分を見ている事に気が付いて、随分と老けた声で話し出した。
「貴族学院は…………基本的には貴族のものであるが、貴族の後ろ盾があれば平民も通えるのだ……」
現在は昔とは違い、平民たちの力も強くなりつつある。下手な貴族の家よりも、裕福な商人の家の方が金を持っている事も少なくない。そんな彼らに、国でも一番の教育機関だろう貴族学院が使えないのは不公平ではないかと話が上がったのはもう数世代前の事。貴族学院の規則が改訂され、平民も入学できるようになったのだ。
そうはいってもどこの誰でも自由に入学させる訳には行かないので、条件はある。貴族と同等の学費を払う事や、どこかの貴族が身元を保証する事などもその条件に含まれている。
ヘレンの学費はブラックムーンストーン家から、ボニファーツや妻コローナの強い希望で支払っていた。当然、ヘレンの身元を保証するのもボニファーツとコローナだ。代々の当主の殆どが王宮で役職を得ていたブラックムーンストーン子爵家の当主が保証するのだから、問題もなくヘレンの入学は受理された。
「デビュタントは……あの子が強く望んだから、雰囲気だけでも味わわせてあげようとしたのだ……」
「ふ、雰囲気……?」
「……君が、納得いかないのも仕方ないだろう、ニール君。だが事実だ。ヘレンは平民であり、本来デビュタントは必要ない。しかしヘレンが自分もデビュタントをしたいと騒ぎ、我が父母は彼女にデビュタントごっこをさせる事にしたんだ」
「ご、っこ……」
膝から崩れ落ちるように、どさりと、ニールが椅子に戻る。
「ごっこ……したがったから……そんな理由で……?」
「分かってもらえたかな。我が父は、昔から異母妹の孫娘を異常なほどに可愛がっていた。外聞も気にせずにデビュタントの真似をさせるぐらいにね。早くに親を亡くしてしまった事が不憫だったのもあるのだろうが。――しかし、ヘレンは生まれた時からブラックムーンストーン子爵家を継ぐ権利は持たないし、適切なうちに適切な嫁ぎ先を用意して、この家から出て行ってもらう予定でいたのでね」
デニスの言葉にツァボライト側はノロノロと顔を上げるだけであったが、横のボニファーツは勢いよく顔を上げた。その顔は驚愕に染まっている。デニスは勿論、ボニファーツがヘレンを大切に手元で育て、最終的には最後まで面倒を見ようという気持ちすら持っている事を知っている。しかし次期当主として、己の家の後継問題に口を出そうという娘を家の中に残す事など出来ない。…………それだけでなく。実の親が、己の娘を蔑ろにする場を何度も見てから、いつかヘレンにはこの家を出て行ってもらうとデニスは決めていた。
「この際、ニールとヘレン、どちらが先に相手を焚き付けて、こんな愚かな事を考えたかなどはおいておこう。どんな過程があったにせよ、現状から…………私は、父親として、次のブラックムーンストーン家を担う当主として、調べればわかるヘレンの身の上を調べもせず、入り婿の身分でありながら正統な後継者を退けようなどと考えたニール・ツァボライトをこの家に入れるつもりは一切ない。婚約解消は決定だ。破棄にしたって良いぐらいだがね」
「…………解消と、いう事にして頂きたい…………」
ツァボライト子爵が絞り出すようにそう言った。部屋の隅に控えていた家令が書類を出す。婚約解消についての書類だ。ツァボライト子爵はそれにサインをしようとして、それから途中の条項を見て顔を上げた。
「で、デニス殿。この一文は……」
そこには、婚約に伴い結んでいた契約は全て解消とすると書かれている。
当然だ。全てはニールがカリスタの入り婿となりカリスタを支えていく事と引き換えに、ブラックムーンストーン家が代々王都で培ってきた人脈を無償でツァボライト男爵家に貸し与えていたのだから。
前提が無くなるのならば、当然、結論も無くなるものだ。
「不服があるというのなら、婚約破棄を焦点にして争っても構わない」
その一言でツァボライト子爵は今度こそ完全に撃沈し、無言でサインをした。それから、ニールの事を怒りと恨みを込めた目で睨みつけながら、彼にもサインを促した。抜け殻のようになっていたニールは、震える手で、その一番下に自分の名を書き記した。
こうしてニール・ツァボライトとカリスタ・ブラックムーンストーンの婚約は、無かった事となった。
◼️
カリスタは何も言わず、廊下の窓から、外を見下ろしていた。落ち込んだ様子で馬車に乗り込む二人の人。ツァボライト子爵と、元婚約者のニール・ツァボライト男爵令息の姿を見つめていた。
書類を早々と役所に届けるために出て行った家令から、掻い摘んで説明だけはされていた。二人の婚約は無事に解消されたと。婚約以外で関わりがあった家の人間でもないので、二人はもう赤の他人だ。
ニールの事を愛していた訳ではない。それでも数年間、将来的に結婚する相手として接してきた。その相手との関係がなくなった事に、心が僅かにざわめいていた。
こうなる前にどうにか出来なかったのかと、考えてしまう。自分の悪かった所はどこだろう……どうすればこんな問題が起きなかっただろうか…………そんなことばかり、どうしてもカリスタは考えてしまった。
「カリスタおねえ様!」
「…………」
少し感傷に浸っていたカリスタであったが、それを一瞬で消し去る煩わしい声にそっと表情を消す。
そっと横を見れば、ヘレンが立っていた。ニコニコと、笑顔を浮かべて。
「何を見ていらっしゃるの?」
「……何も」
ヘレンが、カリスタの横に立ち彼女の見ていた物を探す。しかし既に馬車は出立し、ツァボライト家の人々の姿もない。
「変なおねえ様。――あっ、それより聞きましたか?」
「何が?」
「えへへ、おねえ様の婚約者のニールね、私の事が好きなのですって! だから私と結婚して、ブラックムーンストーン家を継いでくれるって言ってくれたの!」
カリスタは耐えきれず、溜息を吐き出した。瞬間的に感じた怒りだとか、不快感だとかを即座に抑えたのだ。……ヘレンはまだ知らないのだ、カリスタとニールの婚約が解消されたことを。だからそんな事を言うのだろう。
…………そうだとしても、姉と慕っている相手の婚約者を呼び捨てにし、さらに堂々と浮気の宣言をして、お家乗っ取りまで告げるなんて、最早何かの病気なのかとすら思ってしまう。
ニコニコと微笑んでいる顔からして、悪意はないのかもしれない。その方が遥かに性質が悪いが。
「ヘレンこそ聞いていないの?」
「?」
「私とニール様の婚約はもう解消されたわ。彼はブラックムーンストーン家とはもう、何の関係もない人よ」
カリスタの言葉にヘレンは実母譲りの青い瞳を瞬かせた。
どんな反応をするだろうか。怒るか、喜ぶか――。
次の瞬間に答えは出た。ヘレンはパッと花が咲いたような笑顔を浮かべた。彼女は喜んだ。
「まあ! おじい様、もう私のお願いを聞いてくださったのね! ニール様を譲ってくれてありがとうおねえ様、私、ニール様と幸せになるわっ!」
――カリスタは言葉も出なかった。
ただただ笑顔で。幸せそうに。そして何の後ろめたさも感じずに。
(この子には、恥なんて感情、ないのだわ)
勝手にカリスタの手を取って、親しげに近づいてきて、笑顔を向けて。
それからカリスタへの興味をなくしたように雑に手を振り払うと、ヘレンは走っていった。……恐らく、祖父に、誤解でしかないお礼を言いに行くのだろう。
彼女は自分の願いが叶わないとは考えない。「おじい様」と「おばあ様」は必ず願いを叶えてくれると信じている。……信じている段階すら超えて、そういうものだと思っているのだろう。
「…………気持ち悪い」
口にしてから、ハッとして口元を手で覆った。けれどもう、言葉にしてしまった。形にしてしまった。カリスタの中で、ヘレンへの感情は定まってしまった。
祖父母が聞けば怒るだろうと予想がつく。だが、もういいやと思えた。
「私は、ヘレンが、気持ち悪い。大嫌いだわ」
誰に聞かせるでもなく、カリスタはそう、独りごちた。
あと2話ぐらいで終わります。たぶん。