【03】ニール・ツァボライト男爵令息という男
作者の表現が分かりづらく誤解を招いてしまっていますが、
・ツァボライト子爵家(王都在住)
と
・ツァボライト男爵家(ニールの実家、領地に住む)
は別の家です。
男爵家の本家であるのが子爵家です。
ニールは王都で暮らすにあたり、親戚の家に居候している状態です。
それからニールとヘレンは、カリスタのいない所で会って話すようになった。とはいってもヘレンはまだデビュタントも済ませていないらしい。年齢的にはそろそろしておかしくないのだが、義父であるカリスタの父が何も準備をしてくれないのだと言う。
「やっぱり実の娘だけが可愛いのよね。仕方ないわ」
ヘレンは悲しそうに眉尻を下げながらそう言った。
ニールは将来的な義理の父に対して苛立ちを抱く。勿論ニールとて、血の繋がった子供と血の繋がらない子供がいたら気持ち的に難しい所が出来るというのは想像がつく。それでも養女としたにも関わらず、貴族令嬢として必要な事もしてやらないなんて許せなかった。ヘレンは確かに実の娘ではないだろうが、間違いなくブラックムーンストーン子爵家の血筋なのだから。実家にいた頃ならばともかく、王都で数年過ごしたニールは、貴族の令嬢令息にとって社交界デビューがどれほど大事な事か痛感している。それをしなければまともな大人とも見做されないのだ。
「お父上に一言申し上げよう。僕も付き添うよ、ヘレン」
「大丈夫よ、ニール様。おじい様にはもう頼んであるの! おじい様がドレスもとっても素敵なものを用意してくれる事になってるから! カリスタおねえ様のより素敵なのが届くのよ! きっとおねえ様も羨ましがるわ~」
ヘレンがそう言うので、ニールは将来の義父に物申しに行く事は止めた。
彼女の言う通り、その少し後にニールも後見人のツァボライト子爵らと共に参加した夜会にて、ヘレンが義祖父であるブラックムーンストーン子爵に腕を引かれてデビュタントをすませているのを目撃した。すぐ傍にはヘレンにとって義祖母である子爵夫人も付き添っており、三人は本物の祖父母と孫のように幸せそうだった。
よかったと思った。……けれど同時に、美しい少女であるヘレンの腕を、年老いた老人が引いている光景が、酷く胸をざわめかせた。
ブラックムーンストーン子爵と一曲だけ踊った後、ヘレンは他の令息たちに囲まれ、一人ずつダンスを踊っていた。特別うまくはないが、下手だと言う程でもない。何よりヘレンほどの美しい少女と物理的に近づけるのだから、多少踊り下手でも男は気にしなかっただろう。
ヘレンは初めての夜会だからか、誘われるがままに踊っている。けれど少しすると疲れてしまったのか、その顔にわずかに陰りが見えた。
ニールはそんなヘレンに声をかけた。
「ヘレン。一曲踊らないかい?」
「ニール様! ええ、勿論っ」
二人で人々が踊るホールを回る。
「少し疲れたようだね、大丈夫?」
「ええ、これくらい何ともないわ」
そういいながら、ヘレンは下からニールを見上げて微笑んだ。
…………ああ、自分はヘレンに惹かれている。
ただただ義務として接しているカリスタには一度も抱いた事のない感情だった。カリスタとの関係はどこか冷めたものがあった。ニールは出来る限りカリスタを尊重したし、カリスタもニールを蔑ろにしていた訳ではない。けれどお互いの間に、愛も恋もなかった。
触れている手を、強く握る。ヘレンはそれに気が付くとそっと、ニールの体に自分の体を密着させた。布越しに伝わる熱に、心が熱くなる。
それからニールは、どうしたらヘレンと一緒になれるだろう? と考えるようになった。
カリスタには今まで通り接しながら、ブラックムーンストーン子爵家の外でヘレンと会う。家の外なのは、ヘレンとニールが話しているのをカリスタたちがイイ顔をしないとヘレンが言ったからだ。ヘレンは義理の祖父母には可愛がられているらしいが、義父母や義姉との関係は難しいままだという。
「昔は仲が良かったのよ。それがあるころから、急におねえ様は意地悪になった」
よくある事だ。本当に幼い頃は、ニールは何も考えずに兄弟たちと過ごしていた。年が上がるごとにそれぞれの格付けのようなものが生まれ、嫉妬したり足を引っ張たりするようになるのだ。
ツァボライト子爵家の仕事を手伝いながら、あれこれと情報を仕入れる。
明らかにツァボライト男爵家が下手に出て成り立っている婚約だ。しかしこれを壊したい訳ではない。だからこそ、やはりカリスタとは穏便に事を済ませたい。或いはカリスタが明らかに欠点を持っていれば、それを理由に有利に立てるだろうが……。
カリスタは確かに男を立てることを知らない女だが、女当主として育てられた貴族令嬢などそんなものだ。周りから見ても彼女の態度はニールに同情が集まるほどの酷さはない。
そして彼女は平凡で、だからこそ目立つ欠点もなかった。
ヘレンとの仲を深めていくうちに、次第に四つ下のカリスタの貴族学院の卒業が近づいてくる。
どうしようと頭を悩ませていたニールはある夜、酒場でとある貴族たちの噂を聞いた。
「婚約者を、交換?」
「そうそう。元々は姉妹の姉の方と結婚する予定だったが、あまり関係が良くなかったらしくてな。で、妹の方とは相性が良かったから、婚約を姉から妹にスライドさせたらしいぜ」
「どんだけ魅力なかったんだよ、その姉の方!」
「いやいや、妹が魅力的過ぎたんじゃねえの?」
「姉妹がどうのにはあまり興味がないが……そんな事、親は許すのか?」
「逆に許すだろう、政略10割の婚約だろ? 相性が良くない奴らを結婚させて、結婚後に仲が悪化して事業とかに影響が出る方が問題だろうからな」
「その点、妹との婚約にするだけなら、家同士にも影響ないし! あったまいいな~」
友人の言葉にニールは確かにと頷く。元々愛し合っての婚約という訳でもなく、完全な政略結婚ならば、結婚するのは極論誰でもいいのだ。ツァボライト男爵家から婿入りする事になっているニールの結婚相手は、カリスタでなくてはならない訳ではない。
いや確かにヘレンは次代子爵である未来の義父の娘ではないが、現在の子爵の孫ではあったはず。ヘレンはそんな風に説明していた筈だ。実の孫でもなければ、子爵はともかく子爵夫人もあそこまで可愛がりはしないし、それは事実だろう。
順当にいけば現当主の次はカリスタの実父だ。それを否定して割り込む事は、流石にニールも考えていない。だが、その次はカリスタでなくていいはずだ。カリスタは女で、ヘレンも女。そしてどちらも現当主の孫娘。家の血を守るという観点では同じなのだから!
「そうか、そうすればいいんだ」
カリスタの父は反対する可能性が高い。しかし何を言っても、ブラックムーンストーン子爵家の全権を握っているのは現子爵で、カリスタの父ではないのだ。あれほどヘレンを可愛がっているブラックムーンストーン子爵だ、将来的な跡を継ぐのがカリスタではなく美しいヘレンになる事を喜ぶに決まっている!
そこから、ニールはヘレンにその話を告げた。ヘレンは最初こそ「でも、おとう様が許さないわ……」と一歩引いていたが、ニールの説明を受けるうちに目を輝かせ始める。
「まあ、確かに! おじい様とおばあ様はいつも、私を第一にしてくれるの、だから二人ならカリスタおねえ様ではなく、私が跡を継いでも怒らないわ。ううん、きっと喜んでくれるっ!」
「そうだろう」
「あ、でも」
ヘレンは両手で頬を覆った手はそのままに、ニールを見上げた。
「私、あまり政治とか、難しい事は分からないの。……ねえニール。婿入りするのなら、当主補佐ではなく、私の代わりに当主になってくれない?」
心臓が大きく跳ねた。
「あ、ああ――勿論。どちらにせよ、僕がする仕事は変わらないんだ」
「本当? ありがとうっ! ニール大好き!」
花が咲いたように、ヘレンが笑った。
「おじい様には話しておくわ。だからニールは安心してねっ」
ヘレンはニコニコと笑ってそう言ってくれた。
それからしばらくヘレンからは、説得がどうなったかの進捗を聞けなかった。ニールはその間ひどくヤキモキしながら、ヘレンからの返事を待っていたが、返事のないままカリスタが貴族学院を卒業してしまった。
仕方ない。このままでは二人の結婚式の準備が本格的に始まってしまう。ニールは腹を括り、カリスタを訪ねてブラックムーンストーン子爵邸を訪れた。昼間であったので、現子爵も、カリスタの父たちも仕事で忙しいようだった。
「それで。本日はどのようなご用件でしょうか」
カリスタは婚約者に向けるにしては冷たい顔でニールを迎え入れた。笑顔の一つでも浮かべられないものかとニールはイライラする。それを押さえて、カリスタが興奮しないように、努めて落ち着いて伝えた。
「君との婚約は解消する」
カリスタは僅かに眉を上げてニールの顔を見たが、少ししてから頷いた。
「では、その旨はお父様とお爺様にお伝えしておきます」
「ああ、よろしく頼む」
カリスタが騒ぎ出さない事に安堵しつつも、同時に、むかついた。政略による婚約とは言えど、普通婚約が無くなると話されれば慌てるものではないか。それなのにカリスタは取り乱す事もなく頷いて終わりだ。
婚約者としては不十分だったが、それはそれ。これはこれだ。
突然婚約を失ったカリスタは、その上、この後子爵位の跡継ぎの地位も失うことになる。それを突如伝えられたら、どれだけ驚くだろう。それで取り乱すのは可哀想だと思い、ニールは伝えてあげた。
「君の今後は安心してくれ。将来のブラックムーンストーン子爵家当主として、しっかりと君の新しい嫁ぎ先を探しておこう」
「……はい?」
カリスタはそこで初めて、目を見開いてニールの顔を見つめた。やっとまともに視線が合ったと思った。
子爵位も継げぬ上に、この年で突如婚約を解消されたカリスタでは、真実はさておき妙な噂が回るに決まっている。だからこそ、跡取りとしてニールとヘレンがカリスタの嫁入り先を探してあげなければと話していたのだ。
「大丈夫、この家は僕と君の義妹のヘレンで守っていくから」
だから君は安心して、嫁いでいけばいい。ニールは言いたい事を全て告げ、満足を得て子爵邸を後にした。
あとはヘレンが子爵に話を通してくれている筈だから、数日のうちに婚約者の変更が決定するはずだ。……ああでも先に、ツァボライト子爵にも報告はした方が良いかもしれない。きっと彼らも喜んでくれる。だって当主の婿として、仕事の補佐をする二番手として望まれたのではなく、ニールは当主として望まれたのだから!
「ようニール。機嫌が良いな!」
「ああ。近日中に、願いが叶うんだ」
酒場の知り合いの飲んだくれに声をかけられて、ニールは上機嫌にそう返事をした。飲んだくれはニールの真横に移動してくる。
「おっ、なんだなんだ。何の願いが叶うんだ? マスター酒!」
「秘密さ。そのうち、正式に発表されたら教えてやるよ!」
「そうかよそうかよ。よぉ~しじゃあ前祝だ! 飲もうぜ!」
別段、ニールを心から祝福したい訳ではないだろう。ただ飲みたいだけだ。そんな事ニールは分かっているし、今は気分が良いからいくらでも酒を飲んでやろうという気分だった。
そしてその日は店が閉まるまで飲んだくれたニールは、明け方、散歩と朝の冷たい風で酔いを冷ましながら未だに下宿しているツァボライト子爵家の門を通った。
「ニール様がお帰りになりました!」
普通に帰ってきたニールを見たメイドの一人が、そう大声で叫んだ。
何事だと思っている内に使用人たちが「旦那様を!」と叫んでいる。一体何事だ? まさか、ニールがブラックムーンストーン子爵家を継ぐ話がもう伝わっていたのだろうか。まだ酔いが完全に消えておらず、頭がうまく回らない。
ニールは使用人たちによって、応接間の一つに放り込まれた。水をくれと言っても使用人たちは険しい顔で何も言わない。いつもなら「はい畏まりました」と言って持ってきてくれるのに。世話になっている立場だが、同時にツァボライト子爵家から見るとニールはお客さんでもある。だからこそ本家の令息たち並……まではいかずとも、いつも丁寧に接せられていた。いつもと違う雰囲気に首を大きくひねっていると、挨拶もなしにドアが開いてツァボライト子爵が入ってきた。寝起きらしい。寝間着の恰好のまま、最低限人前に出れるようにしたという恰好だった。時間を考えればそれもそうだ。
「どうかしたのですか」
そう問いかけようとしたニールの言葉は、ど、ぐらいで止まった。
顔に感じた強烈な痛みと共に、ニールの視界は暗くなり、同時にその中にちらちらと光が散ったように点滅していた。
子爵に殴られたのだ。
流石に酔いも醒め、床に倒れこんだニールは子爵を見上げる。
「な、何をッ」
「貴様はいつから私が取り持った婚約を一存で解消できるほど偉い立場になった!!」
ツァボライト子爵の怒号にニールは尻込みしそうになるものの、上体を起こして、なんとか彼の怒りを鎮めようと言葉を尽くすことにした。一体全体カリスタやヘレンは……いや、ブラックムーンストーン子爵家は今回のカリスタとの婚約解消及びヘレンと婚約を結ぶ件を、どのように伝えたのか。きっと誤解を招く言い方をしたのだろうと思いながらニールは言葉を重ねる。
「落ち着いてください。確かにカリスタとの婚約は解消しましたが、代わりにヘレンと婚約を結ぶことになるんです!」
「ヘレン? 貴様、カリスタ嬢という婚約者がいながら浮気していたのかッ!」
怒りを鎮めるどころか爆発させてしまったらしい。ニールはちぎれそうなほど首を横に振る。
「ち、ちがっ」
実際のところ、カリスタがいながらヘレンと友好を深めていたのは場合によっては浮気といっても良い。体の関係とかがなかったので、法律的には難しいが、常識的には良い顔をされない行為だ。
「ヘレンはカリスタの妹で! 僕はカリスタとではなく、ヘレンと結婚して、婿ではなく当主としてブラックムーンストーン子爵家で働くのです!」
「訳の分からない事を!」
怒りに任せて、子爵はニールを追加でぶった。
「ブラックムーンストーン家から抗議の手紙が来た! 婚約を解消するというのならば、当事者に通達するよりも先にする事があるだろうと! 一方的な解消故、婚約に伴う契約も解消で良いかと!」
「た、確かに子爵にお話しするのを後回しにしてしまった事は謝罪致します! ですが契約の解消は不要です! 僕はヘレンと……」
「不要? それを決めるのはブラックムーンストーン家だ! そもそも先ほどから貴様、ヘレンヘレンと繰り返しているが、その女は一体何を持っているというのだ? お前が貴族学院で、カリスタ嬢に勝る令嬢を射止めたという話などとんと聞かぬがな」
「ヘレンはブラックムーンストーン子爵家のご令嬢ですが!」
ニールは必死に声を張り上げた。カリスタとの関係がなくなっても、ヘレンと関係が構築できれば、家同士の契約だって何も問題ないはずなのに。何故そんなに怒り狂うのだと物わかりの悪いツァボライト子爵に腹すら立っていた。
しかしそんなニールの言葉に、ツァボライト子爵は青筋を立てながら吐き捨てた。
「お前は婚約者の家の人間すら把握しておらんのか。ブラックムーンストーン子爵家の直系はカリスタ嬢ただ一人だ。カリスタ嬢には、妹などおらん!」
「……え?」