【08】ガゼボで
エピローグが遅くなってしまい大変申し訳ありませんでした!!!
南のエメラルド伯爵邸の中庭は一つの汚れもないほどに美しく手入れされている。
三大侯爵家の一角を担うエメラルドの血族。その分家の中でも力を持ち、王家からの覚えの良い家であるという自負が感じられる。
この屋敷で働いている使用人の数は、ブラックムーンストーン子爵家の何倍になるのか……その正確な差を、カリスタは知らない。
けれどそれほど多い人数であろうとも、その末端の末端まで、誇りをもって働いている。――そんな思いが見えるような庭であった。
婚約者であるフェリクスに招待され、エメラルド伯爵邸を訪れていたカリスタ。彼女は婚約者と共に、中庭のガゼボで軽食や紅茶を楽しんでいた。
同じガゼボでも、少し前にカリスタがいた貴族学院のガゼボと比べると規模も違い、過ごしやすく準備が整えられていた。
「カリスタ。君の心を苦しめているのは何だろうか」
「……え?」
それは、会話が途切れたタイミングでの、突然の言葉だった。
カリスタは予想外の言葉に薄金の目を丸くして、それから婚約者を見つめた。
フェリクスは相変わらず、少しの隙もないほどに容貌を整えていた。
公爵家出身の夫人譲りの黄色の濃い金髪。少し俯き気味なために、その金髪の下に隠れている緑の瞳が、ゆっくりとカリスタに視線を向ける。
「いつもより、君の思考は沈んでいる。カチヤが言っていたよ。学院でも今のような状態だとね。何か、君の心に巣くい続けている悩みがあるのでは……と、思ったんだ。違ったかい?」
「あ……それは……」
フェリクスの言葉で思い起こされるのは、先日の事件の顛末。そして、不甲斐ない自分の姿。
言い淀むカリスタにフェリクスは続けて声をかけた。
「カリスタ。嫌でなければ、教えてくれないだろうか。婚約者として、君の心の重荷を軽くする手伝いが出来れば、と思っているのだけれど」
フェリクスの表情は真剣で、本当に、カリスタの事を助けたいと思っているのだというのがよく伝わってきた。
けれどだからこそ、カリスタは己の悩みを彼に話して良いものか、判断が出来なかった。
何せカリスタの悩みというのは……彼を含むエメラルド伯爵家が持つ影響力を、自分は『ブラックムーンストーン子爵』として正しく使えるのだろうか? という極めて個人的な悩みだったからだ。
(貴家の力の強さについて……なんて、伝えて良いものか……)
フェリクスが伯爵家の長男である事なんて、最初から分かっていた。
この結婚によってエメラルド伯爵家とブラックムーンストーン子爵家が親族になり、今後二、三世代ほどは血縁もあり関わりを持つ事も多くなるだろう。
(エメラルド伯爵家の存在の大きさや強さなんて……今更すぎる事柄だわ)
婚約前や、婚約直後ならばいざ知らず。
婚約をしてもうすぐ一年という今になって、相手の家の事で悩んでいるなんて、口に出すのも恥ずかしい。
そんな思いもあり口籠るカリスタに焦れたように、フェリクスは椅子を移動した。気が付けばフェリクスはカリスタの真横にいて、カリスタの手を握り込んでいた。それに、カリスタの胸はやたら大袈裟に跳ねてしまう。
「カリスタ」
「ぁっ」
もう一年近くになるが、いまだに直接的な接触には慣れない。肩や腰に手が回るのは、服越しな事もあり比較的慣れた。ただ、手を握るような肌と肌が触れ合う接触は、どうにも相手の温度を直接的に感じてしまい、恥ずかしいのだった。
頬を赤らめて視線をそらすカリスタだったが、フェリクスはわざわざ顔を覗き込んでまで視線を合わせてから重ねて言う。
「どうか教えて欲しい。必ず解決出来るとは約束出来ないけれど……それでも、君の苦しみを、どうか私に分けて欲しい」
そんな事を、必死な顔つきで、フェリクスは言うのだ。
普段は凛々しさを強調する眉が、少し中央により、垂れ下がる。
光の角度の問題なのか、緑の瞳がどこか潤んだように見えた。
貴族学院に通っていた頃の『フェリクス・エメラルド』しか知らない人ならば、別人かと思うだろう。
それぐらい、今現在多くの人が抱いている『フェリクス・エメラルド』のイメージからかけ離れた姿だ。
けれどカリスタにとっては、あまり違和感がないのだ。
カリスタは幼馴染として、彼の幼い頃を知っている。幼い頃、――言葉を選ばずに言えば――泣き虫だった、彼を。
昔を少し彷彿とさせる、どこか庇護欲を誘うような雰囲気の見える顔を見せられると、どうにも心がかき乱されて仕方がなかった。そういう顔を、今はもう世間の人々には見せる事がないと分かっているからこそ……余計に、くるものがあった。
フェリクスが意図的にこういう顔をカリスタに見せているのか、それともただ自然とそうなってしまうのかは、分からない。
だがこの顔で迫られてしまうと、カリスタは中々強く否定が出来ないのだった。
「……わ、私は……己がただ、情けなくて落ち込んでいただけなのです」
「情けない? 何がだい」
「それは……。……エメラルド伯爵家という、フェリクス様の家の名の持つ、力の大きさをしっかりと理解する事が出来ていなかった事を、です」
フェリクスは少ししっくりきていない様子で、カリスタに先を促した。
その瞳に失望や呆れが混ざるのが恐ろしくて、カリスタはフェリクスから視線を外しながら語った。
「いつも、エメラルド伯爵にも夫人にも、とてもよくしていただいておりますわ。私も、父母も、その事に深く感謝しております。ですがそれに甘えているだけではならないと、常々思っておりました。私は次期当主として、何かに甘えるような形ではなく家を盛り立てていかねばならないと……。そう、思っておりましたのに…………今回の一件では、何一つ自分の力で解決する事も出来ませんでした。そうして結局、フェリクス様やエメラルド伯爵家の御威光を利用したような結果になりました」
そっと目を閉じる。瞼の裏には己を睨むツェーズィー・ブルースピネル令嬢の姿が浮かんだ。
「私がもっと違う動きが出来れば……ブルースピネル様には、もっと違う未来もあり得た筈でしたのに……」
「それはどうだろうか。むしろ、今この時に彼女の行為が表沙汰になったのは、本人にとっても、周囲にとっても幸せな事だったかもしれない」
「え……?」
予想外なフェリクスの言葉に、カリスタは目を丸くした。
「考えてみるんだ、カリスタ。どういう経緯があったかは分からないが……元ブルースピネル嬢は、ヘレンに強く執着していた。そしてその執着から、直接ヘレンから頼まれた訳でもないのに、カリスタを害そうと考え、行動までしたんだ。……同じような執着を、今後別の人間にしないとも限らないだろう? ヘレンは彼女を自覚的に悪用はしなかったが、次に彼女が執着する相手がそうとは限らない。たとえ本当に反省したといわれても、簡単には信じられないと思わないかい?」
「……それは……そう、ですね」
ヘレンだけが特例だったといわれても、本当にそうである証明が出来ない以上、懸念はついて回るだろう。
「それに……正直に言うけれど、元ブルースピネル嬢の行動は、普通の貴族令嬢の思考から導き出されるものだとは思えないな。嫌がらせや復讐を使用人に命令をした、という形ならばまだわかる。だが彼女は最初から、全て自分の手で行ったそうじゃないか」
(……確かに)
一般的に貴族令嬢が誰かに嫌がらせをするとしたら、最初に考える手は、言葉での攻撃だろう。
カリスタは誰かに嫌がらせをしようと考えて行動した事はないけれど、物に対するものであれ、人間に直接触れるような形であれ、物理的な攻撃を最初に思い浮かべる事はない。
令息でも、育ちが良ければ良いほど、自分で動くのではなく、誰かを使おうという発想になるだろう。
いくつもの分家を抱える領主の娘であるツェーズィーの育ちを思えば、最初から自分で、と動いた彼女は異常だった。
「元ブルースピネル嬢がこの先貴族として生き続けたとして……また誰かを害さないとは、正直言いきれない。次に傷つけた相手が、カリスタのように穏便な結末を望んでいない相手であれば、不幸になるのは元ブルースピネル嬢本人だけではない。直接血の繋がりのある者……そして、彼女の兄姉と縁づいた者たちにまで、その咎と悪評は及ぶだろう」
親族郎党に及ぶまで、咎が及んだ事例は過去いくつも存在する。
時には、家が完全に断絶しなくてはならない事例もあった。
そういう時、ジュラエル王国は血縁の関係性が濃くなりがちなお国柄故、連座の規模も大きくなりがちなのだ。
「ブルースピネル家が元ブルースピネル嬢に対して重い罰を与えたのは、そのような未来の可能性を危惧して、末子を平民にした上で蟄居させる事にしたのだと、私は思うよ」
「……そのような可能性は、考えておりませんでした」
「珍しい。君が理由は一つしかないと本気で思っていたなんて」
「私など……まだまだ未熟者ですから」
「私もだよ。いくつになればお父様のようになれるのか、想像もつかない」
フェリクスは「それから」と、前に垂れてきたカリスタの髪を後ろに流しながら、言った。
「彼女は、ヘレンとは違うよ」
びくりと体を揺らしたカリスタを見つめるフェリクスの瞳は、優しかった。
「確かにヘレンも元ブルースピネル嬢も、貴族令嬢の普通からは程遠い思考をしていた。どちらも、形は違えど君に対する執着もあっただろう。けれど、ヘレンと元ブルースピネル嬢は、別の人間だ」
義理の妹と、義理の妹に心酔していた令嬢。
彼女たちは別の人間だと、カリスタは理解している。……理解していた、つもりだった。
だけれど、フェリクスの言葉を聞いているうちに、カリスタは気が付いた。自分の瞼の裏に焼き付いたツェーズィー・ブルースピネルの姿に、元義妹を重ねている自分がいる事に。
「特に……ヘレンに関しては、あの性格になった事には、前子爵の影響も、強くあったと思う。でも、元ブルースピネル嬢は違う。ブルースピネル子爵も夫人も、彼女の兄姉も、ごく普通の貴族だ。そして、元ブルースピネル嬢に対する態度が何か問題があったという話もない。それでも彼女はああだった」
「……」
「人を形作るのは教育だという。けれど、その教育ではどうしようもない、個人が生まれ持っている性質というのもある。……少なくとも、私はそう思う。だから必要以上に、あの二人を重ねる必要もないし…………、元ブルースピネル嬢の未来を君が背負う義務は、ない」
カリスタはそっと、両手で口元を覆った。溢れそうになる何かを、ゆっくりと、鎮めたかった。
フェリクスはそんな彼女の背中を、優しくなでた。
「……ありがとう、ございます」
カリスタからそんな言葉が出てきた所で、フェリクスは「もう一つ」と、婚約者に忘れないように思っている事を伝えた。
「我が家の権力を使う事も、カリスタにとっては重荷みたいだ。けれどそれも、あまり重く考えすぎる必要はないよ。私と共に、どのように使うのが最適か、探っていこう」
「フェリクス様は、いつも正しく家の名をお使いになられていますわ」
「まさか! カリスタ、君からはそう見えているのかもしれないけれど……私もカチヤも、家の力を今も正しく、完璧に扱えているとは、言えないさ。……それに、私が知っているあり方は、まだ伯爵令息としてのものだけだ。ブラックムーンストーン子爵の夫として、実家の持つ力をどう扱うかは、経験した事がないよ。だから共に、学んでいこう」
カリスタの頭を、フェリクスは優しく撫でる。
「形は少し違うけれど……生き方が変わるのは、私も、君と同じだよ。……カリスタは、いつも、『自分一人で立たねばならない』、という気持ちが強いね。そんな、努力を忘れない君が私は愛おしい」
フェリクスの腕がカリスタの背中に回り、そっと抱き寄せられる。近づく暖かさを拒絶する事はせず、カリスタは静かに受け入れた。
「でも、時折でもよいから、思い出してほしいな。私は君を支えたいと、今だってずっと、思っているんだ」
「あ……」
ぱちりと一回瞬きをして。
それから、カリスタは自分の胸にため込んでいた色々を、息と共に吐きだした。
その言葉を聞くのは、初めてではない。フェリクスは、初めてカリスタに想いを告げてくれた時からずっと……支えたいと、言ってくれていた。
「フェリクス様は……最初からずっと、そう言ってくださっていましたね……」
「君に対する気持ちは少しも変わっていないからね」
少し茶目っ気をにじませて、フェリクスはそういった。その言葉にカリスタも、少しだけ笑みを浮かべた。
抱き寄せられた胸元に、カリスタはそっと頭を預ける。体重そのものを預けてしまっても、フェリクスは全く揺れる事もなく、しっかりと彼女を支えていた。
何かが大きく、変化した訳でもない。
ハッキリと終わりと言える解決をした訳ではない。
フェリクスと婚約してから、カリスタ自身が大きく成長できたのかも分からない。
(そんな私でも、フェリクス様は共にいてくださる。共に成長しようと、仰って下さる。私は本当に……恵まれているわ)
閉じた瞳から小さな雫が、ゆっくりと落ちた。