【04】身の危険
ブラックムーンストーン子爵家の小さな談話室。
そこに集ったカリスタ、カチヤ、フェリクスの三人は学院から届いた結果に眉根を寄せた。
「本当にあの二人は違ったの?」
「ええ、そうみたい」
カリスタは、二人に資料を見せた。それは不特定多数に広げる訳にはいかない資料であるが、フェリクスは婚約者。カチヤは将来的な義理の姉妹であり、何より信頼があるからこそ、資料を見せた。
資料に目を通したカチヤは首を横に振った。
「確かに、これでは棚を壊す事は難しいでしょうね」
当初カリスタたちが考えていた「犯行の方法」というのは、「犯人は授業中の時間帯に棚を壊して中身を荒らして去った」、というものである。
学生用倉庫は確かに広いが、休み時間にはかなりの人数が出入りする。そんな中、目撃情報もなく棚を壊して中を荒らす事はかなり難しい。
だからこそ一番有り得るのは、授業中という学院内でも自由に動く人数が最も少なくなる時間帯に、犯行に及んだという事であった。
「両名とも、確実に授業に参加をしていた事が確認が取れているの」
学院からの報告では、カッターニ・ホワイトオパール男爵令息と、アイヒト・パパラチアサファイア子爵令息、どちらも、カリスタたちが被害に気が付いた休み時間直前の授業に参加していたのだ。
無論、授業に参加していたのであれば不特定多数の学生が彼らを目撃していたという事になる。
これは強いアリバイであり、時間的制約から、彼らが犯人である可能性は著しく低いという事なのだ。
授業中が無理なのであれば、それ以外の時間帯で棚の鍵を壊したりしたのでは? とも考えられるだろう。
だが今回の場合、それも難しかった。
あの時カリスタが授業を受けていた教室より、両名が授業を受けていた教室は遠いのだ。
いくら男子学生といえど、カリスタより早く学生用倉庫に訪れて、鍵を壊し、中の物をぐちゃぐちゃにしてしまうのは、かなり難しい。万が一できたとしても、それほど急いで移動していたら目立つ事は不可避で、人々の記憶に残るだろう。
そういう証言も記録も何もない以上、この二名がカリスタの棚を荒らした可能性は限りなく低かった。
「申し訳ない事をしてしまったわ……無実の相手を疑うなんて」
「カリスタ。今回の事件が無実だったとしても、あの二人がやたらと貴女を睨んでいたのは事実でしょう? どのような理由があっての行為かは知らないけれど、因縁とも言えるような過去があった関係の相手をあれほど睨んでいたら、疑われるのは当然だわ。そう気にする必要はないでしょう」
カチヤはそういうけれど、カリスタは、
(私の中に、ヘレンと親しかった者への強い偏見があるので……)
という思いがぬぐい切れなかった。
(いつか子爵家の当主として立つ時には、己の中にある感情的なものに惑わされるようではいけないわ)
「だが、この二名も違うと分かり……現状、学院の調べでは、犯人の可能性がある者も浮かび上がっていないというじゃないか。学院の調査はどうなってるんだ?」
フェリクスは少し不満げな声でそう、資料をめくりながら言った。
「フェリクス様。そのようにおっしゃらないで下さいませ。少なくとも、いつ棚が壊され、荒らされたのかは殆ど特定できた状態ですわ」
「時間帯だけでは意味がないよ、カリスタ」
どうやら本気で不満……不機嫌らしい婚約者に、カリスタは困ったように眉尻を下げた。
フェリクスの言う通り、今の所、学院からの報告では犯人は分かっていない。
変わりに、カリスタの棚があった列の棚を借りている学生たちの目撃情報を募った所、棚が壊されたある程度の時間は絞られた。
授業、休み時間、授業、休み時間、という風に交互に時間はやってくる。
考えやすくする為に事件が起きたとみられる直近の時間帯に数字を割り振れば、
『①授業』、『②休み時間』、『③授業』、『④休み時間』、という風に出来るだろう。
カリスタたちが被害に気が付いたのが『④休み時間』。
そして、学院が調べた結果、学生たちの目撃情報では、『①授業』から『②休み時間』で倉庫に来た学生で、棚が荒らされている事に気が付いた者はいなかった。
あれほど大げさな被害だったので、もしその時点で犯行が行われていたとすれば、気が付かないはずがない。
『④休み時間』でカリスタたちより先にあの棚に近づいた学生たち――あの時、第一発見者としてその場にとどまっていた学生たち――は、既に変わり果てた後の棚しか見ていない。
となれば、犯人がカリスタの棚の中身を荒らしたのは、『③授業』の時間帯である可能性が極めて高いという事だ。
無論、目撃情報を学院に提出した者の中に犯人が混じっていたとすれば、情報に偽りが含まれている可能性もあるが……カリスタたちが個人で動いて集めるよりも、学院が主導で集めた情報の方が量も多いはず。それだけの量が集まっていれば、ある程度の信頼は持てる。
犯人はまだ見つかっていない。だが、この『③授業』の時間にアリバイのない人間を重点的に調べれば良いのだから、捜査は前に進んでいる。
「フェリクス様は意味がないと仰いますが……むしろ、重要な条件ではないでしょうか? 犯人を絞り込む為には、いつどのように犯行が行われたかを調べるのが、とても重要な事だと思いますわ」
「そうよフェリクス。学院の調査結果に不満があるのは分かるけれど、だからといってわたくしたちにまで不愉快な気持ちを向けてこないでちょうだい。一人で不機嫌になっていなさいな」
令嬢たちの言葉に、フェリクスは少しだけ言葉を詰まらせてから、萎れた花のようになった。
「……すまない」
「あぁら誠意が足りない謝罪ですこと」
「申し訳ない……」
「声が小さくて聞こえませんわ」
「カチヤ。そのあたりにしてあげて」
これ以上は、縮こまって消えてしまいそうだと、カリスタは親友を止めた。
◆
学院の調査はその後も行われたが、犯人の特定には至らず月日だけが過ぎていった。
カリスタが受けた被害についても、幸いな事に目撃者たちがむやみやらと広めることもなく、まるで過ぎ去った事のように埋もれていった。
無論、カリスタたちは忘れた訳ではない。簡単に泣き寝入りするような真似をすると、次回から――そもそも次回などない方が良いのだが――下に見られて曖昧な調査をされる可能性も危惧し、デニスは定期的に学院に捜査の進捗を問うている。
ただ、時間が立てばたつほど解決が難しくなっていっているというのも、カリスタにはよく分かった。
人の記憶は薄れていくし、時間を置けば置くほど証拠も処分されてしまうだろう。大げさな問題にして要らぬ噂を立てられないようにと目撃者たちには広めないように通達を出してもらったが、話題に出ていない事からそのまま逃げ切ろうと犯人が考えている可能性もある。
「初動調査で犯人を絞り込めなかったのが痛かったわね」
「そう、ね……」
カチヤの言葉はその通りであったが、あの二名以外にあからさまにこちらを恨んでいそうな学生への心当たりはなかった。完全に表に出さず、水面下で恨みを煮詰めていたのだとすれば、カリスタにはもうどうしようもない。
「そういえばカリスタ。被害にあった図書室? で借りたという本についてはどうなりましたの?」
「ああ……あの本ね」
図書室で借りた、論文の為の資料集めで借りていた本だ。
棚が荒らされた際に、かなりのページをぐちゃぐちゃに折れたような状態で落とされていたうえ、そのうえから液体をかけられていた。
被害はかなり深刻で、場合によっては弁償しなくてはならない事態になっていたかもしれない、とカリスタは覚悟していた。
本は安くはない。ジュラエル王国では印刷技術などが比較的普及している事から、薄手の本ならば平民でも割合手に入れる事が出来るが、しっかりとした装丁の分厚い学術書などになると、とてつもない額を出さねば手に入れる事すらできない。
それ故、高位貴族の間では、持つ者の少ない本を持っていることすらステータスとなっている。
貴族学院はそういう意味で、本を好む学生にとっては天の国のような場所だ。たいていの本は借りていく事が出来るし、学生であれば読み放題だからだ。閑話休題。
「学院から連絡があったのですけれど……弁償などをする必要はないとの事でしたわ」
「そう。それは良かったわね」
「ええ。流石にあの本を弁償するとなれば……かなり困る事になっていたでしょうね」
カリスタの生家、ブラックムーンストーン子爵家は領地を持たない貴族家。
収入は当主である父デニスの俸給と、先祖が手に入れて管理している土地や建物から手に入る収入などである。
領地を持たない家の中では、後者の収入もある事から、比較的安定した生活を送れているとカリスタは認識している。
だがしかし、お金は無尽蔵にある訳ではない。
あの分厚さ、あの情報量の本の弁償となれば、一括での弁償を求められれば家が所有している土地などを売り払わなくてはならないだろう。分割でも、かなり生活を圧迫させる事になりかねない。
そういう意味で、学院の本の管理部から弁償を求められたら、大変なことになっていたのだが、今回はカリスタは完全な被害者だと認識してもらえたらしく、弁償は求められなかった。
「あっ」
己の思考に沈みがちであったカリスタの意識は、カチヤの声で浮上する。
「そろそろ時間だわ」
カチヤの視線の先には、学院内にいくつもおかれている時計の一つだ。
それを見て、カリスタも思い出す。今日、朝から「この空き時間に、分家の方々とお茶をする予定なの」とカチヤに言われていた事を。
「本当ね。カチヤ、楽しんできてね」
「楽しいかどうかは分からないけれど……、もし何か、今回の事件に関係ありそうな話があったら、カリスタにも教えるわ」
それではね、とカチヤは長い黄色みの強い金髪を揺らしながら歩いて行った。その姿を見送って、カリスタも立ち上がる。
ここ最近は、荷物を出来る限り全て持ち運ぶようにしていた。今まで使っていた倉庫はしばらく使用禁止となり、カリスタには新しい倉庫が割り当てられたが……あのような事があったばかりで、倉庫を使う気にもなれなかったからだ。
お陰で、少し腕に力がついたような気もする。
令嬢によっては、力をつけたりする事を嫌がる者もいるが、カリスタは将来的に働いていく立場にある。そうした背景もあり、ある程度の力が付く事はあまり悪い事ではないと認識しており、重い鞄を持って歩き続けていた。
(次の時間は資料の纏めでもしようかしら。図書室で読ませてもらえば、万が一にも破損したりする事はないわ)
汚れて使えなくなってしまったという本は、カリスタ自身もまだ読みたい本だった。
それだけでなく、カリスタ以降の後輩たちも、本来ならばあの本を読んでいたはずだ。それが出来なくなったのは犯人のせいだが、カリスタが図書室の外にまで本を持ち出したから被害にあった、ともとれる。
少なくとも、カリスタの気持ちとしては「あれほど貴重な本だったのだから、図書室で読めばよかった」という後悔の気持ちがぬぐえなかった。
鞄を持ちながら廊下を進む。宮殿の廊下の如く、横幅は広く、人とすれ違うのに苦労する事もない。カチヤと共にいる時と違い、カリスタ一人になってしまえば、周囲からの視線が突き刺さる事は殆どなかった。
そうして何人もの学生とすれ違い、階段にさしかかる。
貴族学院の階段はその場所その場所に合わせて設置されているので、さまざまな形状の階段が存在している。
この階段は一番シンプルな、直階段になっており、下の階に降りる為に真っすぐに降りていく事になる。
階段はうす暗かった。カリスタの背後にちょうど太陽があるような光の入り方をしているのだ。階段の中腹ぐらいに、ちょうど、階段を上ってきている男子学生数名の姿が見える中、カリスタは降りる為に片足を前に出した。
どんっ。
カリスタの体が一気に前のめりに浮かぶ。
それは強い力だった。
何かしらの悪意を込めたような、偶然では片づけられないような感触だった。
(あ――)
カリスタの喉からは、何も声が出なかった。
悲鳴もないまま、ただ、己の体が階段を踏み外すように浮かびあがり――そして、落ちるのを感じた。
直線的な階段には、途中でカリスタの体を止めてくれるような踊り場もない。このまま、一階まで落ちるのかもしれない――無駄に理性的な声が、彼女の脳にこだました。
(っ、いやっ!)
カリスタは両手で持っていた鞄から手を離した。そうして、自分の横側にあるはずの手すりに向かって、精一杯手を伸ばす。浮き上がりかけていたといっても、彼女の体は大きく浮かび上がっていた訳ではない。何とか、手すりに手が届く。
うまくつかめないのは焦り故か。つるりと滑る手すりを、けれど離してたまるかと、強く握る。
がくんと体が倒れ込む。足は階段をうまく踏めず、膝部分から崩れ落ちる。スカート越しとはいえ、階段に強く強打した膝から下部分がかなり痛い。
だがそれ以上に、カリスタは己の失態に即座に気が付いた。
落ちないようにするために、咄嗟に手放した鞄だけが、そのまま勢いよく飛んだような形になってしまったのだ。
(しまった!)
今のカリスタの鞄はかなりの重さがある。誰かにぶつかったりすれば、相手が怪我をする可能性が極めて高い。本の類は、量が多いとそれだけで凶器になりかねない重量なのだ。
しかも間の悪い事に、この階段にはカリスタ以外の使用者がほかにもいた。
ちょうど上ってきていた、数名の男子学生たちである。
なんとか階段を転がり落ちる事なく止まったカリスタが顔を上げて見たのは、突然の出来事に驚いて目を丸くしている男子学生たちと、彼らの方角に向かって勢いよく落下していく自分の鞄である。
今から、鞄をキャッチしにカリスタが出来る事などない。今のカリスタに出来るのは、鞄の危険性を伝えるために声を出す事だけだった。
「よけてください!」
焦りの滲んだ声は階段によく響いた。
男子学生の殆どはその声にも反応できず、呆然と落ちてくる鞄を見つめているだけだった。
そんな中、一人だけ、反射的に動けた学生がいた。
背の高い学生の影に隠れて姿が見えなかったその一人は、落下してくる鞄に立ち向かうかのように前に進み出た。
令嬢の鞄だから軽いと見たのだろうが、実際には男子学生ですら毎日持ち歩くのは少しおっくうな程度には重い。下手な手の出し方は、相手の手首を駄目にする結末にしか辿り着かないだろう。
「だめっ」
カリスタは目を見開いた。これから起きるだろう悲劇を想像し、顔は血の気が引いていた。
だが、驚いたことに、カリスタの想像は――鞄が誰かの体を強く打つだとか、骨を折るだとか、あるいはぶつかった学生が階段から転がり落ちていくだとか、だ――何もかもが外れた。
ドサッという、重量に比例するような鈍い音を立てながらも、男子学生は片手でカリスタの鞄を受け止めたからだ。
「っとっとっと」
階段を上るような体制で受け止めたからか、すこし上体をそりながらも、眼下にいた学生は問題なく、カリスタの鞄を受け止めていたのだった。
目を丸くして固まるカリスタに、学生たちが近づいてくる。
「大丈夫ですか……!?」
鞄を抱えているのは、少女のような愛らしい顔つきの男子学生である。
どこかで見た事のある顔だが、少なくとも同学年ではない。真新しい制服である事も加味すれば、おそらく今年入学した一年生だろう。
共に行動しているらしい男子学生たち数人の中で一番小柄な彼が、一切の問題なく自分の鞄を受け止めた事に、カリスタは心底驚いていた。
「は、はい、大丈夫です……」
「良かったです! 鞄、たぶん何も壊れたりはしていないと思うのですが……確認なさってください!」
「ありがとうございます」
と受け取りながら、カリスタはハッと目の前の少年を見る。
「その」
「はい!」
「手、は、大丈夫でしょうか……? 私の鞄は、かなり重かったと思うのですが」
「問題ありません!」
ニコニコと、少年が笑う。
確かに、嘘を言っている風ではないが、簡単には信じられない。本当に問題はないのかと再度問いかけたカリスタに、駆け寄ってきていた一年生だろう学生の一人が口をはさんだ。
「恐れ入ります、先輩。彼は愛らしい顔立ちをしていますが、ルビーの一族の者なのです。少なくとも、この場では誰よりも体が丈夫ですから、ご心配には及ばないかと」
「ルビーの……そうでございましたか」
その言葉で、目の前の少年が軽々と鞄を受け止めた理由に納得する。
ルビーの一族。それはジュラエル王国を守る剣であり、盾でもある。長い歴史上、戦が起きた時に、その名前が出てこない事はない、というほどに、武勇を誇る一族だ。
素手で岩を砕くだとか、木の幹をへし折るだとか、さまざまな話題に事欠かない一族である。
そのような一族の者であれば、重い鞄を片手で軽々と受け止めれてもおかしくはない。カリスタの学年にもルビーの血筋の学生がいるが、男も女もそこらの鍛えている者より強いぐらいだ。
通常であれば、カリスタに関わりがある事で怪我をしたのであれば、誠意のある謝罪と共に治療の面倒を見るなど、しっかりと気を回す必要がある。
だが、ルビーの一族の者が相手であれば、過度に怪我を確認をするような行為の方が、ルビーの誇りを傷つけかねない。
「……鞄を受け止めて下さり、ありがとうございます。中身も……特に壊れている物もありませんわ」
「それは良かったです! ……失礼かもしれませんが、足などを強く打たれたように見えましたが、医務室までお連れしましょうか?」
「いえ。不要ですわ。お気遣いいただき、ありがとうござ――ッ!」
少年との会話の最中、カリスタはハッと振り返る。己が落ちてきた階段の上には、誰もいない。
落ちた事に気を取られていて、背後に気を遣うのを完全に忘れていた。先ほど落ちた時、カリスタは確かに、誰かに背中を押されたのだ。これはカリスタが足を踏み外して起きた事故ではない。
慌てて階段を駆け上がり、カリスタは廊下を確認した。けれど、そこには怪しい姿は一切なかった。歩いている人の姿の中に、カッターニ・ホワイトオパール男爵令息やアイヒト・パパラチアサファイア子爵令息のような、『ヘレンと関わりがあった者』の顔もない。
「あの……どうかされましたか?」
学生たちは、挙動不審のようなカリスタの動きに首をかしげながら、恐る恐るという風に訪ねてきた。
少し迷ったが、カリスタは彼らに自分が誰かに背中を押された事を告げた。驚いている一年生たちに「私の背後にどなたかの姿を見たりしましたか?」と尋ねてみたが、誰も見た者はいなかった。友人同士での話に夢中だったそうだし、まさか「目の前で誰かが突き落とされようとする」なんて想定して階段を上る訳もない。仕方のない事だった。
「その……それでしたら学院に色々とご報告に我々も言った方が宜しいのでは?」
「はい。私の方から、報告は上げますわ。場合によっては皆さまにも、学院から目撃情報の調査が入り、ご迷惑をおかけしてしまうかもしれませんが……」
「もちろんご協力いたします!」
目の前で令嬢が危害を加えかけられたというのは、若い令息たちには衝撃的だったようだ。義憤にかられた様子で力強く頷いてくれた彼らの名を、一人ずつ確認だけさせてもらう。
その中で、ピンクの学生の名前も分かった。
「ハーロルト・チェリーピンクルビーと申します」
学生たちに改めて、危険な目に合わせかけた事の謝罪と、出来れば今日の出来事は広めないで欲しい旨を伝えてから、カリスタは一人で歩き出した。頭の中で立てていた予定は一旦横に置き、今回の一件を、学院に報告しなくてはいけなくなったからだ。
その道中、カリスタは苦しんでいた。足の痛みに、ではない。
(やはり、どこかで見た事がある気がするわ、鞄を受け止めてくださった学生の方……)
鞄を受け止めた男子学生――ハーロルト・チェリーピンクルビー子爵令息と名乗った彼を、カリスタはどこかで見かけた事がある気がしてならなかった。
ただ、衝撃的な出来事の直後だったからか、どうにも思い出せないのだ。
(どこでだったかしら……お名前は聞いた覚えがなかったわ。だから、お顔だけどこかで拝見したのだと思うのだけど……)
直接話したことはないはずである。話していれば、もっと記憶に残っている。
だとすると可能性が高いのは、知っている人物と彼がともにいた姿を見たというものであろう。
(一体、どこで――――あっ! 思い出したわ。あの方……ラピスラズリ様がお連れになっていた方では?)
以前、イリアが誰かの為に事前に本を探していた事があった。おそらくその相手だろう少年を連れて図書室に訪れていた事があったが……その少年が、先ほど鞄を受け止めた少年だと、カリスタは思い出したのである。
(思い出せてよかった。……今度、ラピスラズリ様にもお礼を伝えておいた方が良いでしょうね)
違和感が解決し、少しだけスッキリした気持ちにカリスタはなれた。
そのお陰かは分からないが、落ち着いて学院側には事情の説明が出来たと思っている。
学院からしても、少し前に棚が荒らされた後に、落とされたとなっては、大きな問題だ。話を聞いた職員は顔色を変え、しっかりと腰を据えて話を聞いてくれた。
今回は被害があってすぐに報告をした。……だが、前回より、更に特定が難しい場所での状況だった。
廊下を通っていた学生を突き止めるのは、倉庫の利用者を突き止めるより難しいのは、明らかだった。
「我々も、最善を尽くします」
確実に犯人を捕まえるとは言い切れないらしい職員が、苦々しい顔をしているのを、カリスタは静かに見つめる事しか出来なかった。