【03】疑わしき
ジュラエル王国王都は広い。その中で、貴族の邸宅が集中して集まっている住宅街は、貴族街と呼称されている。
貴族街は王都の東西南北にそれぞれ存在しており、ブラックムーンストーン子爵家は北部貴族街と呼ばれる区画に家を持つ。貴族学院からは、比較的近い所に存在している為、通学の負担はそう多くない。
二代目当主が陞爵されて、子爵位を賜った時に建てられた家は、やや歴史を感じる佇まいではあるものの、立派な外観をしている。家族三人が暮らす家としてはやや広いのは、元々はもっと多くの人間が暮らしていたからか、はたまた二代目当主の見栄故にこの大きさになったのか。
そんなブラックムーンストーン子爵家に、カリスタ、その両親である子爵夫妻、それからカリスタの婚約者であるフェリクスと、親友カチヤが揃ったのは、その日の夕方の事であった。
子爵家の敷地に入ってきた豪奢なエメラルドグリーンの屋根を持つ馬車から降りてきたフェリクスは、カリスタを見ると大股で近づいてきた。
妹であるカチヤと同じく、黄色みの濃い金髪は短めに整えられており、家名でもあるエメラルドと同色の緑の瞳は、真っすぐにカリスタを見つめていた。
「カリスタっ!」
フェリクスは人前――子爵夫妻やカチヤだけでなく、多数の使用人たちがいる――だというのに、カリスタを両腕で強く抱きしめた。
「ふぇ、フェリクス様ッ!」
フェリクスがカリスタの身や心を心配してくれているというのは、よくよく通じた。だが、人目を考えない訳にはいかない状況だ。
カリスタは顔を赤らめながら体をねじったが、男性の力を振りほどく事は出来もしなかった。
どうやって離してもらおうか――とカリスタが思った瞬間に、フェリクスの真後ろから普段よりも低い声が響く。
「フェ、リ、ク、ス? わたくしの親友が困っていますわ。今すぐその腕を離しなさいな」
カチヤが、ニコリと、ほほ笑んでいる。
ほほ笑んでいるのだが、背後に何か違うものが見える気がしてならない。
いつもであれば、フェリクスも応戦してエメラルド兄妹の軽い喧嘩が始まる所だ。けれど今日はフェリクスは応戦する事なく、すぐにカリスタを離した。
そうして一行が屋敷内で揃い、何があったかを当事者であるカリスタから再度説明した。
幸い、家に帰ってからも気持ちを入れ替える事が出来たので、言葉に詰まったり冷静さを欠くような事はなかった。
「倉庫の鍵は壊されていたのか」
「はい」
学院からは細かい事は調査中としか言われていないが、現場を見たので、カリスタは自分の倉庫の鍵が壊されていたのを見た。おそらく何かをぶつけて無理矢理開けたのだと思われる。
父親であるブラックムーンストーン子爵デニスの方を見ながら、カリスタは言葉を続けた。
「おそらくですが、私を狙ったものだと思います」
「あまり考えたくはないが……鍵を壊し、カリスタの棚だけが荒らされていたのであれば、その可能性は高いな」
「けれど、一体誰がそのような事を……?」
娘の頭を撫でながら、カリスタの母である子爵夫人フィーネが悲しげな声を出す。
「カリスタが誰かの恨みを買っているなんて、あまり考えられないわ……」
「全くです」
フェリクスは将来の義母に強く同意した。
しかし、そんな話を聞いていたカチヤは子爵夫人や実の兄とは違う見解を出した。
「そうでしょうか。……フィーネおば様には申し訳ないですが、些細な恨みで良ければ、カリスタもいくらでも買う機会がありますわ」
「カチヤ。お前!」
「すぐ熱くならないでくれます? フェリクス。第一に、カリスタはわたくしの親友よ。わたくしと親しくなりたいと考える人間からすれば、目障りな存在だわ。第二に、フェリクス、貴方を慕う人間にとっても、同じことが言えるわね」
「う…………」
カチヤの言葉にフェリクスは反論が浮かばなかったのだろう、数秒後に「それは、そうだが……」と肯定するもののまだ反発心が残る答えを出した。そんな兄を横目で呆れたように見ながら、カチヤはカリスタを見る。
「それに、カリスタは成績優秀よ。少しでも上の成績を取りたいと考えている者からしても、目障りな存在だわ」
親友の言葉に、カリスタはゆっくりと頷いた。
「そうね。カチヤの言う通り。……お母様、お父様。私は、意図的にどなたかから強い恨みを買うような事をした覚えはありません。けれど私が今いる場所に登りたいと考える者にとっては、恨みを向けるに値する存在ですわ」
「そうだろうな。ブラックムーンストーン一族にしても、カリスタに対して複雑な感情を向ける者も多かろう。何せ、婿や嫁となる者の後ろ盾で考えれば、今、カリスタを超える相手を婚約者として抱えている者はいない」
と、デニスは頷いた。
■
フェリクスとカチヤの生家であるエメラルド伯爵家の強さは、一族内に通じる強さがあるだけでなく、王家からも認識されている、という点である。
そのうえ、フェリクスたちの母で現エメラルド伯爵夫人は数ある公爵家の一つの出身。
エメラルド伯爵夫人の実家は現在、夫人の実兄が跡を継いでいる。つまり、現公爵はフェリクスからすれば伯父にあたり、フェリクスとカチヤは揃って公爵一家と付き合いも持つ。
つまり、――実際にその力を安易に使えるかは別として――周囲の人間は、フェリクス一人の背中に、『実家であるエメラルド伯爵家』、『その本家であるエメラルド侯爵家』、『母の実家であるイエローダイヤモンド公爵家』、最後に直接的ではないものの『王家』の、四つの家の影を見る事になる。
最後の王家はフェリクス一人でどうこう出来る存在ではないものの、他三家はフェリクスから提案があれば、話を聞くぐらいはしてくれるだろう。
■
――改めて、カリスタの婿となる男の持つ肩書は凄すぎる。
「これまで、カリスタを軽んじていた者ほど、カリスタに嫉妬するだろう。人間は、初めから上にいるものには対して嫉妬をしないが、自分と同等、或いは自分より下にいると思っていた相手が上に行くと、ひどく嫉妬するからな」
デニスの言葉には、やたらと実感がこもっていた。王宮は煌びやかなだけの場所ではない。仕事では激しい出世争いが日夜行われている。その中で日々過ごしているデニスには当主としての責務と異なる心労が加わる事もあるのだろうと思われた。
「ですが、どれも、今回の加害を行った犯人と判断するには、いささか根拠が薄いですね」
フェリクスは眉根を寄せた。
そんな婚約者の表情を見ていたカリスタは、そっと息を吐いた。皆の視線がカリスタに集中する。
「……実は、屋敷に帰ってきてから思い出したのですが。一つ、心当たりがあるのです」
「なんだって?」
「カリスタ。それはなんなの?」
似た色彩の兄と妹がカリスタを覗き込んでくる。
「ただ、これは私の偏見が多く含まれてしまっているのです」
「構わない。話しなさい、カリスタ。わざわざそのような言い方をするのだ。今の時点で上がっているのとは、別の可能性なのだろう?」
「はい、お父様。……私が疑っているのは、ヘレンと親しくしていた誰かではないか、という事です」
カリスタが出した名前に、誰もが黙った。
――ヘレン。
それは、昨年、ブラックムーンストーン子爵家のお家騒動の原因となった、カリスタの義理の妹の名前である。
実際の所、昨年のお家騒動の一番の原因はヘレンではないのだが、きっかけとなった事。そして騒動の重要人物であった事には、変わりがない。
もし貴族学院にまだ通っていれば、今は二年に進級してるはずであったのだが、すでに学院は退学している。
現在は、王都から遠い土地にある、フィッツヴィールの女学院という、問題を抱えた学生が更生の為に通う事になる学校に通っている。
家を出されて以降、カリスタはヘレンとは一切関わっていない。ヘレンをフィッツヴィールの女学院に入れる事を決めたデニスはその後の経過も確認を取っているようであったが、カリスタには何も教えてくれていない。
「…………確かに、いささか偏見が入っていると思わざるを得ない話だな」
デニスは難しい顔をしながら、娘の顔を見つめた。
「だが、そこまで言うのだ。何かしら、理由もあるのだろう?」
「…………実は最近、ヘレンがとても親しくしていた学生たちの姿をよく見るのです」
学院に通っていた頃、ヘレンは一年生の間ではかなり有名な女学生であった。何せ、ヘレンに好意的な感情は持たない人でさえ認めるほどに、ヘレンは美少女であった。十人の人間がいれば、十人とも美少女であるという点を否定は出来ないだろう、というほどに。
当然、ヘレンの周りには男女問わず――男子学生の方が割合は多かったが――学生が集まっていた。
当時同じ馬車で登下校していたカリスタは、ヘレンを取り巻くようにして集まっていた学生たちの顔も名前も、把握している。万が一彼らとの間でヘレンが何か問題を起こした時、祖父はカリスタを叱ると予想が出来たからだ。
学年の違う義妹の学院生活をすべて把握することなど出来ないというのに、祖父はヘレンが学院で困ったとき、いつもカリスタを叱っていた。「何故助けなかった」と。
一度、意識して顔と名前を把握した学生ということもあり、カリスタにとっては彼ら彼女らは目立つ存在だ。
「もちろん、ただ私が彼らを見かけるだけならば、そういう事もあると思うだけでした。二年に上がれば、一年の頃よりも上級生と活動範囲が重なりやすいですから。ただ……気のせいと思うには、頻度が高い事と…………会う度に、こちらを睨むように見つめている事が、どうにも気にかかっていたのです」
「ああ……最近感じる事の多い視線は、もしかしてそれだったのかしら」
「カチヤ。気が付いていたのならなぜ私に報告しなかった」
とフェリクスが口をはさんだものだから、カチヤはキッと兄を睨みつけた。
「周囲の人間はいつもわたくしたちの事を見ているのですよ。一つや二つ少し変わった視線がある程度で、気が付けるというの? 一つ一つを気にしていたらきりがないわ」
これが自意識過剰とは言えない所が、エメラルド兄妹の凄い所である。
こほん、とカリスタは咳払いを一つしてから父を見た。
「こう言っては何ですが……ヘレンがいなくなった当初は、私の事を義妹を陥れて跡取りに納まった……というような言い方をする方もいました。今は聞く事はありませんが。……もし、そのように考え続けていて、私さえいなければヘレンが学院に残っていたのではと考える方がいるのなら……」
「カリスタを恨んでいる可能性は十分あるな。ありえなくはない。……カリスタ。お前を睨んでいた学生の事は分かるか?」
「はい。二名いらっしゃいます。一人目はカッターニ・ホワイトオパール男爵令息。ホワイトオパール男爵家の長男ですわ。ただ、ご実家のホワイトオパール男爵家の爵位は一代限りのものですので、仕官希望の可能性は高いです。もう一人はアイヒト・パパラチアサファイア子爵令息。パパラチアサファイア子爵家の五男です。パパラチアサファイア子爵家は領地もお持ちではありますが、領地はないとの事なので、こちらも仕官希望の可能性は高いかと」
カッターニ・ホワイトオパール男爵令息は、特にヘレンにご執心だった学生だ。
いつもヘレンの近くに侍り、時にはほかの学生を押しのけるような強引な姿をカリスタも見たことがある。
強い姿が男らしいと思っている雰囲気で、他の学生には威圧的な態度をとっていた印象が強い。
一方、アイヒト・パパラチアサファイア子爵令息も、ヘレンの傍に高確率でいたものの、こちらはやや影が薄かった。
気弱な雰囲気の学生で、前述のカッターニ・ホワイトオパール男爵令息に押しのけられている姿もよく見られた。
とはいえ、ヘレンに向けていた感情事態は強かったのだろうと思われる。
ヘレンが退学して、あと数か月経てば一年になる。それほどの月日がたつと、かつてヘレンの周りを囲うようにして集まっていた学生たちも、新しいコミュニティを作り出していた。いつまでも、既にいなくなった一女学生を中心に置き続ける者は、そう多くない。
そんな中で、カッターニ・ホワイトオパール男爵令息もアイヒト・パパラチアサファイア子爵令息も、カリスタを睨んでくる事が度々あったのだから……彼らにとって、ヘレンがどれだけ大きな存在だったのかわかるというものである。
(決めつけはよくないけれど、可能性が高いのは……ホワイトオパール男爵令息かしら)
二人の性格を考えた時、実際に行動に移しそうなのはカッターニ・ホワイトオパール男爵令息の方であった。少なくとも、カリスタの中ではそうだ。
しかし、この二人の名前を聞いたデニスの反応は異なった。
「なるほど……パパラチアサファイア子爵令息か……」
パチリと、カリスタは薄金の瞳を瞬いて、父親を見上げる。視線に気が付いた父は黒の瞳を娘に向けると、「どうした」と低い声で問いかけた。
「……お父様が、アイヒト・パパラチアサファイア子爵令息の名前をすぐに出されていたのに、少し驚きました」
「成程。……ホワイトオパール男爵の名前は特に覚えがないが、パパラチアサファイア子爵の名は覚えがあったものでな」
「そうなのですか? あなた」
妻の問いに、デニスは頷く。
「ああ。確か、ヘレンがまだ我が家にいた頃に、何度もヘレンとの婚約を申し入れしてきた家のはずだ」
「え!?」
若者たちは揃って驚きの声を上げた。
(い、いえ。確かにヘレンは美しかったわ。婚約の申し入れがあっても、おかしくはなかったわね……)
ジュラエル王国の王侯貴族の美醜の概念の一つには、髪と目の色彩がある。その色彩が美しかったり、家名の元となっている宝石に似ているほど、美しいと取る事が多い。
ヘレンは黒い髪とマンダリン色の瞳を持つ美少女であった訳だが、その美少女具合に拍車をかけていたのは、彼女の髪と瞳の色彩である。
親と子の色彩は、必ずしも一致するわけではない。だが一般的に、親の色彩が美しければ、子の色彩も美しなりやすいと考えられている。
そういう意味で、ヘレンは幼すぎる性格さえなんとかなれば、嫁ぎ先にはさほど困らない上にえり好みだって出来るようなモテ方をしていた。
だがしかし、カリスタは今までヘレンの婚約話を一度も聞いたことがなかった。学院に入るまで社交界的な場所に出ることも皆無だったので、まだ知名度がなく申し入れがないのかと思っていたのだが、どうやらそういう訳でもなかったらしい。
デニス曰く。
アイヒト・パパラチアサファイア子爵令息の生家であるパパラチアサファイア子爵家をはじめ、いくつかの家からヘレンに対して婚約の申し入れはすでにあった。だが、その話は当事者であるヘレンに行くことはなく、ヘレンを目に入れても痛くないほどに溺愛していたカリスタの祖父によって、すべて断られていたのだという。
「前子爵としては、ヘレンを手放したくないという理由もあっただろうが……なによりも、条件的に満足のいく相手からの申し入れではなかった、という点が大きかったのだろう。多くが、我が家のような領地を持たない貴族家だった。中には一代限りの爵位しか持たない者もいたな。……領地を持たないという事は、ヘレンの夫となる相手に十分な甲斐性がなければ、妻は苦しむことになる。……妻自身も家を支えるぐらいの活気ある人物であれば良いが、ヘレン自身にそのような甲斐性はないだろうからな」
ヘレンは自分の願望に関する事以外は受け身であり、周りが望みをかなえてくれるのを待つ性格であった。おそらく、夫の甲斐性が己の望みを満たせないとなれば、強く反発していた事だろう。
「前子爵が求めたのは領地も持ち、爵位も子に引き継げるというような安全性だったのだろう。パパラチアサファイア子爵家は領地を持ち、爵位を子々孫々引き継げる立場だ。……だが、婚約相手として先方が提示してきたのは末子のアイヒト・パパラチアサファイア子爵令息だった。せめて次男、或いは三男程度であったのなら、前子爵も考えただろうが……五男だからな。さすがに、実家からの援助がいつまでも続く事は考えづらい。そのような相手ではヘレンを預けられないと、断りを入れたが、先方もしつこく、何度も何度も婚約を申し入れる手紙を送ってきていた」
カリスタは口元を手で覆った。
カリスタが知っている、ヘレンとその友人たちの学院生活はほんの一部でしかない。だが。学院の中で見る事のあったアイヒト・パパラチアサファイア子爵令息と、父が語る執念深さはあまり結びつかなかった。
(……いいえ、むしろ学院内ではなく、学院外でそれほど動いていたというのなら……アイヒト・パパラチアサファイア子爵令息のヘレンに対する恋慕は本気だったともとれるわね)
学院の中でだけ恋人関係を楽しむ風潮というものが、学院にはある。というより、貴族の若者の間に、というべきか。
さすがにお互いに婚約者がいる状態で他の相手と恋人関係になっては不貞行為となるが、お互い婚約者を持たない身軽な貴族令息令嬢であれば、「親が結婚相手を決めてくるまで」というような条件を付けて関係を楽しむ事も多い。
アイヒト・パパラチアサファイア子爵令息はそういう簡単な関係ではなく、早い段階からヘレンとの真剣な関係を望んでいたのだ。
「アイヒト・パパラチアサファイア子爵令息がヘレンに婚約を申し入れしていた事は存じ上げませんでしたので、正直な所、カッターニ・ホワイトオパール男爵令息の方が可能性は高いかと思っておりました。けれどそこまで真剣にヘレンとの未来を考えていたのであれば、ヘレンの貴族としての未来を潰した私に対しては、きっと悪い印象しか抱いていないでしょう」
「可能性は高いな。無論、これらはすべて可能性に過ぎないし、先にあげた些細な恨みの可能性も、本当に無差別に行われた行為の可能性も捨てきれない。ともかく。カリスタ、先ほどの……二名の男子学生から睨まれていると感じていた事については、まだ学院には報告していないのだな?」
「はい。屋敷に帰ってきてから、少し気を抜いた時に思い出したので……」
「では私の方から学院にも連絡を入れておこう。そうすればあくまでも第三者の立ち位置から、学院が調査を行ってくれるはずだ」
学院内で起きた事件や揉め事などについては、基本的に当事者同士ではなく学院が第三者として立ち入って調査を行う。
これは簡単にもみ消されたりしないようにする為の対策もあるが、純粋に学院への信用問題に繋がりかねないからだ。
◆
数日後。
カリスタたちが犯人の可能性が高いとして見た、二人の学生――カッターニ・ホワイトオパール男爵令息と、アイヒト・パパラチアサファイア子爵令息。
学院側が調査した結果、彼らはどちらも崩しがたいアリバイを持っているという調査結果が、ブラックムーンストーン子爵家に届いたのだった。