【02】不穏な気配
朝の貴族学院の馬車乗り場は、いつも込み合っている。
勉強熱心な学生ほど、朝から学院に来る者が多いという事と、低学年ほど一限目から授業に参加する必要がある事が多い為である。
カリスタは授業の有無にかかわらず通学する事が殆どだ。朝の込み合う時間帯を避ける為に、一限目に合わせて通学してくる学生よりもやや早い時間に出てくる事も多い。
まだ空の色が薄い中馬車で学院にやってきたカリスタは、毎日の事ながら、大量の荷物を抱えて“学生用倉庫”を目指した。
カリスタほどでないにしろ、貴族学院で学ぶ以上、かなりの数の本やノートなどを必要とする。その日一日に使う教材をすべて持ち歩く事は、貴族の令嬢には難しいし、令息であるとしても率先して大荷物を抱えたい者はそう多くないだろう。
そうした学生たちの事情を鑑みて、貴族学院には学生用倉庫という名の荷物を保管出来る棚が立ち並ぶ区画が存在する。この倉庫はすべての学生に貸し出される訳ではなく、希望者にのみ貸し出されている。
普段からかなりの量の荷物を持ち運んでいるカリスタは、当然この倉庫を活用している側の存在である。
中々の量の荷物をもって学生用倉庫にたどり着いたカリスタは、鍵を開けて棚に簡単に持ち運べる荷物以外をしまい込んだ。その中には、先日図書室から借りた本もある。まだすべてを満足行くまで読み切った訳ではないのだが、借りる事が出来る期間が近づいている為、一度返却してから、他に借りる希望者がいないかを確認し、再度借りる予定である。
荷物をしまい込めば、カリスタも大分身軽になった。気軽に片手で持てる重さになった鞄を持ち上げた時、よく知った声が飛んできた。
「カリスタ!」
視線を向ける。そこにはカリスタの親友カチヤ・エメラルド伯爵令嬢がいた。
美しい、黄色みの強い金の髪が揺れている。
歩く所作は洗練されていて美しく、同時に、その歩みの力強さには彼女の自信が強く表れていた。
「カチヤ。今日も朝から早いわね」
「ええ。込み合う時間に通学なんてしたくないもの」
クスクスと、令嬢たちは笑い合った。
倉庫を出て廊下を歩く。朝早い時間帯である事もあり、学生の姿はまばらだ。だからこそ、気楽に歩く事が出来るというものであった。
カリスタ一人であれば、どの時間帯でも特に困るような事はない。だがしかし、横を歩くカチヤはそうもいかない。
カチヤの生家である南のエメラルド伯爵家は、この国で最も名高い一族の一つに属している。
名高い一族とは、国に三つしかない侯爵家――ルビー侯爵家、サファイア侯爵家、エメラルド侯爵家の三家を祖とする一族の事だ。
名前の通り、カチヤの生家はエメラルド侯爵家の分家の一つであるのだが、その中でも特に重要視されている。歴史も古く、王家からの覚えも良い、名家中の名家というものであった。
長らく跡取りを定めていなかった南のエメラルド伯爵家は、昨年、第二子であるカチヤを跡取りとする事と定めた。
もともと、多くの人がつい見つめて目で追ってしまうほどの美人だったカチヤだが、跡取りとなった事でさらに注目を集めるようになった。
現在は婚約者が出来た事であからさまな秋波を送られる事は減ったものの、老若男女問わず見つめてしまう容姿は変わらないので、彼女は存在しているだけでもかなり目立つ。
そうした事情もあり、普段廊下を歩いていると四方八方から視線が突き刺さる。
生まれてきてからこの方、「目立たない」という経験をした事のないカチヤは、周囲の視線など歯牙にもかけない。
一方、カリスタは――もうカチヤの真横を歩くのも四年目なので慣れたものの――これまであまり目立たないように生きてきた事もあり、今でも過剰な注目を受ける事になれていない。
そのような甘えたことを言える立場ではないものの、朝の人通りの少ない時間は、ほんの少しカリスタの気を楽にしてくれるのだ。
「カリスタ、今年の精天祭はフェリクスと共に行くのでしょう?」
カチヤから突然飛び出した話題に、カリスタは目を丸くした。
フェリクス……フェリクス・エメラルド。カチヤの実の兄であり、カリスタの婚約者である。
カリスタと結婚したいが為に、圧倒的に格上の伯爵家から格下のブラックムーンストーン子爵家に婿入りする事を選んだ人物でもある。
唐突の話題に、カリスタはやや言葉を詰まらせながら答えた。
「え? ええ、そうね。フェリクス様がお誘い下さるのなら、そのつもりだけれど……」
「愚兄がカリスタを誘わない訳がないじゃない。卒業して公職に就いたというのに、毎日のようにカリスタに手紙を送り付けているのでしょう?」
「ど、どうして知ってるの?」
カリスタは薄い金の瞳を丸くして、カチヤを見つめた。白い頬が、僅かに桃色に色づく。
フェリクスはカリスタたちより一歳年上で、昨年、無事に貴族学院を卒業した。
婚約をしてから卒業までの間、フェリクスは周りが文句を出せぬほどにカリスタを溺愛していたのだが、一足先に卒業した事でともに過ごせない時間が多くなった。
年齢が違うのであるからそうなるのは当然なのでカリスタはあまり気にしていなかったのだが、フェリクスの方はそうでもないらしく……、カリスタが四年に進級して学院生活が再開されて以降、かなりの頻度で熱烈な恋文がブラックムーンストーン子爵家には届けられていた。
まだ学生であるカリスタと違い、フェリクスは現在、王宮にて新人官吏として働き始めている。拘束される時間も多く、新年を迎えて以降、実際には二人が会っている時間は、かなり短い。
カリスタも一年後には歩む(予定の)道をフェリクスは歩んでいる訳だが、名門伯爵家出身とはいえ、新人には変わりがなく、忙しく過ごしているようだ。
そんな忙しい中でも、フェリクスは文や時々贈り物を送る事を欠かさず、あまりの頻度にカリスタの母もやや引き、父はあまりの熱烈さに――やはり男親だから難しい気持ちもあるのか――苦い顔をするほどだ。
「同じ屋敷で暮らしているのだもの。知らない訳はないじゃない」
「う、でも、意図しないと、頻度なんて把握できないはずだわ」
カリスタは疑った。カチヤが、時折ちょっと意地悪な親友が、己をからかうためにわざわざフェリクスの様子を探ったのではないかと。
けれどそんなカリスタの視線に、カチヤは気に入りの扇を口元に当てながら、肩をすくめて答えた。
「意識しなくたって目に入ってくるわ。侍女たちが便箋をもって何度も廊下を往復するのよ? わたくしとフェリクスの私室はそこまで離れていないもの。嫌でも耳にも目にも入ってくるわ」
カチヤの言葉にカリスタは何も言い返せなかった。確かに、使用人の動きから、手紙を送っているかどうかなどを把握する事は出来る。
仕事で忙しいのだから、フェリクスが手紙を書いているのは夜遅くか、朝早くのどちらかだろう。
昼間と違い、激しく人が動き回る事はあまりない時間帯だ。その時間帯に激しく人が行き来していれば、目立つに決まっている。
「わたくしだけではないわよ。お父様もお母様も把握していると思うわ。フェリクスは浮かれて気づいていないかもしれないけれど」
「ふぇりくすさま……」
カリスタは赤くなった顔を隠すように、両手で顔を覆った。
そんなカリスタの頬にカチヤは白磁のような指を滑らせて、くい、と顎を上げさせる。そうしてカリスタの恥じ入る顔を見て、カチヤは楽し気に微笑んだ。
「うふふ、可愛い顔! それほど照れなくても良いではないの。婚約者との関係が良好なのは良い事でしょう?」
まあフェリクスは少し気色悪いけれどね、と実の妹故の容赦のない発言をしているカチヤを、カリスタもまたキッと見つめた。残念ながら羞恥で赤く染まった顔と潤んだ瞳では全く威圧感はなかったのであるが、彼女たちはお互いに親友なのである。
カチヤがカリスタの急所を知るように、カリスタもまたカチヤの急所を把握している。
「カチヤこそ、そのヘアバンド、見たことがない新しいものね。愛しい婚約者様にいただいたのでなくて?」
「そっ、それは……」
そこまで攻めるばかりであったカチヤの表情が揺らぐ。凛々しい誰からも称えられる女精霊のような顔が、みるみるうちに乙女のものへ変わっていく。
カチヤはカリスタから手を離し、ふい、と横を向いた。
「……ええ、そうよ。この前、贈ってくださったの」
「まあ。可愛い顔ねカチヤ。婚約者との関係が良好なのは良い事なのだから、顔を隠さなくても良いではないの」
今度はカチヤが、カリスタをキッと睨んでくる。
カリスタは、口元を手で覆ってクスクスと笑った。
令嬢たちは戯れながら、廊下を進んでいく。暖かい春の日差しが二人を照らしていた。
■
午前のうちに行われる授業二つが終了し、昼休憩の時間となる。カリスタとカチヤは、カチヤが毎日予約している談話室にて食事をとった後、二人は午後の最初の授業に必要な教材を取る為に、学生用倉庫に向かった。
棚の森、とも言われる学生用倉庫は、慣れていない者だと目的の番号の棚を探し出すのも一苦労だった。
カリスタもカチヤも、この学生用倉庫を初年度から使い続けている為、これまで迷った事は一度もない。
二人の棚の位置はそう近くはない。なのでちょうど中間地点まで二人で歩いた後、「では入口でね」と手を振って別れるのが常であった。
ただ、今日は別れる前に、ざわめきが二人の耳に届いた。
この倉庫は基本的には声よりも物音が響いている場所だが、会話禁止ではない。なので時折、倉庫で話が盛り上がった学生の笑い声が響いている事もある。だが、二人の耳に届いたざわめきというのは、そうした声とも何か違った。
もっと不安や困惑のような、灰色の声だ。
不思議に思いつつも、二人は一旦別れた。
歩くうちに、カリスタはざわめきが大きくなっていくのに気が付いた。ちょうどカリスタの倉庫がある方角で、何か問題が起きているようで、なんだか胸がざわめく。
「みてよ、あれ」
「ひどい……」
並ぶ棚の角で、道をふさぐように二人の令嬢が身を寄せ合っていた。その表情は良いものではない。
ちょうど、カリスタの棚がある列を二人は覗き込んでいるようであった。
「ごめんなさい、通っても宜しいかしら?」
「え、ええ。あ、けれど待って。この列、今大変な事になっておりますわ」
令嬢のうち一人が、善意からそう申し出た。カリスタは「大変な事?」と言葉を繰り返して、それからその列を覗き込んだ。
数人の野次馬らしき学生が、ある棚の周囲で右往左往している。どうやら一つの棚が開いたままのようだ。その棚から落ちたのだろう荷物が、床に散乱している。
鍵を閉め忘れていってしまう学生は、たまにいる。だが問題は棚が開いたままという事ではなく――その周囲が、何やら濡れているという事らしい。
ツン、とカリスタの鼻を嫌な臭いが刺激する。
正体が何かは分からない。ただ、刺激臭のする何かがどうやら棚や床に撒かれているようで、それで濡れているようだった。
「ど、どうやらどなたかの棚が荒らされているようですの。今、最初に気が付いた学生の方が職員の方に報告に行っておりますわ」
二人組の片方が、そうカリスタに教えてくれた。だがそれにお礼を伝えるよりも先に、カリスタは床に落ちているかなり分厚い本を見て――「ア!」と悲痛な悲鳴を上げた。
手に持っていた鞄をその場に落としてしまいながら、カリスタは走った。男子学生たちは寄ってくるカリスタに「令嬢はあまり近寄らない方が!」と止めてくれたが、そういう訳にはいかなかった。
近づいたカリスタは、落ちている荷物と、開け放たれている棚のドアに掘られた番号を見て、確信する。
「わ、私の荷物、です、これ……」
荒らされた棚は、カリスタが借りている棚であった。開いたドアの隙間から見える中も酷い状況だと一目でわかったが、カリスタの胸を一番痛めたのは、床に転がっている分厚い本――本日、図書室に返却する予定だった本だった。
史料価値が高く貴重なはずのその本は、無造作に床に落とされたような状態だった。落ちる途中で本が開いたのだろう。真ん中あたりのページは無残に折れ曲がって床に落ちていて、そのうえから液体を撒かれた結果、表紙や背表紙は汚れている。中のページも、床から水分を吸い上げたのだろう。側面だけしか見えないが、紙が変色していた。
「どうして、こんな……こんな……」
カリスタは両手で口を覆い、ふらつき、しゃがみ込んだ。
自分の荷物が、借り物が、悪意を持って荒らされている。その光景に、反射的に視界が潤んだ。
カリスタは、先ほどの悲鳴に気が付いたカチヤがやってくるまで、その場から動けなかった。
■
最初の発見者の一人が呼んできたという職員によって、カリスタの棚は使用禁止になった。周囲の棚を使う学生の為に床などは早々に清掃されたものの、嫌な悪臭は簡単には消えない。暫くは、ここで何があったと話題に上がる事は避けられないだろう。
目撃していた学生たちには、学院側から今しばらくは見た者を不用意に話さぬようにと通達が出された。ただ、それがどこまでの強制力を持つものかは分からない。
被害者であるカリスタは、学院の一室に移動させられた。
一度は衝撃から言葉を失い泣きかけたカリスタであったが、学院の職員から聞き取りを行われる際には、必死に自分を鼓舞した。
(私は子爵家の跡取りよ。狼狽えた、無様な態度で学院の方々と話すわけにはいかないわ)
そう己を律し、聞き取りに対応したのだが……正直な所、カリスタが学院に伝える事が出来た事は、そう多くはない。
そも、朝一で倉庫を使って以降、カリスタは倉庫に近づいていない。
更に、誰かしら、自分を恨んでいる人物に心当たりはないかという問いにも、思い当たる部分はなく、曖昧な答えしか返せなかった。
学院側はカリスタの精神的負担を考え、その後の授業を欠席するように伝えた。けれどカリスタはそれを断った。授業を休みたくなかったからだ。結局、カリスタ自身の意思が尊重される事となり、カリスタはその日最後の授業が終わるまで、学院にいた。
いつもより、意識して背筋を伸ばしてカリスタは馬車乗り場に向かった。荷物は軽い。本来午後に使う予定だった荷物はすべて汚されたりしていた事と、被害の証拠の品として学院に預かられていた。
心なしか普段より早い速度で歩くカリスタの横を、カチヤも凛とした様子で歩く。
あからさまに落ち込んで歩けば、「何かあったのではないか」と邪推を招きかねない。だからこそ、実際の心境はどうであれ、しっかりとした態度で過ごすべきだと二人は理解していた。
ブラックムーンストーン子爵家の馬車に乗り込むカリスタの姿に、カチヤは声をかけた。
「カリスタ。あとでわたくしも子爵家に伺うわ。良いかしら」
「こちらは構わないわ。けれど、カチヤにあまり迷惑をかけたくはないわ……」
「迷惑なんてないわ。わたくし、憤っているのよ」
周りから会話を察されないように、扇で口元を隠しながらカチヤは眉根を寄せた。それすら、美しい彫刻のようであった。
「わたくしの親友に手を出されたのですもの。憤慨するのは当然じゃない」
「カチヤ……。ありがとう。家の者には伝えておくから」
親友と別れ、カリスタは馬車の中で力を抜いた。日々通学で使っている馬車の中は安全圏ともいえる場所で、やっと肩の力を抜く事が出来たのだった。