【01】穏やかな日常
5月9日に発売いたします、3巻の発売記念で番外編を更新いたします。
実はまだ書き終わっておりません。発売日前後までには完結できるように頑張ります。よろしくお願いします。
タイトル通り、1巻主人公である「カリスタ・ブラックムーンストーン」を主人公とした短編になります。
(※こちらのカリスタは『小説家になろう版 本編』に登場するカリスタとは設定が一部異なります。)
貴族学院――図書室。その中を、一人の女学生が歩いていた。
上流階級の女性らしい長い長い髪はうなじのあたりで一つに括られており、周囲の邪魔にならないようにという配慮が見られる。少し灰色がかった白い髪はよく手入れされており、彼女の育ちが良いものである事が見て取れた。
彼女の名前はカリスタ・ブラックムーンストーン。ブラックムーンストーン子爵家の令嬢であり、後継者である。
カリスタは薄い金の瞳で、本棚を見つめる。
先に赴いた図書館の方で望みの本が見つからず、図書室まで移動して資料を探していたのだ。
司書に貸出が行われていないかどうかを尋ねた所、管理上では貸出は行われておらず図書室内に一冊あるはずだ、という返答を貰っていた。
なのであとは、探せば見つかる筈であると、カリスタは目線を書棚に走らせ続けていた。
そうした努力の甲斐あって、無事に目的の本を見つけ出したカリスタは強張っていた肩から力を抜いた。
(学院の書庫が一か所のみであれば、ここまで時間を費やす事はなかったのですけれど)
ジュラエル王国最古の教育機関・貴族学院には、図書を保管する部屋が二つ存在する。管理されている書籍は共通されている物もあれば、片方にしか収蔵されていない物もある。
一般的に、より広い方を図書館、図書館と比べるとやや小さい方を図書室と呼称している者が多いが、この呼び分けも絶対ではない。そも、存在している部屋は両方とも正式名は「図書・資料・記録保管書庫」だ。
二つあるのに、固定する名前をつけられていない理由は、色々と噂されているが、はっきりとした経緯はまとめられていない。
こうした曖昧さに関しては、
(我が国の……悪い所、と言われるのも致し方ない部分だわ)
と、カリスタも感じている。
ジュラエル王国では同名のものが多数存在している。
一番に思い浮かべられるのは貴族の家名であるが――例としてカリスタの家を上げると、ブラックムーンストーン子爵家から見て分家も家名はブラックムーンストーン。本家も家名はブラックムーンストーンであり、完全な同名なのである――このややこしさに負けず劣らず、他の分野でも正式名称は同じであり、口語上でのみ浸透している呼び名や通称というものが多い。
(最近ではそうした名付けは控え目になっているとはいうけれど)
真剣に探したお陰で無事に目当ての本を見つける事が出来たカリスタは、本棚から本を引き抜いてしっかりと両腕で抱えて、歩き出した。本棚から抜いた時、少しふらついてしまったのはご愛敬。何せ目算でも二千ページはあるであろう、分厚い本なのである。剣を振るう訳でもないカリスタが片手で持ったり出来たら凄い事である。
このような分厚い本をカリスタが探していたのは、卒業論文を書き始めるにあたり、目的に合う本を探していたからである。
(これで少し、論文の方向性を纏められると良いのだけれど)
ジュラエル王国の貴族学院は四年制の教育機関だ。留年や飛び級といった制度は存在しているものの、基本的には入学から四年かかって学生たちは卒業していく。
今年四年に進級し、最終学年となったカリスタは、早々と卒業論文の準備を始めていた。当初は問題なく進んでいた論文作業であったが、少ししてから必要な資料が足りないと発覚し、今回その資料を探して本の森の探索にカリスタはやってきていたのだ。
貴族学院では卒業に際して論文または製作物などを提出する必要がある。提出すればどんな内容でも卒業出来るという代物でもなく、場合によってはやる気なしであったりあまりに出来が酷いとして卒業不可と判断される場合もある。
卒業間近で論文の不出来で留年が決まったとなれば、その後の人生設計に大きな狂いが生じる。それ故、大多数の学生は早い段階から何度も担当教授に論文の進捗などを確認してもらう作業を挟む。
そうする事によって、自分では認識していなかった落とし穴を教授に指摘してもらう事も出来る。場合によっては過程を見せる事で、論文作業を舐めた訳ではないというのが教授に伝わり、温情で卒業させてもらえる事もあるのだとか、嘘か真か分からぬ話も出回っている。
カリスタは同じ学年の学生の中でも、トップクラスの成績を誇っている。そんな彼女であっても、論文執筆は初めての事。容易に出来るとは思えなかったし、何より、卒業後の仕事に密接に関わってくる為、軽視は出来なかった。
カリスタは現在、卒業後、王宮で官吏として働こうと考えている。
カリスタが跡継ぎとなっているブラックムーンストーン子爵家は収める領地を持たない土地なし貴族とも言われる家だ。つまり、己の生活に必要な金銭は、労働という行為によって稼がねばならない。
現在当主である父も王宮で官吏の一人として働いている。現在は遠い土地で暮らしている祖父もそうであった。
幼いころから父を尊敬していたカリスタは、自然と王宮で働く事を目標とするようになった為、就職先として王宮を目指しているのだ。
どうすれば官吏として採用されるのか?
主に必要だと言われているのは二つ。
貴族学院での優秀な成績と、縁故。
内、後者の方は既にカリスタには備わっている。何せ、ブラックムーンストーン子爵家は初代から代々、王宮で働いてきているので、「先祖代々働いている」という家柄の保障は完璧に近い。
前者の成績も、三年までの成績は十分だと、カリスタ自身は考えている。だが、最終学年で全てがひっくり返る――なんてことも、「絶対に無い」とは言い切れない。
故に、カリスタは、論文に向けて早くも準備を始めているのであった。
(実の所、四年に上がってから準備を始めているなんて……遅すぎるかもしれないわね)
そう思いつつ、昨年一年間は、あまりに人生が変わり過ぎた年であったのも事実だった。
数年にわたり婚約関係にあった令息から婚約の解消を告げられた事から全ては始まった。
令息は、長年にわたってカリスタの悩みの多くの原因となっていた義理の妹と結婚し、正当な後継者であるカリスタらを押しのけて家を継ぐと言い始めた。
あまりに滅茶苦茶な宣言を、当時子爵家当主であったカリスタの祖父が後押ししようとした事によって、話は大変な方向に転がり始めてしまったのだ。
御家騒動という一言で片付けられてしまう出来事は、対岸から見ている分には面白いと感じる者もいるであろうが、当事者として関わる事になるとなんとも頭も胃も痛む出来事であった。
結果として、この御家騒動は家のトップたる当主が祖父から父に変わるという形で収束した。
原因の一つとなった義理の妹は離籍され、フィッツヴィール女学院という、名前でしか知らぬ学校で暮らしている。
婚約者とは、家同士の関係も完全に絶たれて、現在どうしているのかはカリスタの耳には入らない。
そして――カリスタは新しい婚約者と縁を結ぶに至った。
文字に起こせばたったそれだけとも言えるけれど、それに伴う小さな変化はつもりに積もってかなりの量であったのだ。
(己の不手際を理由に質の悪い論文を書く訳にはいかないわ。しっかりと資料を集めて対応しなくては――)
そんな事を一人思いながら長い長い本棚の森から抜け出した。そうして貸出手続きを行うために入口の方向へ歩き出した時、通り過ぎ行く本棚の間に、見知った顔を見つけた。
ピタリと、カリスタの足が止まる。
迷いはほんの数秒だけ。
カリスタはすぐに踵を返し、カリスタが図書室に来た時から本を探している様子だった令嬢に声をかけた。
「こんにちは、ラピスラズリ様」
声をかけると令嬢――イリア・ラピスラズリ伯爵令嬢は、カリスタの方を向いた。
深い瑠璃色の髪に、ところどころ金色が散ったように髪の色が変化している。家名となっているラピスラズリの姿をそのまま髪色に落とし込んだかのような不思議な髪色をしている。
彼女は年齢と学年はカリスタの一つ下であるが、立場が似ている事から顔を合わせる頻度がやや高く、会話をすることも多くある友人であった。
立場というのは、どちらも一人娘であり、家の後継者である点である。
とはいえ完全に同じとは言い難い。
爵位を引き継ぐ事が出来るとはいえ、領地もないブラックムーンストーン子爵家と比べれば、建国時代にまで遡る事が出来る歴史を持ち、広い領土も持つラピスラズリ伯爵家は格上の家だ。
とはいえイリアは家格が上だからと一方的にカリスタを見下すような事はなく、目上の人間への礼儀を重んじる気質の人物である。
カリスタにとっては、家格の差などを抜きにして、機会があれば会話をする事は少なくない相手である。
イリアはカリスタの事を認識すると、真顔のまま小さく礼をした。
「……ブラックムーンストーン様。お久しぶりでございます」
頭を下げたのに合わせて、ラピスラズリの血筋の特徴とも言える、髪が垂れた。
イリアの表情は、眉一つぴくりとも動かない。カリスタもあまり表情の変化が激しい性質ではないが、イリアはカリスタ以上に変化が表に出ない令嬢であった。けれどそれは相手を軽んじたり、下に見ているからではないと、カリスタは知っている。本当に、いつも、この顔なのだ。
それでいて、声色も淡々としていて、強い抑揚が付く事は稀である。そうした特徴のせいで、イリアを怖がる人の声というのは、カリスタの耳にもたまに入ってきていた。
「ええ、お久しぶりですわ」
「何か私に用事がおありでしょうか」
サクサクと疑問を尋ねてくるイリアにカリスタは頷いた。
「失礼ながら、私が図書室を訪れた時からラピスラズリ様がずっと本棚を見ておられるようでしたので……何かお探しなのかと思い、声をかけさせていただいたのです」
イリアは無言になった。カリスタの事を見つめたまま、ピクリともしない。
返答の為の言葉を探しているのだと察して、カリスタの方も下手に言葉を重ねる事はせず、イリアの動きを待った。
少ししてから、イリアはやっと口を動かした。
「実は、以前この棚で見かけた本を探しておりまして」
「まあそうでしたのね。司書の方には、貸出がされていないか、確認いたしましたか?」
「はい。貸出はしていないとのお言葉だったので」
イリアがそう言い、上げたのはカリスタも読んだ事のある本だった。一年の頃受講していたある授業で、教科書の範囲に関わる内容が記載されている本として紹介され、調べた記憶がある。
(懐かしいわ。定期的に教授が作った小試験があったのよね。……けれど、どうしてその本を、ラピスラズリ様が?)
イリアは問題なく進級し、今年三年になった筈である。かの本は一年生が必要に駆られて読むことはあるだろうが、三年にもなったイリアがわざわざ読む本でもなさそうだ。
しかも、イリアはカリスタと同じように勉強に熱心なタイプの学生であった。一年時に読んでいなかったという事もないであろう。
不思議に思いつつ、カリスタはこう申し出た。
「お手伝いいたしますわ、ラピスラズリ様」
「いえ、不要ですわ。私の個人的事情にブラックムーンストーン様を巻き込んでしまうなど……」
「そう仰らないで下さいませ」
前々から、イリアに対して、カリスタは勝手に親近感を抱いていた。けれどそのころは自分もいっぱいいっぱいであったし、相手も望んでいないだろうからと、深入りする事はそうなかった。
過去の対応が間違っていたとは思わない。だが、自分が長年抱えていた問題の大半が解決された今、一方的にではあるが親近感を抱いている相手が困っているのだから助けたい。そんな風に、カリスタは思ったのだ。
両腕に抱えていた本を、すぐ横のテーブルに置く。あまりに分厚い本なので、誰かが勝手に持っていくという事もそうないであろう。
それからカリスタはイリアと共に、本を探した。
イリアのいう通り、過去にカリスタが見た覚えのある並びに目的の本はない。ではどこに? と考えると、いくつかの可能性が浮かんでくる。
この本棚の並びは、大まかなジャンル毎に一つの本棚に本がまとまっているが、それ以降の並びは年代順の棚もあれば、作者名順の棚、本のタイトルで並んでいる棚など分かれている。基本的には作者名で括られる事が多いのではあるが、本棚に本を戻す業務を行う人間が変われば、全く別の場所に仕舞われてしまう事もあるのだ。
そういう傾向を考え、考えられるパターンで仕舞われていそうな場所を探す。けれど、ない。イリアも先ほどから探し続けていたので、この棚にはないのは確実のようだ。
「……もしかすれば、作者名だけを見て、全く違う所に置かれているかもしれませんわね」
「違う場所、ですか」
「ええ。確かあの作者は、いくつか詩集を発刊していらっしゃったわ。もしかすれば、そちらの棚に並んでいるかもしれませんわ」
「え、あ、ブラックムーンストーン様?」
カリスタは踵を返して、詩集が並んでいる棚へと急いで移動した。
そうして作者名に目を走らせると――。
「あった」
全くもって詩集の棚には場違いな、無骨な学術書がそこにあった。
開いて中身も確認したが、カリスタが過去に読んだものと差異はない。
カリスタはその本を落とさぬように両腕で抱えて、イリアがいる場所へと戻っていった。
「ラピスラズリ様。ございました、こちらの本でお間違いないでしょうか?」
イリアはカリスタから受け取った本を見て、「これですわ」とほんの少しだけ安心したような声色になった。おや、と思う。なんだか、以前のイリアであれば感じる事もなかったような、些細な変化が声に滲んでいたからだ。
「ありがとうございます、ブラックムーンストーン様」
「いえ、見つかって良かったですわ」
カリスタはニコリと笑った。
無事に本が見つかって良かった。
イリアとはそこで別れた。
イリアの姿をまた見たのは、その、次の日の事である。
昨日借りた本を一読し終わり、あの本だけでは分からない疑問点を解消する為に資料を求めて、カリスタは再び図書室を訪れていた。この時、より広い図書館に行くのではなく図書室に赴いたのは、単純に距離の問題であった。一授業分は空いているとはいえ、図書館に行くと大して探し物に腰を据える事が出来ない。貴族学院は広いのだ。移動時間を加味して予定を立てねばならない。
図書室で一旦本を探して、見つからなければ次の余裕のある時間帯に図書館に向かおう。
そうした考えから、カリスタは図書室を訪れていたのだが――。
(――あら)
ぱちくりと、カリスタは長い本棚の向こうに、前日も見かけた色を見た。
ラピスラズリの血族の誰かかと思ったが、真っすぐ迷いなく歩いていく姿はやはりイリア・ラピスラズリその人だ。
(本日も何か探しているのかしら?)
そう思ったカリスタであったが、迷いなく進んで歩くイリアの後ろを、ちょこまかという小動物のような雰囲気で歩いてくる人影がある事に気が付いた。
目を引く、ピンクの髪の、少女と見まごう男子学生だった。
カリスタが知っている範囲のイリアの交友関係では見たことのない姿は、真新しい制服からして、一年生だと思われた。
(どなたかしら)
愛らしい顔立ちの少年は、目を輝かせて周囲を見ながら、イリアについていっていた。まるで、親によって初めて新しい場所に連れて来られた子供のような、好奇心溢れた様子は、彼の事を何も知らないカリスタにも微笑ましい思いを抱かせる何かがあった。
つい、見知った相手の行動を、カリスタは遠くから見つめた。
そうすると、イリアは覚えのある場所――昨日カリスタと本を探した本棚――で立ち止まり、一冊の本を取り出した。それをもって、今度は貸出手続きをするのだろう。司書がいるカウンターの方向へと歩き出している。
その手には、昨日カリスタと共に探した本があった。
(あ……あの本を探していたのはラピスラズリ様自身の為ではなく、あの方の為だったのね)
イリアと少年が並び、本の貸し出しの為の手続きをしている。どうやら少年は図書室で本を借りるのが初めてなようで、司書は普段よりもゆっくりに、貸出手続きをしているようであった。
どのような関係かは分からないが、仲良く並ぶ姿はまるで姉と弟のようで、本当に微笑ましい。
そのような事を思いながらカリスタはその場を離れたのだった。