【08】バルバラの生から死Ⅷ
バルバラの意識が戻った時、彼女は教会にいた。ぼんやりした頭で「どうしてここにいるのだろう」と思っていると、神父が祈りの言葉を上げているのが聞こえてきた。
集まっている人々のすすり泣きが聞こえる。
どうやら葬式をしているらしい。
「誰の?」
と、バルバラは首をかしげる。
確か自分は次の仕事に遅れそうだと急いで歩いていて――と記憶をたどった時、葬式に参列している人の中にアンゼルがいる事に気が付いた。
「アンゼル!」
アンゼルがどうして葬式に、自分も行われる事が知らない葬式に参列しているのだと、バルバラは驚いた。慌てて、息子の横に駆け寄る。
「アンゼル。その服どうしたの?」
「……」
アンゼルは子供用の喪服に身を包んでいた。今までアンゼルが葬式に参列したのは前ルーベライト子爵夫人の葬式ぐらいであったが、あの時はその場で着替えさせられて、終わった後にすぐに脱がされた。
それ以外では葬式に参加した経験のないアンゼルの喪服を、バルバラは買った事がない。
(もしかして誰かが貸した?)
子供が何人もいる商人の一家であれば、子供用喪服を持っていてもなんらおかしくない。
だとしてもやはり、母親に何の説明もなくアンゼルを連れてくるのはおかしいが。
「アンゼル。ここには誰と来たの?」
「……」
「アンゼル? どうしたの?」
「……」
「アンゼル! 返事なさい。どうして無視をしているのっ?」
「……」
そこで、バルバラはやっと違和感に気が付いた。
アンゼルは話しかけても返事をしてくれない。
それもおかしい事であるが、話しかけるときにバルバラはそれなりに大きな声で喋っている。だというのに、周りの人間は誰もそれに反応していないという事に。
「え――?」
立ち上がる。
王都で暮らしていて、見知っていた顔が沢山ある。皆喪服に身を包んでいる。
全員が椅子に座っている中で立っているバルバラは異様な筈で、目立つはずなのに、誰もバルバラを見ようとはしなかった。
「なに、これ、なん……」
混乱して、まともな言葉も発せない。
「バルバラ」
その時名前を呼ばれて、振り返る。誰かが気が付いて、声をかけてくれたのだと思った。でも振り返って、違うと分かった。
そこには三人の人間が立っていて……その真ん中の女性は、よくよく知っている人であった。
「お、かあ、さま?」
母は――死んだ頃の年齢の姿の母は――寂しそうに、困ったように、笑った。
そしてその左右にいる男性と老年の女性も、バルバラはよく知っている。
「おとう、さま? おばあ、さま? う、うそ。なにこれ。夢? だって三人とももう、とっくに死んで」
バルバラの言葉に、祖母と父が頷いた
「そう。私たちは死んでいるわ」
「もうとっくの昔に、天の国に昇っているよ」
なら。
ならばそれなら。
彼らが見えている自分は。
バルバラは祭壇を見た。
神父が祈りの言葉を上げている。そこに置かれている、棺桶。
勢いよく走る。
激しく動いていたのに、やはり、誰も動かなかった。誰も、バルバラを咎めなかった。
バルバラは、棺桶の中を覗き込んだ。
そこに眠っているのは――バルバラだ。
「嘘よッ!」
バルバラは絶叫した。教会中に響き渡るような声であった。でも反応をしてくれたのは、母や、父や、祖母だけであった。
「嘘じゃないわ」
「バルバラ。お前は死んだんだ」
「うそ、嘘嘘嘘! そんなわけない!」
「本当だよ。お前の命は終わり、お前の魂はこれから天の国に向かう」
「ちがう、嘘、私は死んでない、まだ死にたくないっ」
頭をかきむしるバルバラを、優しく、両親は抱きしめてくれた。でもそれを振り払って、バルバラはすぐ傍にいる神父様に縋った。
「神父様。嘘でしょう、私はまだ死んでない、そんなの嘘、まだそんなっ」
「――貴女の魂が安らかでありますよう」
神父はバルバラの言葉には反応せず、ただ、祈り続けている。その言葉に込められた、悲しみ、苦しみのような様々な感情が、まるで水を浴びるがのごとくバルバラに直接あたってくる。
「あ、ぁ、あ」
数歩、狼狽えて後ろに下がったバルバラの耳に、幼い声が飛び込んできた。
(――なんで死んじゃったの?)
アンゼルの声だ。アンゼルが座る最前列の椅子を見る。
アンゼルは席について、口を閉じて、黙っている。
しかし次々と、バルバラの耳に、様々な人間の声が聞こえてきた。
(だから言ったんだ。あんなに働いて、無理して、死ぬに決まってる)
(子供は可哀そうに。あれほど幼いっていうのにこれから一人でどうするんだ?)
(困ったな。バルバラが死んだのはウチのせいなんて言われたらどうしたらいい?)
それらは口に出された声ではなかった。この葬式の場に集っている人間の、心の声だ。本来は聞こえないその声が、全てバルバラには聞こえていた。
(アンゼル、泣きもしないで……バルバラの死を、受け入れられないのかもしれないわ)
誰かの心の声に釣られて、アンゼルを見る。
アンゼルは口をつぐみ、感情の分からぬ顔で、じっと、神父の後ろ姿を見ていた。
もう、バルバラは、受け入れざるを得なかった。
「あ、ぁあぁあああぁ!」
彼女は死んだ。子供を遺して。アンゼルを遺して、死んだ。
周りから何度も体を大事にしろと言われていたのに、問題はないと、一人勝手に判断して、無理をして、そして死んでしまったのだ。
「アンゼル、アンゼルッ、アンゼルゥ!」
息子。たった一人の息子。大事な息子を、バルバラは一人にしてしまった。バルバラだって、両親が死んだのはもっと大きな年齢だった。そのあとも、迷惑になるだろうと殆ど関わりを持っていなかったけれど、伯母夫妻は生きていた。
でもアンゼルはひとりぼっちだ。
アンゼルには父はなく、母方の親族もいないも同然だ。
母親のバルバラだけが、あの小さな男の子の唯一の家族であったのに。
「いや、いやぁ! アンゼル、アンゼル……ごめんなさい、ごめん、許して、アンゼル、ああぁぁあぁ!」
バルバラは必死にアンゼルの体を抱きしめた。その手も腕も、アンゼルの体を正確に捉える事は出来なくて、自分とアンゼルがいる場所は、もう、離れてしまったのだと、理解出来てしまった。
■
バルバラの葬式後、まだアンゼルの傍にいたいと暴れる彼女を両親と祖母がなだめすかし、一度天の国に向かった。そこで、生前の善悪の裁定が行われ、幸いにも、バルバラは善であったと判断された。
お陰で、バルバラは、アンゼルを見守る事が出来ている。もし悪と判断されていたら……こんな生活は出来なかったのかもしれない。
「アンゼル……」
最初のころは、日々のアンゼルの姿を見て泣いてばかりであった。
しかし、泣き過ごすバルバラと違い、アンゼルは必死に日々を生きていた。
一度は家の維持が出来ないだろうと教会の孤児たちに混じったアンゼルは、子供たちと遊びながらも勉強に精を出していた。
そしてある程度の年齢になったら、バルバラが働いていた商人一家の店で働きだした。
貴族学院に通う。
それが死んだバルバラの願いだったから、それを叶えようと思っているのだと、死んでいて他人の心が分かるようになったバルバラは知っている。
自分の勝手な願いに囚われないでほしい。
そんな気持ちがあると同時に、目指す何かがあるというのは、アンゼルが生きていくための助けになるのではという気持ちがある。
「……また精霊様だわ」
バルバラはそれこそ四六時中、いつでもアンゼルを見守っていられる。そうしていると、時々、精霊が彼のそばによる事にも気が付いた。
例えばアンゼルが勉強を頑張っているとき。
例えばアンゼルが必死に働いているとき。
例えばアンゼルが、何かに困ってどうしようか考えているとき。
小さい、薄い青の光が、息子の近くを漂う。
それは精霊だ。大きさ的に言ってしまえばそう大きくないものであるが、けれど、アンゼルが努力する時、大変な時、いつも寄り添うように、精霊はいる。
いや、アンゼルだけでない。その周りの人々にだって、精霊はいつも寄り添っていた。
見えないだけで、精霊はずっと人々の、すぐ傍にいたのだ。……きっと、バルバラにだって。
■
時が流れた。アンゼルはついに、貴族学院に入学することになった。
様々な事情――アンゼルの意地や、後見になっている家の都合など――から一般的な時期の入学ではなく、編入する形での入学になってしまったのだが。
編入当日、金銭的都合から頂いたお下がりの制服に身を包み、アンゼルはやや緊張した面持ちで、貴族学院から迎えに来る馬車を待っていた。
アンゼルは、かつてバルバラと二人で暮らしていたあの小さい家に、今は一人で暮らしている。
「…………大丈夫。しっかりやる。マナーも、あれほど教えていただいたんだ」
アンゼルは、自分に言い聞かせるようにそう呟いた。
「大丈夫よ。貴方なら、学院でうまくやれるわ」
バルバラはそっと、自分より背が高くなった息子の額にキスを落とす。アンゼルは少しだけ眉間に寄っていた皺を、和らげた。
パカラ、パカラという軽やかな馬の足音が聞こえてきて、アンゼルの目の前に馬車が止まった。
馬車の運転席から、御者が声をかけてくる。
「アンゼル・ゲルトナー様でお間違いありませんでしょうか?」
「はい」
「では、馬車にお乗りください」
アンゼルは、馬車のドアを開け、そして、鞄を持つ。
ところが、馬車に片足だけをかけた所で、彼は動きを止めた。
そう長い停止ではなかったため、御者は気にしていないようだった。
どうかしたのだろうかとアンゼルの顔を覗き込むと、うつむき気味の態勢のまま、アンゼルは呟いた。
「いってくるよ、母さん」
バルバラは息子と同じ色の瞳を瞬かせ、それから、息子には届かないと分かっていても、こう答えた。
「いってらっしゃい、アンゼル」