【07】バルバラの生から死Ⅶ
葬式以降は、ルーベライト子爵家からのアクションは何もなかった。何度か王都を出て別の町に移動をしようかとも思ったのだが、自分はともかく幼いアンゼルを連れて移住をし、かつ、好条件の職を見つける事の難しさを思うと、バルバラには移動する選択を選ぶことが出来なかったのだった。
バルバラとアンゼルの生活はお世辞にも裕福とは言い難かった。雇い主である商人一家の出す給料が少ないのではなく、まず、王都は物価が全て高い。そして今のバルバラは一人ではなく、アンゼルと暮らしている。二人分の生活費の負担はそれなりに大きく、更に将来への不安から少ない額とはいえ貯金をしていたら、日々の生活は切り詰めたものになってしまうのも致し方のない事であっただろう。
そうはいっても、バルバラは、出来る限りアンゼルに苦労をさせないようにした。
食べ物も着る物も、アンゼルは苦労はしていないはずだ。そこだけは、と、お金を捻出していた。
アンゼルがある程度大きくなってから、教会に預けることが増えた。教会に子守を頼んでいるのではなく、教会が開いている平民の子供向けの教室にアンゼルを通わせたのだ。無償で参加出来るこの教室では、文字の読み書きから始まり、数字の計算なども教えている。
貴族階級の子供であれば習って当然の事であるが、平民たちにとっては当然ではない。バルバラも幼いころ、友人との会話で知識の違いに驚いた記憶がある。
あの教会は神父から始まり、シスターも貴族階級出身者が多い。つまり一通りの勉強をした事がある者たちが集まっていた。
それゆえ、慈善活動として家庭教師を雇う余裕がない子供に勉強を教える場が定期的に開かれていたのだ。
アンゼルは幼いバルバラが祖母に反発していたのとは違い、勉強が好きらしい。
「きょうは、これ、ならったの」
舌足らずな口調で、そう、教えてもらった事をバルバラに伝えてくれた。バルバラはそれを聞きながら、自分の記憶も掘り起こして、アンゼルに軽く勉強の復習をさせてみたりした。
また、幼いころからアンゼルには、マナーを教えた。
所作は簡単に身につくものではない。
平民世界で生きていくだけならば不要かもしれないが、平民たちの中でも仕事によってはこうしたマナーが役に立つ事もあるだろう。
もうバルバラに残っているのは、祖母から教わった勉強や、マナーしかないのだ。
だからそれは、せめてアンゼルに伝えてやりたい。
そう思いながらバルバラは、アンゼルにあれこれと教えていった。
■
ある日、アンゼルを迎えに来たバルバラを、神父が呼び止めた。わざわざ別室に連れていかれて、アンゼルが何かやらかしたのか? と不安を覚えたバルバラであったが、そういう恐ろしい話ではなかった。
「アンゼルは頭が良い。勿論、本人の希望次第ではあるが、貴族学院に通わせてはどうだろうか」
それは、予想外の話であった。バルバラは目を丸くして、それから神父に言った。
「無理ですわ。あの子は……私たちは、平民ですもの」
「ああ。だが貴族の後見があれば、学院に通う事は出来る」
その言葉の意味が分からぬバルバラではない。
目の前の人物は貴族家出身だ。
(つまり、神父様のご実家が後見についてくださるという事?)
口調からしてまだ確定ではないのだろう。恐らく、実家に打診する前に、当事者――アンゼルと保護者――バルバラの意向を確認しているのだろうと思われた。
(学院に、通える? アンゼルが? それは――そんな夢みたいな事が?)
貴族学院。
自分も通った、懐かしい場所。
卒業したかったが出来なかった。
最後まで通いたくとも、通えなかった場所。
そこにアンゼルも行くことが出来るのなら……。
(貴族学院を卒業した平民なら、貴族家で働く事も夢じゃないわ)
勿論、貴族家で働く事で自分のような目に遭う可能性もなくはないが……アンゼルは男だ。やはりその手の被害は、男より、女のほうが圧倒的に遭いやすい。
男の被害もゼロとは言わないが、殆どの場合、貴族から性的被害を受けるのは女である。
しかも、バルバラのように貴族学院退学ではなく歴とした卒業の証明があれば、最初からある程度の立場は約束される。
(それに……働くのは、神父様のご実家か、その近隣の家のはず、よね)
貴族が平民の後見になって学院に通わせるのは、主に二つのパターンがある。
一つは親族である事から後見になるパターン。兄弟、或いは甥姪、或いは孫などが平民になっているが、学院に通いたがっているので後見人を担うパターン。
もう一つは、才能ある平民を自分の元で働かせるために後見人となるパターン。
今回の場合、後者であろう。
(平民のまま生きるのと、他の貴族家で働いているのでは……まだ、後者の方が手を出されにくいのでは?)
今のまま平民で暮らしていくのであれば……いつか急に、ルーベライト子爵家の気が変わった時に、消される可能性がある。
しかしアンゼルが他家で働いている使用人となっていれば、問答無用で消すような手段は取れないはずだ。
その家が他家と敵対してまでアンゼルを守ってくれる保障はないが、抑止力にはなるだろう。
「――そのお話、受けさせていただきます」
「! そうか。それでは話を持っていこう」
「ただ、一つお願いがあるのです」
「何かな?」
「学費は……私に出させてください」
神父は予想外の言葉に目を丸くした。
「それは……かなり難しい事だと、分かっているだろうか」
「はい」
貴族学院の学費は安くない。そんな事は知っている。
「でも、私は、あの子の親なので」
せめてそれぐらいはしてあげたいのだ。
両親がバルバラの未来のためにお金を貯めてくれていたように、バルバラも、アンゼルにお金を与えてあげたい。
(それすら出来ないなんて――親ではない)
ぎゅ、とバルバラは手を握る。
「必ず、お貴族様のご希望の日付までに学費を貯めます。ですから、どうか、学費は私に出させてください、神父様。お願いします。お願いします……」
神父は学費に拘るバルバラに少し困惑していたようだが、アンゼルの年齢的に入学はまだまだ先だ。今から貯めれば、入学金を用意するぐらいは出来るだろうと考えた。
親として、何かしてやりたい思いからの申し出なのであれば、否定するのも哀れだと思ったのだ。
そうして神父はバルバラに頷いた。バルバラは喜んで、何度もありがとうございますと言い、頭を下げた。
■
神父はバルバラが貯めて出すのは入学金ぐらいまでと想定していたが、バルバラは全てを出すつもりであった。
勉学に必要な道具を購入するお金も、出来る限り、自分で出すつもりでいた。
バルバラはそのお金を貯めるために、仕事を増やした。
早朝は配達の仕事を。昼は今まで通り商人一家の店で働く。そして夕方は飲食店での給仕を行い、深夜には掃除の仕事をこなした。
一日に数時間しか寝れない。それも細切れで、纏まった睡眠ではない。
「またおしごと?」
「アンゼル。起きてきたの?」
夜遅くに帰ってきて、眠っているアンゼルの頭をなでてから深夜の仕事に行こうとしていたバルバラに、目が覚めてしまったらしいアンゼルが問いかけてきた。眠さからか、いつもより言葉が拙い。
息子の頭を優しくなでた。
「眠ってたら、すぐ帰ってくるからね。朝ご飯は一緒に食べましょう」
「うん……」
アンゼルがまたベッドに入ったのを確認してから、バルバラは深夜の仕事のために、外に出たのであった。
■
「体壊すわ。本当に! 辞めた方がいいわよ!」
いつも通り働いていた昼間、客足がないタイミングで商人一家の妻がそうバルバラに言った。
「そうかしら。睡眠時間が短いと、逆に頭も動くのよ」
「そんな訳ない! あんたがそう思ってるだけ! 今日は客が少ないんだから、帰って家で寝てな!」
「でも、そんな事したら給料が!」
「死んだら元も子もないだろ! あんたそんな無茶して、ほんとに死ぬよ!?」
大声で何度も胸をたたかれて、頭がぐらぐらした。結局、バルバラは家に帰る事となった。
「まだ大丈夫なのに……」
そう思いながら外を見る。今から寝れば、夕方の給仕までは数時間ある。
「いま、ねたら、おきれなくなりそうだわ……」
そう思いつつ、ベッドに倒れると、あっという間に眠気が襲ってきた。
そうしてひと眠りしたバルバラは、起きたとき、以前より頭がスッキリしている事を痛感した。商人の妻の言葉通り、睡眠はある程度取った方が良いだろう。
「……出来れば減らしたくないけれど」
かといって、どこかの仕事でミスをしてクビにでもなったら、大変な事である。
夕方の職場に向かいながら、バルバラは泣く泣く深夜の仕事は辞める事にした。
■
深夜出ていくことはなくなった。
バルバラの一日は早朝に家を出て。
仕事が終了後一度帰宅してアンゼルと食事を食べ。
アンゼルを教会へ連れて行ったり店にそのまま連れて行って店で働いて。
アンゼルと早い夕食を食べて夕方の職場に行き、帰ってくるのは夜遅くという生活であった。
それでもバルバラからすれば、前よりも睡眠時間を取れているので全然休んでいると思っていたが、周りはそうは思わないようで……。
「掛け持ちするのはマアいいけどさ……倒れられても困るんだけど?」
「うちでの仕事内容とか増やしてもらえるなら少しは給料上げるから! 朝か夜か辞めてきなさい、じゃないとどっかでぶっ倒れるってば!」
「テキパキ働いてくれて助かってはいるんだけどねぇ~。最近特に顔色悪いからさ~。そういう顔でお客さんの前に出られると少し困るんだよね~」
などと、それぞれの職場からはたいてい文句が出ていた。
そうはいっても、三つ掛け持ちして給料を得て、更に(アンゼルにかけるお金以外を)切り詰め続けて、やっと多少なりともお金がたまったのだ。でもまだまだ、入学金を貯め終えるまではほど遠い。
「大丈夫ですから」
隙間時間に寝る事を増やしてみたりするものの、あまり簡単に顔に出ているという不調は治らない。食べろと言われるが、一番簡単に削れる生活費が食費なのだから、アンゼルはともかく自分は最低限にしておかねばならない。
ついにはバルバラの無茶を聞きつけた神父様にまで「貴女が倒れたらアンゼルは一人になってしまうだろう」と言われてしまった。
でもバルバラは自分の力でお金をためたかった。自分の稼いだお金で、アンゼルを通わせてあげたかった。
(今の私が出来る親として遺せるものは、それぐらいしかない)
――バルバラの思考は凝り固まっていた。バルバラの中にある、「最良の親」の形を目指す事以外が目に入るぐらいに。
鏡を見ても、目の下に浮かぶ隈も、それが普通の事であると思って気にしなくなるぐらいに。
まだ幼いアンゼルがいつか貴族学院に通える事を夢見て。自分が出来なかった卒業をする事が出来るように夢を見て。
そして夢のためにバルバラは働いて働いて働いて働いて働いて働いて。
誰も忠告も誰の話も聞き入れず。
そうしてある日――。
「ぁ――」
次の仕事に遅れてしまうと小走りで移動していた時、急に視界が歪み、そして。
彼女はバタリと倒れてしまった。