【06】バルバラの生から死Ⅵ
朝に投稿するのを忘れておりました。あと2話程度で終わる……はずです。
本来、バルバラは死んでおかしくなかった。
体中ボロボロで、血を流しながら歩いている人間なんて、誰も助けたいと思わない。むしろ関わりたくないと、誰もがバルバラを見ていないような態度で通り過ぎていった。
(ああ、私、こんな所で――)
両親や祖母の事を思い出す。彼らは自分にあんなに愛情を時間をお金をかけてくれたのに、その結実である自分の末路が、こんなものなんて信じたくなかった。
きっと天の国に昇った家族に、自分の姿は見られているのだろう。そう思えば思うほど、どうしてもっと違う行動が取れなかったのかと思ってしまった。
誰かに相談するとか助けを求めるとか、出来る事は沢山あったはずだった。でも現状維持を選んだ。だから自分はこうなったのだ。バルバラはそう、己を責め立てた。
ぐらりと体が傾く。そして彼女は、王都の道に倒れた。
■
「あ、起きた?」
バルバラはその声の方に、開けたばかりの瞳を向けた。そばかすの散った顔の女が、バルバラを見下ろしていた。恰好からして平民だろう。でも、それなりに裕福な生活を送っていると思われた。
「良かった良かった。意識が戻らないんじゃないかと思ったよ」
その後女と会話をしてバルバラが分かったのは、彼女は王都の商人一家に嫁いだ嫁であるという事であった。道で倒れているバルバラを見つけた彼女は見捨てられずバルバラを連れ帰り、バルバラが意識を失っている間に医師にも見せたのだと言われて驚いた。医師を呼んだなんて、いくらお金がかかったのか。
今のバルバラには何もお金なんてない。何も払えない。
震えるバルバラの体を、女は痛めないように優しく抱きしめた。
「だいじょーぶ。だいじょーぶだからね」
女は――商人一家は、バルバラには何も求めなかった。ただ、バルバラの怪我の治療を行っていった。
何かしら裏があるに違いないと警戒していたバルバラだったが、この一家でお世話になるようになってから暫くして、女から一家の事情を聞く事になった。
「あんた、ほら、たぶんあれだろ? お貴族様にひどい目にあわされたってやつだろ?」
何故そんな事までと警戒するバルバラに「いやさあ、あんたが目覚ます前にさ、貴族の使い走りって奴が回ってたんだよね。なんかあんたと似た年頃の似た容姿の女を探してるって」と軽く言われてひどく驚いた。
ただ、その貴族の使い走りらしい人間が来たのは一度きりで、その時も「侍女が一人逃げた」と説明されたので、知らんぷりをしたらしい。
「拾ったのは浮浪者みたいな女だったからねえ」
と言われてしまうと、悔しいやら、ホッとするやら、複雑な心境であった。
確かに今のバルバラは――いや、助けられた時のバルバラは、とてもではないが貴族の家の侍女という姿ではなかった。
だから周囲の家でも、この一家がこの前助けていた浮浪者と逃げ出した侍女の情報が繋がる事はなく、他所からの情報で一家が調べられるなんて事も起きなかったという事だった。
とはいえ、その逃げた侍女がバルバラだったとしても、それで助ける考えになるのも、納得出来るような、出来ないような、複雑な気持ちである。
「いやあ実はさ。うちの夫にはよ、死んだ兄貴がいたんだよ。で、その兄貴が結婚した相手が、まあ、貴族の娘さんだったんだよね。とはいっても気の好い人だったよ! お高くなくってね。で、二人には娘さんも生まれて幸せだったんだけど、ある時事故でぽっくり逝っちまってさあ。残された娘さんだけはせめて幸せに育ててこうって話だったのに……死んだ嫁さんの実家っていうの? そこの貴族に、無理矢理、脅されて、娘さんを取り上げられちまったんだよ」
大事な孫を、姪を、奪われる。しかも再びその孫・姪の前に現れたりしたら、容赦はしないという脅し付きで。多額の金まで積まれて。
結局金は全て返したが、とはいえ、一家の人間も店や従業員まで抱える立場。胸を引き裂かれる苦しみはあっても、その孫・姪はあきらめざるを得なかったという過去があるのだという。
「だもんだから、どんな理由かは知らんが、貴族に痛めつけられたらしいあんたを見捨てられなかったんだよ」
全く同じではないとバルバラは思った。だってバルバラは貴族として生まれ育っていて――。
(違う。今は平民だわ)
そうだったと、バルバラは呆然とした。
さんざん、平民として蔑まれたりしていたのに、自然と、自分の立場を貴族のように考えていた事に、バルバラは驚いた。
なんて傲慢なのだろう。自分の思考に驚き、反省し、そして疑ってばかりであった事を恥じて、バルバラはやっと、心から彼らにお礼を言えた。
「助けてくれてありがとうございます」
「いいってことよ」
■
バルバラは回復し、その後、この商人一家の店で働くようになった。
勿論バルバラを探しに来る貴族がいるのではという不安もあったが、商人一家が伝手を使って様子を伺ったところ、人を探していたのはバルバラが追い出された最初のころだけのようだ。もうすっかり、バルバラの事は過去の事案となっているのだろうと思われた。
そうして働いていたが、働き始めてすぐにバルバラの体調が悪くなった。強い匂いについには吐いてしまっているバルバラの背を撫でながら、一家の一人がいった。
「なああんた、もしかして、出来てるんじゃないのかい」
医師に診て貰った所、その通りであった。
バルバラのお腹には、ギュンターの子が宿っていたのだ。
(ここに、あの男の、子供が……?)
そう考えると、凄い勢いで吐き気がこみあげてきて、バルバラは吐いた。
■
最初は、子を堕ろそうと思っていた。バルバラは今、自分ひとりで生きていくのに必死で、とてもではないが子を育てていけるような経済状態ではない。百歩譲って愛し合った人であればともかく、そうでもない。むしろ、自分を苦しめる元凶となった相手だ。
だが、腹に命がいるのだと思うと、堕ろす決断も中々下せなかった。
そうしているうちに時が流れ、堕ろせないような時期になった。もう、流産でもなければ、生むしかないだろう。そう医師から言われた時に、バルバラはホッとした自分がいる事に気が付いた。
(決断したくなくて逃げていたけれど……そうなるのを待っていたというの?)
早く動いていれば……と後悔したばかりであったのに、早く動く事を厭うて自分が追い詰められるのを待っていたなんて、思いたくはなかった。でも事実、医師に堕胎が難しいと言われた時に、安堵した気持ちもあった。
(この子を生んだとして……私は……)
■
子は、十月十日よりほんの少し早くに生まれてきた。突然産気づいたバルバラは、周りの人間によって別室へ連れていかれて、産婆が呼ばれ、その後、無事に生まれ落ちた。
おぎゃあおぎゃあと元気よく泣く子供が、まだ息切れをしているバルバラのすぐ目の前に連れてこられた。
「ほら、元気な男の子だよ」
そう言った産婆の腕には赤い――赤い髪の子供がいた。
ヒュッ、と息が詰まった。その赤さに、ルーベライトを思い出してしまったからだ。
あの男の子供なのだから、父親に似るのは何もおかしくない。そう分かっていても、父親を連想する赤い髪にショックを受けた。
産婆はこの赤子が、乱暴の末に出来た子供と知らなかったので「ほら抱いてやんな」とバルバラに子を押し付けた。腕の中に、自分とは別の熱源が現れたようであった。酷く熱かった。
生まれたばかりの赤子とは、これほど肌も赤くて、ぐしゃぐしゃなのだろうか。産声のまま、泣きわめく赤子を見下ろしながら、バルバラは自分が生み落としたという子供を、呆然と見つめていた。
「乳を飲ませてやんだよ」
「え。えっ?」
何もせず黙っていた所、突如産婆はそう口出しをしてきたかと思うと、赤子の口をバルバラの乳房に持っていく。赤子はそうするのが当然のように、バルバラの胸にムッと吸いついた。
人生初の授乳も、感動よりも「こんな感じなのか」という理解の方が強かった。
けれど、悪くはなかった。
生きるために必死に吸いついている赤子を見ていると、じんわりとであるが、愛おしさを感じるような気がした。
■
生まれた赤子はアンゼルと名付けた。
子が生まれたら、出来る限り早くにしなくてはならない事がある。
精霊の祝福を受けに、教会に行くのだ。
この国は、神だけでなく神の吐息から生まれた精霊の加護を強く受けている。貴族は特に強く加護を受けているが、その分、国を守る義務を負っていると考えられている。
では国民の数で大多数を占める平民は精霊の加護を受けれられないのかというと、そういう訳でもない。
加護を受けるための方法として、祝福がある。
赤子が生まれたら、最も縁の深い教会に赤子を連れていき、祝福を受ける。
そうすることでその赤子はジュラエル王国の国民として認められる。そう、言われている。
祝福を通してルーベライト子爵家にアンゼルの事が把握されてしまう可能性はあった。しかし、まっとうなジュラエル人の親であれば、生まれてきた子供に祝福を受けさせないという判断はない。
バルバラも、アンゼルに祝福を受けさせることを選んだ。
バルバラの最も縁深い教会と言えば、故郷の教会であろう。しかしそこに行くのは大変である。お金も時間もない。なので、商人一家がいつも行くという、王都にある教会に向かった。
「ようこそいらっしゃいました」
赤子の生誕の祝福のために現れた神父は美しい薄い青、或いは水色という色彩の髪と目をした男性であった。
教会に身を置く人間には身分はない。しかし重要な立場の人間は貴族階級出身者である事が多い。
この神父の男性も、貴族階級出身であろう。
祝福の儀式の間、バルバラはアンゼルだけをジッと見つめていた。心臓が、酷く、震えているような気がした。
無事に儀式は終わり、アンゼルが手元に戻った時に、心臓の震えは収まった。バルバラは力強く、アンゼルを抱きしめていた。
■
最初のころはアンゼルを愛せるのだろうかと不安に駆られる事ばかりであったが、その不安も、アンゼルのくしゃくしゃに潰した紙のような顔がつるりとしてきて、その瞳を開いた時に杞憂になったと、バルバラは思っている。
その、瞳は、己と同じ薄い青だった。
たったそれだけの事だ。生み落とした事実よりも、瞳の色にバルバラは安堵して、やっと、心の底から子供が可愛いと思えた。
アンゼルを抱きしめながら、バルバラは良かった、良かった、と繰り返しながら、一人泣いたのであった。
■
アンゼルがまだ幼いころは、バルバラは商人一家のご厚意もあり彼らと同じ屋根の下で暮らした。初めての子育ては大変な事が多かったが、商人一家の子供らもアンゼルを可愛がってくれて、本当に助かった。
アンゼルがある程度大きくなったころから、二人暮らしを始めた。
アンゼルは本当に良い子で、いけない事は一度忠告すれば理解したし、失態も、一度叱れば悪い事だと理解した。あまりに聞き分けが良すぎて、むしろバルバラの方が何か抱えてしまっているのではないかと不安になったほどであった。
そうして幸せに生きていたある日、二人の元にルーベライト家の者が現れた。もうとっくに過去の事になっていて、もうルーベライト家の事すら忘れていたバルバラは、突然現れた貴族の使いから逃げる事も出来なかった。
使いはバルバラの後ろにいるアンゼルをジッと見ながら、言った。
「ルーベライト夫人がお亡くなりになりました。つきましては、その葬式に、ギュンター様のお子様は全て参列するように、とのお達しでございます」
バルバラには、ルーベライト夫人がいつから自分――否、アンゼルの事に気が付いていたか分からない。
ただ、拒否するには、家も職も抑えられていて、逃げ場がなかった。
結局その場で使いに無理矢理馬車に押し込められた後、不安がるアンゼルを「大丈夫よ」と慰める事しか出来なかった。
葬式の場でバルバラとアンゼルは明らかに場違いであった。服装は辛うじて体裁を整えられたが、二人とも服のサイズが合っておらずぶかぶかだった。ルーベライトの親族であろう人々は、バルバラとアンゼルに怪訝な目を向けてきた。中にはバルバラの事を覚えている者もいたようで、そういう者は、「あの二人は――」などとバルバラたちの事を周囲に伝えていた。
できうる限り縮こまり、早く、早く葬式が終われと念じていた。
そしてそんな中――。
「ッ!」
「…………」
自分を刺すような視線に、バルバラは気が付いた。その視線の主は間違いない。ザブリーナであった。
「ぁ……」
ギュンターはこちらを見ようともしていなかった。その横にいるザブリーナの傍には綺麗なピンクの髪の男児がいて、恐らく、ザブリーナの子供だろうと思われた。
(赤くない)
ザブリーナの願いを覚えていたバルバラは、反射的に、そう思った。そしてアンゼルの手を強く、離さぬように握りしめる。
(ピンク色だ……アンゼルの方が、真っ赤で……)
ザブリーナの子は、母が睨んでいるからか、それとも事情を知っているのか、こちらを睨みつけていた。アンゼルは何も事情を知らぬから、不思議そうな顔をしている。
それ以上、子も、ザブリーナも見れなかった。
ギュンターに犯されて無理矢理愛人のような扱いを受けていただけにとどまらず、バルバラは更にザブリーナを裏切ってしまったのだと、気が付いたから。
■
葬式から無事に帰してもらえないのではないかとバルバラは不安に思っていたが、二人は無事に戻された。
帰された時、「二度とルーベライト家に近づくな」とは言われたのには、憤りを感じた。
そもそも近づきたくなかったのに、無理矢理寄ってきたのはそちらだろうと、心の中でだけルーベライト家の使用人を罵る。
その後バルバラは、アンゼルに全てを話した。
愛人であるとか浮気とか、そういう難しい話はアンゼルにはよく分からなかったようであった。ただ、あのピンクの髪の子が異母兄で、その近くにいたこちらを見なかった男が父親であるという事だけは、理解は出来たらしかった。
アンゼルが自分の生まれについて、どう考えたかは分からない。
ただ、少なくとも外から見た様子は、ごく普通であった。
逆に、バルバラの方がルーベライト夫人の葬式以降、苦しんでいた。
眠っていると、夢を見る。夢の中で、ザブリーナとの思い出が連続する絵画のように思い出された。
――「礼は仕事の成果で返してくださいな」
――「まあバルバラ。貴女の字、とても美しいわね」
――「聞いてちょうだい。また手紙の字を褒められたのよ。鼻が高いわ」
出会った頃のザブリーナの思い出。
――「どうして、どうして子が出来ないの……?」
――「魚の卵を食べると、子供ができやすいらしいのよ。取り寄せるように伝えておいてちょうだい」
子供を作ろうと、必死になっていたザブリーナ。
――「この子が……出来れば男児であれば良いけれど。女児であっても良いから、少しでも美しい赤の髪であれば良いわ」
お腹を撫でて、生まれてくる子供の幸福を祈っていたザブリーナ。
――「どうして、今日もだわ。今日も出掛けてしまって、帰ってこない……っ!」
夫の勝手な行動に苦しんでいた、ザブリーナ。
そして。
――「目をかけてやったのに! 恩をあだで返すなんて!」
――「出ていきなさいッ、二度と、わたくしのッ、前に、現れるな! どこぞで野垂れ死ね!」
「ハァッ」
飛び起きる。荒い呼吸を繰り返し、横で眠るアンゼルが目を覚ましていない事を確認してから、バルバラはそっと、ベッドを離れた。
「う、はぁ、ああぁあ……」
視界が歪む。
「申し訳ございません、奥様、ああ……」
どうしてこうなってしまったのだろう。もっと違う今があったのではないか……。過去に縋っても意味がないと分かっていても、何度も、そう、思ってしまった。
こちらの回は一部、書籍版の裏側みたいになっております。
(この話が全体的に書籍2巻の裏側ですが……)