【03】バルバラの生から死Ⅲ
バルバラが貴族学院の2年生に上がる年、祖母が亡くなった。急死であった。
祖母の葬式は、ごく近しい身内だけで行われた。
幼いころから、とても厳しかった祖母である。バルバラが真面目に祖母のいう事を聞くようになってからも、叱責が減っただけで、甘い祖母になった訳ではなかった。
でもバルバラは今、誰より彼女に感謝している。
祖母は勉強せよと言った。そのお陰でデビュタントの後、貴族学院に通うという選択肢がバルバラには生まれていた。
もしバルバラが祖母の授業をまともに受けずにいたならば、そもそも貴族学院に通える学力すら持たないでいただろう。
今のバルバラがあるのは、全ては祖母のお陰だ。
バルバラは父母に並んで祖母に別れを告げながら、溢れ出る涙が目立たないようにと、ハンカチーフを顔に押さえつけていた。
葬式の場では親族が、祖母を悼んだ。
最初こそ皆素直に祖母の死を悲しんでいたが、ふと、親族の集まりにも滅多に顔を出さないバルバラの家が来ていたためか、親戚の夫人が口を開いた。
「そういえばバルバラさんは今、何をなさっているの? どこかの家に行儀見習いとして入られたのかしら」
その夫人の横には一人の令嬢がいる。その令嬢がかつてバルバラの髪色を揶揄って来た令嬢であるという事を、バルバラは覚えていた。
問うてきたのは令嬢ではなくその母なので、バルバラの代わりに、父が答える。
「娘のバルバラは今、貴族学院に通っておりまして、今、二年に進学したばかりですよ」
ざわりと親族たちの空気が揺れた。
「き、貴族学院? 本当に?」
「が、学費はどうしたというのよ、試験はどうしたっていうのよ!」
夫人が狼狽え、横の令嬢は目の色を変えてバルバラに向かってそう叫ぶ。
「学費はお父様が出してくださいましたわ。試験も普通に合格しましたが」
「嘘よッ!」
嘘ではないのだが。何故嘘だと即座に決めつけられなくてはならないのか。バルバラは不快だと眉をひそめた。
「学費を出した? バカな。まさか一人の孫にだけ金銭的支援を行っていたのですか?」
一人の大人が――バルバラから見たら伯父だ――祖父にそう問いかける。祖父はその言葉に、はあ、と重い溜息を吐いた。
「そのような事はしていない。真面目に蓄えを貯めていた結果だ。それとバルバラの学力は、妻が認めていたとも。最後まで妻の教育に従っていたのはバルバラだけだ」
シン、とその場が静まり返る。
バルバラは知らなかったが、祖母はお節介で、爵位を持った親族に子が生まれる度に「貴族なのですから」と言って教育を施そうと出向いていたらしい。
それを断った家もあれば、受け入れたものの子供が嫌がって中断された家など様々あった。
結局、学院入学前まで祖母の教育を受けていたのはバルバラ一人だったのだ。
無論、祖母の口出しが本当に余計だった事もあるだろう。祖母の教育方針がその家の教育方針と同じであるという保証もないのだし。
祖母を断った家は各々自分で家庭教師を子につけたり、あるいは夫人が直接子供に教育を施したりしていた。
どちらが悪いという訳ではない。
ただ結果としては、祖母の教育を受けたバルバラだけが貴族学院に通っていた。
他の子らは金銭的問題から通えなかったり、或いは金銭的問題は解決出来ても子供の学力の問題から入学できなかったりして、誰も学院に通っていなかったのだ。
どこの家も一代限りの貴族の爵位を持っている状態。子供たちは自力でなんとかするか、親が無理くり爵位を持つ相手と縁付かせない限り、平民になってしまう。
親心として、とりあえず、貴族でいてほしいと思うのは当然の事だ。本人の自認としても、貴族でいたいのだろう。
貴族学院に通える事。そしてそこを卒業するという事は、その点において、重要なポイントである。
一代限りの爵位を持つ末端貴族家とはいえ、子供を学院に入れる事が出来る甲斐性がある親という証明。
また、そのような家の生まれでも、当人は貴族として十分なだけの教育をしっかりと受けているという証明。
親族とのかかわりは浅かった。それでも、周りはいつもバルバラを見下していた。バルバラを通して、平民出身である母を見下していた。
だが今は、一転、皆、羨望、嫉妬の眼差しをバルバラに向けている。
「……」
バルバラは祖母を思い出す。
マナーを身に着けなさい。勉強をしなさい。
祖母は何度もそう言った。
己の持つ力は武器だ。
今この場で親戚から羨まれる存在になったバルバラだが、それを自慢する心地にはならなかった。
学院に戻れば、自分はまた、学院の中でも最下層だろう立場の人間だ。勉強についていくのに必死で、周りはお金にも将来にも大して困っていないような者たちが沢山いる。
その者たちを見て、自分の事などさほど凄くもないと卑屈になり、もっと恵まれている人間に対して嫉妬心を抱いていたのだと、バルバラは気が付いた。
(お婆様)
他の人がどうとか、そんな事を語って意味はない。
他の人の人生は、バルバラの人生にはならないのだ。
(ありがとう、お婆様)
バルバラは心の底から祖母に感謝をした。
そして思う。バルバラが貴族学院に通う事が出来ているのは、祖母の力だけではない。
横の両親を見る。他の親族の大人たちは、バルバラが祖母に思いを馳せている間もあれこれと会話を飛ばしていた。その中には、嫌味なものも多かった。
母は何も言わず、困ったように笑うだけだ。何も返事をしないのは、平民出身である母が何を言ったところで相手が聞くはずもないと分かっているからだ。
昔は祖母に対しても、そして親戚に対してもこんな調子の母を恥ずかしく思っていたが、これは彼女なりの処世術なのだとバルバラはよく分かった。
父を見る。お金を卑怯な方法で工面したのではと問うてくる親戚に、父は顔色を特に変える事はなく淡々と「ただ貯めただけだ」と返している。
それは事実だろうと思う。
男爵位を得た父は、貴族という身分になったものの貴族らしい社交を殆どしなかった。バルバラが祖母から貴族令嬢としての教育を施されている事以外は、バルバラの家は平民そのものの生活を送っていたのだ。
しかし父の給料はそれなりに高くなっている。
その給料を前から――もしかすればバルバラが生まれた頃から――貯め続けていたのであれば、学費に十二分なお金の貯蓄は余裕で出来る。
では何故、バルバラの家より貴族らしい生活を送る彼らにお金がないのかというと――まさにその生活のせいだろう。
貴族の社交は金がかかる。服の新調する速度も早い。
当然、お金がどんどんと流れ出ていく。
結果として親族の家の殆どが、学院に必要なお金を貯めきれなかった。
(不足はきっと、お爺様たちに出してもらうつもりでいた)
確かに祖父も一代限りの爵位しか持たないが、爵位や領地のような分かりやすい物は持たずとも、財産を持っている。故に分家も他の親戚も、祖父の周りにいつもいるのだ。おこぼれを欲するが故に。
(でもお爺様は出さなかったのね)
祖父は孫の出来の如何で態度を変えるでもなく、一律でお金を貸すような事はしない、という行動を取っていた。これで宛てが外れた結果、学力が十分な親族の子も、学院に入る事が叶わなかったという事らしかった。
祖父を最初から宛てにしていなかったバルバラの両親だけが、清貧に暮らし、バルバラを貴族学院に入れる事が叶った。
何を優先するか。何を捨てるか。その結果だ。
バルバラの両親は自分達の貴族としての体裁など最初から捨てていて、ただ、バルバラの未来の可能性を広げられるようにとしていた。子であるバルバラもたまたま、勉学に前向きになっていた。
他の親族たちは家としての体裁を捨てなかった。それが悪い訳ではないが、結果、お金を用意できずに学力が十分であろうと子を学院に入れられなかったり。
或いは、お金はあっても、親の心が子供に伝わらなかったのか、子の学力が足りずに学院に入れられなかったのだ。
■
バルバラは貴族学院に戻り、以前よりも、より一層勉強に励んだ。まだ具体的な進路の希望は定まっていないが、まず、基礎的な学力を上げておかなければ何も話にならない。
それと同時に、人と関わる事も出来る限り積極的に行った。
貴族学院は様々な立場の者と関われる絶好の場所だ。失礼な事は出来ないが、例えば、機会さえあれば王族とだって会話をすることが出来るぐらいに。
だからこそ、色々な立場の人とバルバラは関わるようにした。勿論、メリッタたちとの縁もないがしろにはしない。
あれをしてこれをしてと毎日目が回るほど忙しかったが、楽しかった。一心不乱に打ち込むのはバルバラの性に合っていた。
そんな生活を送るうちに祖母の死からおおよそ半年ほどが経った。
貴族学院の二年の半ば、祖母に続くように祖父の訃報が飛び込んできた。
ただ、祖母の訃報に比べると衝撃はなかった。
元々長く、祖父は病を患っていた。年齢的にも身体的状況からしても、祖母よりも先に祖父が天の国に行くだろうと皆が思っていただろう。本人たちも恐らくそう思っていた。だからこそ祖母の死に、皆、驚いてもいたのだ。
祖父は安らかな顔で亡くなっていた。
連続して身内の不幸で貴族学院を離れてしまう事となったが、学院も学生の冠婚葬祭のような大事な出来事を蔑ろにするような機関ではない。戻った時には、休んでいた分をカバーするだけの補講などが行われる。
祖父の死の後、遺産の相続の話となった。中には横取りのような真似をしようと考えていた遠縁の親戚も混じってきていたが、祖父に長く仕えていた老年の家令兼執事長は、淡々と遺産を分けていった。
祖父の遺産は、大した量ではなかった。
肩透かしを喰らった相続権を持つ伯父伯母らは騒いでいたが、執事長の説明と祖父の直筆の遺言状で黙らざるを得なかった。
元々祖父は、己の死後は祖母の老後にお金を使ってもらおうと考えていた。ところが先に祖母が亡くなってしまったため、自分の死後、雇っている者たちが苦労しないように差配していたのだ。
そう多くはなかったが、祖父に仕えてくれている人は殆どが長く祖父母に仕えてくれていた使用人ばかり。
彼らが長く仕えていてくれた事を加味し、退職金を出来る限り多く見積もった。彼らの今後の進退で苦労しないようにと、紹介状もしっかりと用意してあった。
これで祖父の遺産の殆どがなくなっていた。
そして残りは、自分と祖母の墓の管理費となり、バルバラの父を始めとした子らには少しの分け前しか残っていなかったのだった。
祖父の実子であろうと、祖父の家の使用人へ渡す退職金が多すぎる、なんて事は文句をつけれない。
しかも生前、立会人もしっかりと挟んだうえで各々使用人たちと契約を交わしているのだ。
こうして祖父の葬式は終わり、これ以後、親族たちは顔を合わせる事はなくなった。本家を失った分家たちは、別の家の分家になる。
血脈を頼りにして本家の本家だった家に頼むか、或いは自分で別の親族を探して分家にしてくれるよう頼むかは、様々だろう。
バルバラの父は単純に、祖父が名目上本家としていた家に頼んだ。
元々の祖父の本家は所謂バルバラの曽祖父の家で、そちらも既に無い。本家を失った後、祖父も最も血が近い家に分家にしてくれと頼んでいた。その家に、祖父が亡くなり本家を失ってしまったため、分家にして欲しいと頼んだのである。
利点はないが特に欠点もないバルバラの家は簡単に受け入れられて、そちらの親族の分家となった。
とはいえ生活は変わらない。
父母は故郷で真面目に淡々と仕事をこなして日々を過ごし、バルバラは王都で母方の伯母の家で暮らしながら勉学に社交にいそしむ。その生活は簡単には変わらない――そう、バルバラは思っていた。