【10】ニール・ツァボライトのその後
婚約解消後、ニールの生活は一変した。
遠く離れた所で暮らすニールの実父母と長兄は遅れて届いた手紙に驚愕し、婚約解消から数日後に大慌てで王都にやってきた。彼らは婚約の継続を望んでいた。或いはそれが無理でも、婚約に伴い借りていたブラックムーンストーン家の伝手の力を、半分でもいいから維持したいと望んでいた。
しかし彼らが到着した時には全てが終わっていた。婚約は解消されてしまっていたし、それに伴い力を貸してくれるという話も無くなっていた。
ニールは父親と長兄にボコボコに殴られた。ツァボライト子爵に殴られたのが可愛いと思えるほど、ニールの顔は膨れ上がって原型を留めなかった。
イモ酒の販売は、やっと少し軌道に乗るようになった位であったのだ。イモ酒は美味いと自信を持って言えても、王都では余程の愛好家ぐらいしか知られていない酒だ。王都の有名店に持ち込み力を借りても、中々売れなかった。そんな中で地道に販売促進を行って、やっと安定的に売れるようになってきたのだ。そのタイミングでのニールの婚約解消。最悪だった。
殴られ過ぎて動けないニールは放置され、両親と長兄は王都にイモ酒を置いていた店を回った。なんとかこのままイモ酒を置いて欲しいと頼むつもりでだ。
しかしブラックムーンストーン子爵家の方が動きが早かった。元々、ツァボライト男爵家とイモ酒を各商家に勧めたのはブラックムーンストーン子爵家だ。本心ではイモ酒を取り扱いたくなかった店も、ブラックムーンストーン子爵の顔を立てて少量でも販売してくれていたのだ。そのブラックムーンストーン子爵家から、ツァボライト男爵家と当家は今後無関係であるという通達が来たのだ。商人の耳は早い。すぐに両家の婚約解消が把握され、どこから聞き出したのか、解消の原因がニールの浮気な行動にあった所まで突き止めていた。さらに早い所では、ブラックムーンストーン子爵家が伝えたわけでもないのに、ニールがお家乗っ取りを企てた所まで把握していた商家もあった。
王都でこれまでツァボライト男爵家と付き合いのあったほぼ全ての商家が、今後イモ酒を取り扱う気はないと対応した。主な原因は二つ。
一つ目はやはり信用問題。婚約を有責で解消されるような人間がいる家とやり取りしたい家はない。これが最も大きな理由だ。
それから二つ目は、イモ酒には信用問題を横に置いても取り扱いたいと思える程の旨みがないと判断されたという問題。
イモ酒は確かに最初のころよりは売れるようになったが、実は売れていた相手は殆どが平民だ。貴族はプライドの高い生き物で、その中でも王都の貴族は特にプライドが高い。彼らはやはり葡萄酒こそ貴族が嗜むべきお酒と考えて、イモ酒には殆ど手を出していなかった。
一方で平民にはそんなプライドはない。アルコールであれば良いと思う人間を中心に、イモ酒を買う者が増え始めていた。それでも爆発的に売れた訳ではない。イモ酒の値段設定は、貴族では大したことのない金額だが、平民には簡単に何度も買える金額ではなかった。これはイモ酒を王都に持っていくまでの運搬費や、各店が取り扱う上での取り分などが上乗せされているせいだ。平民たちはお金をためて、一か月や数か月に一度というペースでイモ酒を買いに来るのだ。
その位の売り上げならば、他の商品に割り当てた方がいい。そう考えた商人が多かったのだ。
どれだけ謝っても聞いてもらえず、その場で返されたイモ酒の在庫を抱えて両親と長兄は悲嘆にくれた。
ニールが直接見たのは、そこまでだ。
ニールは怪我が治りきった訳でもないのに、満足な治療もされずに実家へと帰された。王都で暮らす友人たちに連絡を取る暇も与えられなかった。
数年ぶりに帰ってきた実家はニールによそよそしかった。家を出る時はあれほど「我が家の希望だ」なんて崇めて褒めたたえていたのに、誰も彼もがニールに触れないようにしていた。記憶の中よりずっと背が伸びた兄弟たちは誰もニールの怪我を心配もしなかった。
ツァボライト男爵領にいる医者は、王都の医者と比べて格段に腕が落ちるし薬の種類もない。しかも殴られた後にまともな治療を受けずに放置されたせいで、ニールの顔は腫れが引いても歪みが残ったままとなった。
自分が絶世の美青年だったとは思っていないが、それでもあまりに変わり果てた自分の顔を見たニールは、絶叫して鏡を割った。鏡は安いものではない。それを一つ無駄にしたとして、ニールは兄弟たちから責め立てられた。すべてを聞きたくなくて、ニールは部屋に籠った。
部屋の中で、王都で親しかった友人たちに手紙を書いた。何を書いたか記憶は定かではないが、自分の窮状を訴えたのはぼんやりと記憶している。しかしあれ程親しくしていた友人たちは、誰一人返信を送ってくれなかった。
両親が帰ってきたのはニールが領地に帰されてから三か月も後の事だ。その間、手紙で次兄や他の親族に指示は出していたらしいが、部屋に籠っていたニールはそんな事知らなかった。
両親が帰ってきた後、ニールの扱いは変わった。それまでは部屋に閉じこもるニールに誰も触れなかったが、父親の命令でニールは毎日部屋から引きずり出された。
家族として食卓に着く事は許されたが、弟やいつの間にか生まれていた甥姪よりも下座に座る。こういう食事の場の席は大体家の中で権力を持つものから順番に上座に座るので、一番下座という事は、ニールはツァボライト男爵家で一番地位が低いという事であった。この家の誰も通っていない王都の貴族学院をしっかりと卒業したにも関わらず、田舎から出た事もない人々より、まともにカトラリーすら握れない子供より下位に置かれ、ニールの心は粉々だった。しかしそんなもの、序の口であった。
ニールは兄弟たちに引き摺られて領地での畑作業等に駆り出された。道具を持たされ、領民たちと同じように働けと言われた。
かつてなら、その事に何の疑問も持たなかった。そういうものだと素直に受け取っただろう。
しかし王都で何年も過ごしたニールの心は既に実家を離れ、貴族としてのプライドを持っていた。農具を手に働くなど、彼のプライドが許さなかった。
「こんな程度の低い仕事出来るか!」
持たされた道具を地面に投げ捨てたニールに、五男である兄は辛辣であった。
「じゃー、何すんだよ」
「……しょ、書類の整理とか、そういう仕事だ!」
「そーゆーのは兄貴たちとかがやるんだよ。おめーの出番ねーわ」
「なっ…………まともな学もない癖に!!」
一応文字は読めるし算数も出来る。でも本を読むでもない、長ったらしい文章を読めるわけでもない、剣を握るでもなく農具を握って振るってきた、そんな兄に馬鹿にされて、ニールは顔を真っ赤にして怒り地団駄を踏んだ。
「まともな学がねー俺らでも浮気はよくねえって分かってるぞ。なあ。それが分かんなかったにーちゃんは何が無かったんだ?」
ニールのたった一人の弟は、呆れた顔でそういった。
年上の兄にだけでなく弟にまで馬鹿にされ、ニールはカッとなって掴みかかった。しかし弟にあっさりと突き飛ばされ、地面に転がる。あまりにあっさりと、たった一回押されただけで倒れてしまったニールは呆然と弟を見上げた。弟も弟で、ニールが倒れたのが意外だったらしい。ニールを突き飛ばした自分の手をまじまじと見ていた。
それも仕方のない事だった。王都で主にニールがしていた事は、ツァボライト子爵家の仕事の手伝い。それは殆どが頭脳労働で、肉体労働ではなかった。
一方で弟はニールが王都にいる間も家業を手伝い続けていた。背丈こそ今のニールとほぼ一緒だが、体の頑強さは比べるべくもない。
「だっさ」
どこからか、声がする。兄弟が口にした言葉ではない。ニールは起き上がって声の主を探す。
周りには領民たちが沢山いる。彼らは領主の所のご兄弟の喧嘩を遠巻きに見つめていた。ニールに見られて慌てて見ていないフリをしたが、兄弟喧嘩を見た誰かが先ほどの言葉を口にしたのは確実だった。
平民の癖にと叫びそうになったニールだったが、兄と弟にどつかれて結局何も言えなくなった。ニールは嫌々農具を振るう事になった。
ニールはツァボライト男爵家では貴重な、本格的な学問を学んだ人間である。それにも関わらず両親はニールに書類仕事は絶対に任せなかった。一度、肉体労働が辛すぎて書類仕事を手伝わせてくれと頼んだら、子供に向けるものではない目で見つめられてこう言われた。
「どこぞに女を作って、情報流されたりしたら敵わん」
もはやニールに対して信頼なんて、なかったのだ。信頼できない相手に、重要な書類を任せられる訳がなかったのだ。
ニールが実家に帰ってから半年後、朝食の場に長兄が転がり込んできた。その時にニールは長兄が領地にいない事に初めて気が付いたのだ。
「父さん、母さんっ、やったぞ! 契約だ!」
両親が椅子を蹴倒して立ち上がる。長兄は両親の元に駆け寄って説明した。
「前よりうちの取り分は少ないし、ずっとじゃない。まずは半年だけだ。でもちゃんと置いてくれる、子爵様も契約に立ち会ってくださった、イモ酒はもういくらか店に運び込んだんだ。俺、イモ酒が王都の人間に一個売れてくのをちゃんと見たんだ!」
ニールの行動で真っ白になった王都でのイモ酒の販売経路を得るために、長兄は王都に残っていたのだと初めて知った。
「よくやった、よくやってくれた! だがどうやって……?」
父の問いに、長兄はケロリと言った。
「何度も謝って、頼み込んだだけだ」
それがどういう意味かニールは理解できてしまった。
長兄は今まで付き合いのあった店全て、或いはその中の何店舗かにずっと謝り続けていたのだ。そして謝りながら、もう一度イモ酒を取り扱ってくれと頼み続けていたのだ。この半年間、ずっと。門前払いをされようと、どれだけ邪険に扱われようとずっと。……直接見ていないのに、ニールには簡単に想像できてしまった。平民である商人相手に貴族である長兄が頭を下げて頼み続ける姿が。
「すまない、お前だけに任せてしまって……」
「何言ってんだ。父さんは当主なんだから、ドンとしてくれよ! 頭ぐらい、俺がいくらでも下げっからさ。なあ父さん、俺、思ったんだ。イモ酒は王都でもちゃんと売れる! 今から、いくらでもやり直せる! 大丈夫だ!」
わあっとニール以外の家族が歓声を上げて、長兄に飛びついた。長兄は彼らにもみくちゃにされながらもずっと笑顔を浮かべていた。
ニールはその輪に交ざる事が出来ず、のろのろとその場を離れた。
――その後のツァボライト男爵家は、以前より豊かな家となった。
長兄らの熱意に折れた数店舗がイモ酒を置いてくれるようになり、長兄や数人の親戚がツァボライト子爵家で部屋を借りながら、イモ酒の営業を行うようになった。かつてよりも置いてくれる店舗の数も、店舗の規模も小さかったため、店そのものが持つ力に頼れなかったのだ。勿論以前も営業をしていなかった訳ではないが、ツァボライト子爵家が片手間に多少してくれていた程度。やはり自分たちが直接関わらなくてはいけないと長兄が主張し、「イモ酒の美味さなら俺が分かってらぁ!」と数人の男たちが王都に乗り込んだ。
彼らの実体験のこもった熱意ある営業の結果は、すぐには現れなかった。けれど少しずつ、少しずつ、一人、二人とイモ酒を手に取る人間が増えて行った。
数年かけてイモ酒は平民の間では定番のアルコールとして定着した。下町の酒場で取り扱ってくれるようになった事もでかいだろう。一本丸ごとは高くても、グラスに一杯なら手に取りやすい。
取り扱う店舗を無理に増やさなかった事も功を奏す。イモ酒が欲しければあそこの店にしかない、という風になったお陰で売り上げが集中し、それぞれの店でもイモ酒の売り上げが感じられたのだ。次第に店に並ぶイモ酒の量は増えて行った。
王都の商人と渡り合うために、以前より学を得る人間も増えた。書類が真面に読めずサインして痛い目にあったらたまらない。最初こそツァボライト子爵家が面倒を見てくれていたが、いつまでも頼っていられないと、若い子供を中心に以前より座学にも力を入れるようになった。
ニールは生涯、畑作業を行った。反省したのならば別の仕事をしてみるかと提案してきた長兄の言葉を、ニールは拒否した。理由を言うでもなく、家族の声も拒絶し、ただひたすらに鍬を振るった。
いくら領主の息子とはいえ問題を起こしたニールに嫁ぎたいという娘はおらず、結局独身だった。
長年の畑仕事で、風邪も引かなくなっていたニールだったが、ある日心臓を悪くし、倒れ、それからたった二週間で息を引き取った。二週間の間にニールは己の少ない私物を全て処理してしまっており、棺には彼の体と花以外入れるものがなかったという。
彼の愚行はツァボライト男爵家始まって以来の大問題として随分先の子孫にも語り継がれたが、領地に戻って以降のニールを知る者は誰一人いなかった。
後の世代でツァボライト男爵家の歴史をまとめようとしたある子孫は、彼の情報があまりにもなくて困るほどであった。ツァボライト男爵家の歴史に口伝で残っているにも関わらず、それ以外でニールの痕跡は皆無だったのだ。
その子孫が唯一見つけられたのは、家系図に記された名前と生年没年の情報のみであったという。
今のところ次回「カリスタのその後編」で終わる予定です。




