つい、出来心で
聖教国フェルディアナ。
大陸南部、人間族の領域にある宗教国家だ。神ディアナを信仰する国であり、国の元首には王ではなく教皇がついている。
教皇はフェルディアナにおいて唯一神託を授かることのできる人間として存在しており、政治のほとんどは教皇に決定権があった。そのためか、フェルディアナは国として非常にまとまっている。今代の教皇においては、反乱どころか政治的意見の対立すらも起こっていない。
この国において神は絶対であり、教皇は神の現し身である。
如何なる人民も、神ディアナの下では平等である。という文言に違わず、フェルディアナでは貧困という概念がほぼ存在しない。
神のお膝元である皇都に限らず、全域で食料、衣類などの生活必需品が配布されているのだ。その管理についても、神に使える聖騎士団が就いているためフェルディアナは豊かな国として知られていた。
かといって完全に統制されているわけではなく、冒険者ギルドや他国の商会なども設置が許されている。
そんな神の国フェルディアナの酒場に、1人の男の姿があった。男、というよりも、少年と言った方が相応しい。そんな体躯だ。
何を隠そう僕、アレスである。
週に一度の休日だからか、酒場は昼間から賑わっている。そんな中で、僕はマントを羽織りながらジュースを飲んでいた。まだ未成年だからね、飲酒ダメ絶対。
こんな所で何をしているかと言えば、情報収集だ。あと観光。
フェルディアナの情勢についてだったり、有益な情報を盗み聞きするためにジュースを飲んでいる。僕の強化された聴覚を持ってすれば、この騒がしい室内で幾十もの声を聞き分けるなんて容易いこと。
スパイもかくやという諜報能力だ。こんな街の酒場でも、役に立つ情報というのは思ったよりもある。
その最たるものが、教皇についての情報。
そして、【聖女】に関することだ。
教皇が神の声を聞ける者なのに対し、聖女は神に愛された者のことを指す。神とはまた違う存在だが、まるで神のように民の信仰を集めている存在だ。
先代の聖女が亡くなったのが比較的最近のため、今の聖女は若いはず。聖女が同じ時代に複数人現れることはなく、前代の者が死んでから生まれてくるのがルールとなっている。
好感度という面では、教皇よりも人気があるかもしれない。そりゃ、おっさんより若い女性の方が良いというものだ。
見目麗しいという噂も幾つかあったので、人気が出るのも納得である。美人さんなら、魔王としても敵対のしがいがあるので嬉しい。
二時間もすればほとんどの話を聞き終える。立ち上がり、会計をして酒場を出ると、太陽の光が目に眩しい。会計の時、店員さんに滅茶苦茶睨まれた。二時間も居座ってジュース一杯しか頼まなかったからかもしれない。
お金を節約しているのだからしょうがない。睨まれても止めるわけにはいかないのだ。
フードを目深に被り、歩き出した途端。
「だ、誰か.....」
そんなか細い声が聞こえてきた。
シエラ・エルジエナは走っていた。場所は皇都の路地裏。普段なら入り込まないような道に、追いかけられている内に誘導されていたのだ。
必死に足を動かしながら、シエラは後悔する。
きっかけは些細なことだった。護衛の目を盗み、少し街を見ようと走り出した。通りに出たはいいものの、人が多くてぶつかってしまった。その相手が、この辺りでも有名なマフィアだったのが運の尽き。
それから、その部下にずっと追いかけられている。護衛の所に戻れれば良かったが、移動したようで元の場所にはいなかった。
「いたぞ!こっちだ!」
横道から大声がし、それに続いて足音が聞こえた。シエラは方向転換し、別の脇道へと走って行く。
先程からそんな事ばかりだ。逃げ切ったと思えば、すぐそこから追手が顔を出す。まるで、こちらの動きが見えているかのように。
そんなことが、何分続いただろうか。
途中で足がもたれ、シエラは転んでしまう。運動をしていなかった自分を呪うも、今となってはもう遅い。
背後からの足音に肩を振るわせ奥に逃げるが、待ち受けていたのは無情な行き止まり。絶望している間にも、足音は更に大きくなっていく。
「よ〜くここまで逃げてくれたなぁ、ガキが」
身なりの良い男に続き、部下と見られる男達がゆっくりとシエラに歩み寄る。見下ろす瞳には酷く敵意がこもっていた。
「ん?よく見たら中々の上物じゃねえか。売れば良い金になりそうだ」
一言も喋れない。喉が声を出すことを拒否している。
圧倒的な恐怖の前で、シエラにはなす術もなく。
自らに伸びてくる手に涙を流し、震える唇を動かした。
「だ、誰か.....」
たすけて。の四文字も言えず、途轍もなく小さな声。勇気を振り絞っても、そんな声しか出ない自分に嫌気が指す。
「そんな小っせえ声で誰が来るかよ!」
笑われ、涙で視界が一杯になった時。
それは舞い降りた。
マントに身を包んだ、黒髪の少年。建物から飛び降りたからか、フードが外れて端正な顔立ちがあらわになる。
「僕が来るよ」
マフィアの男達に颯爽とそう言い放ち、シエラを守るように立ちはだかった。
鮮烈な登場に面食らうも、降りてきたのが子供であることに気が付きマフィアは勢いづく。
「おいおい、手前もガキじゃねえか。しかも上物。大人しくすりゃ暴力は振るわねえぜ?」
下卑た顔でそう提案する男に、少年は冷めた視線を送る。昏く底が見えない瞳を真正面から見て、男は言いようのない不安を覚えた。
「不愉快だな....非常に不愉快だ」
男の問いに答えず、少年はボソリとそう呟く。その呟きは、男達を激昂させるには充分だった。
「あぁ!?おい、お前ら!やっちまえ!」
「あ、危なっ!」
後ろにいた男達がナイフやらパールやらを取り出し、少年に向け振りかぶる。あらゆる方向から振り下ろされた凶器を難なく躱し、目の前に立っていた男を殴り飛ばした。
2回目の攻撃を繰り出す間もなく、少年が視界から消える。目にも止まらぬ速度で残りのマフィアを片付け、奥に立っていた男に歩み寄った。
「な.....?いつの間にぐっ!」
何が起きたのか分からないという表情の男の首を掴み、壁に押さえ付ける。
「お前みたいなクズを見てると虫唾がはしるんだ。余計な悪は、僕の世界に必要ないんだよ」
シエラには聞こえないくらいの声でそう言い、少年は手から魔力を流し込んだ。
「が、がああっ!」
数秒もせずに男は動かなくなり、だらりと手が垂れる。路地裏には、再び静寂が戻った。少年——もといアレスは振り返り、座り込むシエラのもとへ。
「大丈夫?怪我は....ないみたいだね」
転んで擦りむいたはずの膝が、いつの間にか治っている。シエラが目を白黒させている間にも、アレスは倒した男達を片付けた。ボコボコにされた大人を見せるのは情操教育に良くないと判断し、脇道に吹き飛ばしたのだ。
「歩けるかな?うん。ならこんな所、早く抜けよう」
「は、はい.....」
シエラはアレスに手を引かれ、表通りへと歩き出した。少しすれば、懐かしいとさえ感じる陽光が顔を出す。安心して改めて、シエラは自分を助けてくれた少年を見上げる。
シエラの年齢は六歳。それを加味すると、アレスはおおよそ15歳前後だと思われる身長をしている。
美しい黒髪と力強い意志を感じさせる瞳に、シエラは柄にもなく見惚れてしまう。途中で視線に気がついたのか、アレスがこちらを向いてにこりと微笑んだ。凝視していたことに気が付かれ、シエラは恥ずかしさに顔を俯かせた。
「シエラ様ー!どこにいらっしゃるのですかー!」
すると、遠くからシエラを呼ぶ声が聞こえてきた。御付きの者の声に、シエラはぱっと顔を上げる。
「君を探してるみたいだね。それじゃあ、ここでお別れだ」
繋いでいた手を離し、アレスはさようならと手を振る。そうしてシエラに背を向けて歩き出そうとした時、シエラは堪らず声を上げた。
「あ、あのっ!」
「ん?」
アレスはシエラに視線だけ向け、続きを促す。
「あ、貴方は何者なのですか?」
名前を聞こうと思っていたのだが、つい変な言い回しになってしまった。言い直そうとするも、シエラを見つけた御付きの者が先に到着する。
アレスの姿が人混みに消える瞬間、シエラの耳にはっきりとした声が届いた。
——魔王だよ。
群衆のその先に、黒い瞳が見えた気がした。
「ありがとうございましたっ!」
お礼を言っていないと気づき、シエラは急いでアレスの消えた方向に叫ぶ。シエラにアレスの声が聞こえたのと同様に、アレスにも確かにシエラのお礼は届いていた。
この時のアレスの心境は、「顔を見られてしまったけど子供だし大丈夫だろう」というものだ。だからこそ、魔王だとまで名乗って場を去った。
しかし、アレスは気が付いていない。今も、未来も。
「大丈夫ですか?シエラ様。いえ、【聖女様】」
シエラという少女が聖女であり、かつ人の魂を見抜く眼を持っているとは。