焦燥
三題噺もどき―ひゃくはちじゅういち。
お題:指輪・黒髪・焦燥
窓の外は、夏の日差しが支配していた。
もう暦の上では秋だというのに。真昼の今は、夏がいまだに居座っている。その色で、町を支配する。
それでも確かに季節は移ろうと思えるのは、小さな生き物たちがいるからだろう。
「……」
夏の象徴の虫は失せ。
大きな目玉と細長い体を、薄い四枚の羽で支え飛び交う彼らが、居るから。
正直、あの夏の虫も鬱陶しいのだが、秋のこの羽虫の飛ぶのも鬱陶しさがある。なんというか、ふらふらと飛ぶものだから。せわしなくて、見て居られない。
「……」
しかしそれらも、今は飛んでいない。
目の前にも。
窓の外にも。
視界には、入ってこない。
「……」
昼間は、陽の光が入るからここがいいと。
そう言って決めた小さなアパートの一室。薄いレースカーテンに覆われた窓から、柔らかな日差しが、室内を照らす。
外に出た際の攻撃的な光が、嘘のように。柔く、温かく、その光は、入り込む。
「……」
堅いフローリング板の上には、薄手のラグが敷かれている。
冬場は、毛足の長いのを置くが、今はまだ夏。薄い、涼し気な、水色を基調とした柔らかいラグ。
―僕の趣味ではない。
「……」
その上には、小さなテーブルが一台。
1人で使う分には丁度いいが、2人で並ぶには少し狭い。
―それでも。並んで。笑って。
「……」
そのすぐそばには、大きなビーズクッション。人をダメにするというあれだ。
本当はソファでも置きたかったのだけれど。色々と邪魔になりそうだということで、こちらにした。おかげで掃除もしやすいし、くっついて座るには案外丁度いい。
―2色の、色違いの、それを2つ。ピッタリと合わせて。並んで。座って。
「……」
けれど。
今。
いま、は。
「……」
その、クッションの上に。
僕が使っていた。
グレーの。
それの、上に。
「……」
さらりとした、美しいその黒髪をバラリと広げて。
まるで扇のようだと思えるほどに。そんな風にセットでもされているかのように。
髪が。
美しくて、綺麗で、大好きな。
―大好きだった。長い。髪が。
「……」
陶器のような白い肌は。
血の気が引いたように一層白く。
青白くなっていて。
その中を流れる赤が、どこか別のところへと溢れでもしたのかと思えるほどに。
白く。白く。青白く。
その肌を。染めていて。
それを包む白いシャツよりも。
白く、白く。
「……」
けれど、その白いシャツは。
白いはずのそれは。
代わりにとでもいうように。
じわりじわりと。その色を失い。
赤く、紅く。染まっていく。
「……」
その赤の。
中心に。
「――
僕の。
手がある。
「――
手が握る。
何かがある。
「――
黒い持ち手を握り締めて。
その先にある何かが。
「――
深く。
深く。
「――
彼女の中に、沈んでいる。
「――
その赤は、どこまでも広がり。
クッションすらも赤く染めていく。その床までも、紅く染めようと。とめどなく溢れてくる。
どこにそんな量の赤を隠していたのだと、嫉妬すら覚えるほどに。
ジワジワと。どくどくと。じわじわどくどくと。
「――
もうピクリとも動かないそれは。
その人は。
「――
結婚すると約束していて。
互いに誓って。
楽しく、穏やかに暮らしていたのに。
「――
なぜか突然。
『別れる』
と言い出して。
「――
訳も分からないままに。一方的に別れを告げられて。怒鳴られて。
僕は、彼女が、あの人が、僕のものでなくなると。
「――
ただそれだけ。
「――
そんな焦燥に襲われて。居ても立っても居られなくなって。
「――
それならばいっそ。
そうなるのならいっそ。
貴女が、僕以外の愛を望むのなら。
「――
ひたすらにそう思ってしまって。
「――
ジワリとゆがむ視界は。
もう何もかもが手遅れだと悟り嘆き。
それでも懺悔はしない僕への羞恥ゆえだろうか。
「――」
もう戻らないそれを。
あの人を。
最愛の彼女を。
ただ茫然と見つめる。
「……」
床には、先程彼女が乱暴に投げ捨てた指輪があって。
お揃いにした。婚約指輪。
それは、ジワリと赤く染められ。
1人静かに、熱を持っていた。