マイネームイズ…!
私は自分の名前が嫌い。
ええ、心底嫌いなの。
キラキラネームだから?
……いや、キラキラっていうのとは違うかな。
漢字の画数が多くてテストで不利?
そういうネタでもない。
具体的なことを言わずに匂わせするのもなんだからはっきり教えるわよ。
私の名前は市川最子。
普通でしょ、ですって?
最子、これを口に出してみなさいよ。
そう……サイコ、サイコよ!
ええい、私は快楽殺人者じゃないわよ!
人も猫も愛する普通の一般人よ!
「名は体を表す」なんて昔の人は適当言い過ぎ。
自分の名前は親が決めるの! 私が好きで決めたわけじゃないの!
ちなみに命名理由は「何かに最も秀でた子に育ってほしいから」だって。
アバウト! 曖昧!
ある分野で世界一を目指す名前なんて、気軽に付けないでほしい。
……ふう。
ということで私の名前は市川最子。
サイコという言葉を知った小学6年生の夏以来苦しみ続けている、この春から大学一年生になったばかりのうら若き女子よ。
・・・★
4月中旬を過ぎた今日の夜、見学のために訪れた映画製作サークルの新歓コンパがある。
新歓コンパってのは、要するに新人を勧誘するための飲み会で、もっと言うと春を迎えた大学生のバカ騒ぎ。
花見も兼ねて酒とつまみで盛り上がって近辺の住民に迷惑をかける一大イベント。
もちろん、未成年はお酒を飲まない飲ませないの精神だから安心して。
サークルによってはお酒を勧めたり、無理に飲ませるような悪質な人たちもいるらしいけど……そこは身構えて悪の手に落ちないように気をつけてる。
夕暮れの光が差し込むワンルームの一室で、卓上の鏡を見ながらため息を吐く。
一昨日の夜に参加した別の映画製作サークルの新歓コンパ。
見学のときから感じていたけど、かなりフランクというか大雑把というか……雑な印象のサークルだった。
新歓コンパに行くか迷ったものの、初めての大学生ということもあって物は試しだ行ってみなくちゃ始まらない、と自分を鼓舞して参加した。
結果としては……大失敗。
最初に自己紹介があって、当然名前を大勢の前で喋って……あとは想像通り。
「サイコ!? マジかよ、コエー!」
「さ、サイコパスなんですか……確かにぽいかも!? なんつって!」
「好きな映画はもちろん『サイコ』でしょ!? それとも『アメリカン・サイコ』!?」
映画サークルだけあってほとんどの人が『サイコ』という作品を知っていた。
だから私の名前は一発で全員にネタとして共有され、コンパの2時間は私の名前をつまみとしておおいに盛り上がった。
「サイコさん! 二次会いくっしょ?」
行くわけないでしょ!
・・・★
映画を初めて見たのは小学2年生の夏だった。
恐竜が出てくる映画や手に汗握る大冒険の映画、宇宙人との出会いや近未来のディストピアを描いた作品。
それらを手掛けた監督の作品に魅せられて、私はどんどん映画が好きになっていった。
好きなものはより深く知りたいと思うのが当たり前。
映画の歴史や技法書を読んでいくうちに、ある監督の存在にたどり着く。
アルフレッド・ヒッチコック。
サスペンス映画の神様とも呼ばれる、映画界のレジェンド。
彼の観客の心を切り刻むような作品によって、私はこれまで以上に映画にのめり込んでいった。
そして忌まわしき……いえ、作品は素晴らしいものだけど……私にとって呪いとも言える作品に行き着いた。
それが『サイコ』という映画。
ネタバレは避けるけど、タイトル通り狂気を描いた作品。
映画を見て……その内容の素晴らしさに打ちのめされて……その後に不安が残った。
私、名前がサイコなんですけど?
・・・★
慣れない化粧と慣れない服を着て慣れない家を出る。
新歓コンパの行われる駅に電車で向かう中、サイコという言葉を知ってから今までの日々を思い出す。
中学1年生の頃はまだよかった。映画好きといっても最新作ばかりで古典的名作に目をやる人は少なかったし。それに子どもだから知識もなかった。
問題が起き始めたのは中学2年生になってから。
映画とは関係なく「サイコ」という言葉を誰もが知り始めて、そこから私の名前についてのいじりが始まった。
女子はさておき男子はひどかった。
「サイコ!」
ある時は名前も知らない別のクラスの男子からからかわれ、またある時は知らない男子から背中を叩かれたかと思ったら「サイコパス」と書かれた紙が貼られていたこともあった。
ほんっとくだらない。
幸いなことに女子は私の味方で、誰も名前をいじってくることはなかった。
でも、私が傷つくことを気にしてか、誰も名前を「サイコ」とは呼んでくれなかった。
「さっちゃん」とか「さこ」みたいにボカしたあだ名。
気遣いは嬉しかったし、あだ名も好きだったけど……ちゃんと本当の名前を呼んでほしかった。
・・・★
新歓コンパの会場は桜が咲き乱れる広い公園だった。
烏龍茶を口にしながら映画談義に花を咲かせる。
ああなんて至福の時間!
映画を好きな人たちが集まって、作品のテーマや演出や技法、俳優の演技に至るまであらゆる方面から話題にあげて分析して盛り上がっている。
この前のサークルの人たちに比べると誰もがのんびりしているというか、アットホームな感じで「ああ、ここで映画を作れたらいいなあ……」と思い始めていた。
私は下の名前は名乗らず「市川です」とお茶を濁して決定的な時を先延ばしにしていた。
「はーい、そろそろ自己紹介といきましょうかー。あー簡単な感じでいきましょう。自分の名前と好きな作品を1つって感じで。好きな理由についても喋っていいかな、でも喋りたい人だけはって感じで」
「持ち時間とかあるんすか?」
「んんー……まあ長くて3分かなあ。でも目安でいいよ。10秒で終わってもいいし1時間語ってもいい!」
部長の言葉に「1時間はなげーよ!」というツッコミが入る。
穏やかな時間……癒やされる。
縁側でお茶を飲むおばあちゃんの気持ちで現実逃避していたら、私の番が近づいてきた。
早い……!
座る位置を考慮するべきだった。
できるだけ部長の話を聞きたいと思って近くに座ったのが仇になった。
私が鬱々としていると、隣に座っていた男性が立ち上がった。
「おつかれさまですー。とりうみわたるって言います。鳥に海に冴え渡るのわたる……さんずいの渡ですね。好きな映画はアルフレッド・ヒッチコックの『鳥』です。理由はー……」
「自分の名前に鳥ってついてるからだろー」
「わはは、そうですね! 他人事とは思えないタイトルだったんで。映画を見たきっかけは自分の名前だったんですけど、好きになったのは作品のパワーですね。やっぱりヒッチコックは偉大です……っと、喋りすぎました! 次の人、変な感じでハードル高くなってたらゴメン!」
ヒッチコック好きかあ……シンパシー感じる……。
『鳥』もいいよね……ん、次の人……私か!
「お、おつかれさまでっす! わわっ!!」
勢いよく立ったせいで、手に持っていた紙コップから烏龍茶が少しだけこぼれる。
こぼれた烏龍茶は、隣に座っていた鳥海さんにかかってしまった。
「お、雨?」
「ごめんなさい、雨じゃなくて烏龍茶です……」
「ごめんよ、俺が喋りすぎたせいでプレッシャー出ちゃった?」
「い、いえ! 順番に気が付かなかっただけで……!」
と、自己紹介のために立ち上がったまま場を無視して話しすぎていることに気がつく。
ええい、何も気にせずさらっと名前を言って座ろう。
「おつかれさまです! 名前は市川……市川最子です。好きな映画は『第9地区』です」
言ってから、鳥海さんと目が合った。
「それと……好きな監督はたくさんいるんですけど、私もヒッチコック好きです。以上!」
言って、どかっと座る。
な、なんでヒッチコックが好きなんて言ってしまったんだ。サイコという単語をより印象づけるだけじゃないの……で、でも鳥海さんがヒッチコックという名前を出したから、もはや手遅れだった?
緊張と混乱でわたわたしているとぽんぽんと誰かが肩を叩いた。
ニコニコした鳥海さんの顔があった。
「ヒッチコック好きなんだねえ! おんなじおんなじ! 今日は語っちゃおうよ!」
え、あれ……私の名前、気にならないの?
落ち着いて周りを見ると、すでに次の人の自己紹介に移っている。
誰も「サイコだってよ……」「サイコとかウケる!」なんて口にせず、単に自己紹介の言葉ににこやかに反応を返しているだけだ。
「市川さん、どうしたの?」
もしかして、聞き取りづらかっただけかも……うん、これだけの大所帯だし他人の名前なんて興味ないだろうし?
でも、逆に私に聞こえてないだけでヒソヒソと笑われていたら?
「おーい、起きてるかー」
「ベタなツッコミですね……」
「ベタって言われると傷つくー」
鳥海さんの笑顔にほだされて、勇気を出して聞いてみる。
「鳥海さん」
「鳥海くん、でいいよ」
「それ、あんまり変わらないような」
「さん付けは少し距離を感じるからなー」
「ええと、じゃあ鳥海くん。私の……名前って聞こえた?」
「市川さん?」
「言うと思った……じゃなくて下の名前」
「んん? サイコでしょ?」
聞こえていたか。
でも、この反応なんで?
サイコの言葉を知らない?
でも、ヒッチコックが好きだって言うし……?
「変だと思わなかった? だってサイコのサイコだよ?」
「なにそれ最後の最後みたい。新歓コンパという最後の晩餐か……しょぼい!」
「じゃなくて、サイコパスのサイコだよ!?」
思わず声を荒げてしまった。
だって、今までと反応が違いすぎて。
何を考えてるの、この人!
「ああ、ホントだ! そういう意味もあるね!」
「そういう意味って……じゃあ、どういう意味だと思ってたの?」
「え? サイコーってことでしょ? 最高のサイコ。いい名前じゃん」
あ……。
その屈託のない笑顔に、私の視界はぐしゃぐしゃになる。
楽しい宴の最中、私は泣き出してしまった。
・・・★
「ごめん、泣いちゃって」
「いいよ、泣きたい時だってある」
新歓コンパは1次会で抜け、私は鳥海くんとマクドナルドに来ていた。
泣き出した理由を話すと、鳥海くんは「その男子ひでーな」「わかるわー」と私の話を茶化さずにゆっくりと親身に聞いてくれた。
「俺もさ、名前でからかわれたことがあって」
鳥海くんの場合、鳥と海という単語から「かもめ」というあだ名を付けられた。
鳥海くんとしては「かわいいし、いいか」と気にはしていなかったものの、高校生の時に好きだった女子に告白したら「かもめくんとはちょっと……」とあだ名で拒否されたらしい。
「こっちは真剣なのに、あだ名で返されたのがショックでさー。しかも、次の日にクラス全体に伝わってて、かもめだからミャアミャア泣いたのか? なんて言われて」
「それはひどいね……」
「しってる? ミャアミャア鳴くのはウミネコで、かもめはくぅくぅ鳴くんだよ?」
「知らなかった……え、その情報って今いる?」
鳥海くんは「ツッコミはやいー」とくふふと笑う。
コーヒーを口にして一息つき、コンパでの言葉を思い出す。
最高のサイコ……かあ。
初めて言われた。
自分の名前にそんな解釈があったなんて。
「私ね、自分の名前が嫌いだったの」
「うん」
「みんな私のことをバカにしたり、向き合ってくれなかったりして……ずっと、友達とも距離を感じてた」
「そうかあ」
「でも、違ったのかも。誰かのせいにしていただけだったのかもしれない。本当は私が、自分自身でこの名前を好きになるようにがんばるべきだったのかなって」
「名前はね、パートナーだから」
「そうね、生まれてから死ぬまで一緒」
「死ぬまでって……サイコさん、シリアスだね。さすが好きな映画が『第9地区』なだけあるね」
「ニール・ブロムカンプはサイコーよ?」
「わはは、ちゃんとフルネームが言えて偉いね。言いたくなるもんね、あの名前」
「うん、思わずフルネームで言いたくなる」
サイコさん、か。
今日知り合ったばかりの男性なのに、なんだか心地が良い。
自分の名前を好きになってきたからか、それとも……。
「うう、私ちょろいのか?」
「チュロス?」
「いや、なんでここで揚げ菓子」
「チュロスといえばディズニーじゃん?」
「そうだね」
「だから今度さ……その、ディズニー行かない?」
「……映画を一本作ってから考える」
「ハードルたかっ!」
市川最子。
私の名前は生まれたときから変わらずそこにある。
昨日までは嫌いだった名前も、今では少しだけ好きになりつつある。
ほんの少し見方を変えただけで、世界は思わぬ姿を見せるのかも知れない。
だから私は映画を撮ろう。
この世界をもっと好きになるために。